谷口ジロー『シートン』第1章「狼王ロボ」


シートン 第1章 (1)

 もう数年前のことだが、テレビでネズミの捕獲作戦をやっていたのを見入ってしまったことがある。
 ぼくの住む東京の23区西部で、ネズミが大発生。
 ある商店が毎夜ネズミに陳列してある菓子やカップラーメンなどを食い荒らされるという被害に遭い、そこでネズミを一網打尽に捕獲しようという作戦を追ったものだ。

 詳細を忘れてしまったが、最初にしかけた罠にはまったく効き目なし。
 次にしかけた罠には、軽々ととびこえて平気で菓子にたどりつく。あざ笑うかのように糞までしてある。
 その次は警戒させすぎてダメ。
 などなど万策尽き果てたときに、窮余の一策で、これまでの罠を複合的にしかけたものをつくり、「これがダメならもうあきらめる」という覚悟でしかけるが、見事にネズミがかかる……という特殊カメラを使ったドキュメンタリーで、何の気なしに見始めたのに、最後まで見てしまったのである。

 今泉吉晴が原案を描き、谷口ジローが作画を担当した本作『シートン』は、よく知られる『シートン動物記』を漫画化したものである。
 第1章として選ばれたのは有名な「狼王ロボ」であるが、ぼくは、かの『動物記』を読んだことはなく(児童文学版をふくめて)、これが初めての“シートン体験”となる。

 職場においておいたら、谷口の画風を毒づきながらページをぱらぱらと繰っていた友人が、やがて黙ってしまい熱中していた。その様子ひとつをとってみても、この漫画がいかに魅力的かがわかる。

 19世紀末のアメリカ西部、砂漠の岩山と豊かな草原が入り交じるニューメキシコ州のカランポー高原が舞台で、そこに家畜を襲って被害を与えつづけながらも、どんな人間の手によっても絶対に捕まえることのできないオオカミの一団がいた。
 それがロボの率いるオオカミの群れだった。
 物語の前半で、カランポーにかわるがわるやってきてロボをしとめようとするウルバー(オオカミ猟師)たちの悪戦苦闘ぶりが紹介される。
 ウルバーたちの奇策が念入りに描かれるが、ロボの知恵はそれを上回るのである。
 上質の軍記ものを読んでいるような面白さだ。

 そこにシートンが起用される。
 谷口=今泉は、パリで活躍する画家としてのシートンをまず描く。
 オオカミの“気高い暴力性”を見事に描くシートンはパリの画壇には受け入れられず、その人間中心主義に絶望してシートンはアメリカに渡るのである。

 漫画としての見せ場はここからで、そのシートンがあらゆる策をつかいながらロボと対峙するのであるが、常にロボがその知恵を上回る。そして、まるでロボは人間であるかのごとく、シートンの奇策をあざ笑うしぐさをしてのける。

 そして、「これが失敗したなら もう……私はロボを追うことはないだろう」という最後の策をしかけるのである。

 この漫画の面白さのもっとも根幹をなすものは、「動物との知恵比べ」というモチーフである。
 冒頭に、ネズミとの知恵比べのテレビ番組を紹介したが、率直にいって、面白さの質がほぼ同種のものだと思った。
 シートンの面白さをそんじょそこらのテレビ番組といっしょにすることに、不遜さをみるむきもあるだろう。たとえば、今泉は巻末の解説で、

「旅する画家であり、ナチュラリストであるシートンは、自分の使命として、進歩した東部から遅れた西部へと金を流して暴利をむさぼる資本家に対し、崇高な西部の精神を東部に伝える道を選ぶのですが、ロボの生きざまこそ西部の精神を代表するものであることを、まずシートンが身をもって学ぶことになったのです」

とのべているように、シートン=今泉が伝えたかったのは、「近代的人間知の勝利」ではなく、まるで逆の、それに抗する精神の自由であり、「知恵比べ」を楽しんで動物への勝利に酔おうとするのはもってのほか、ということになる。

 だが、そうではあってもやはりこの漫画・作品の面白さの圧倒的部分は「知恵比べ」に依存しているとぼくは思う。どこまでも人間に屈しないロボの気高さに感動するのは、「ぼくのような俗物」ではないひとびとであろう。

 「動物との知恵比べ」というモチーフは、わりとだれでも面白く描くことのできるものではないか、と思う。先のネズミのテレビ番組がいい例である。

 実は、ぼくの職場、なかでもぼくの部署がある部屋が「ネズミの出没」に悩まされた時期がある。
 ある日、おいておいたお菓子が食べ散らかされ、糞がそこらにしてあった。
 すでに各フロアでネズミの被害が話題になっていたので、ネズミだと直感した。
 ぼくの部署のある部屋は、非常階段へぬけるドア(いつもは閉まっている)をのぞけば、出入り口はひとつしかない。したがって、このドアを閉めて帰れば、ネズミは侵入できないはずだとまず考える。で、ドアをきちんと閉めて帰る。
 ところが、翌朝もその次の朝もまたネズミが出没した後があり、被害が甚大であった。
 ということは、「ネズミはこの部屋のなかに潜んでいる」と推論できる。
 ぼくらは戸棚の下や段ボールのカゲなどを隈無く探したが、ネズミは見当たらなかった。
 で、次にうった作戦は、ネズミを捕獲することであった。
 まず、いわゆる金網式のネズミとりを買ってきて、チーズや煮干しなどをおいておいた。
 ところが、ネズミはそんな罠などまったくひっかからず、逆に、あざ笑うかのように、机のなかにしまってあったイソジンのうがい薬のひきちぎり、机中に黒褐色のイソジンをぶちまけ、糞や小便をしてまわっていた。ななななんたること。
 「金網式のはダメだよ。いまはトリモチ式のがいいんだよ」と別のフロアでネズミを捕獲した同僚にいわれ、大量のトリモチシートを買ってきて、夜、机のうえに配置して帰った。机の上をあばれまわっていたからである。
 翌朝、このトリモチシートの粘着面が乱れに乱れた後がある。「おしい! かかりかけたんだ」と色めきだったが、すぐに他の部署の同僚がきて「昨日、あんたたちが帰って電気がついてないこの部屋に書類をくばりにきたんだけど、書類をおこうとした瞬間、なんかものすごいねばっこい板に手をとられてしまったんだよ」と告白。なんのことはない、ネズミではなく、同僚がかかっていたのである。

 ぼくは、ネズミが高笑いしているかのような錯覚におちいった。

 その後、ぼくは、ネズミについて図書館にでかけて数冊の本を読んでみたのだが、「都会にいるのはクマネズミとドブネズミで、もともと森林などに住んで木登りが得意なのがクマネズミである」(したがって屋上に近いぼくの職場に出没していたのはクマネズミである)、「クマネズミは視覚はそれほどでもないが、嗅覚と聴覚は異常に発達している」、「極度に警戒心が強く、いつもと違う環境(罠などを新しくおく)があると、絶対にそこには近寄らない。『ネズミは人間のやることを天井からみている』といわれるほど人間の罠には警戒心が強い」、「(高度成長期前の)日本では食料の1割がネズミによって失われている」、「ネズミは信じられないほどの小さい穴から出入りする」、「イモなどが大好物」――などということがわかってきた。

 こうした特性をふまえると、対策として「穴という穴をふさぐ」「食物などを部屋におかない」――などの消極策であるがそれが一番有効であることがみえてくるのである。

 たぶん、才能がある人がやれば、もう少しつっこめば、これだけで「知恵比べ」のドラマができてしまうのではないかと思う。ぼくも、ネズミの本を読みながら、ネズミという生物の奥深さを知ったし、それとの「知恵比べ」自身もなかなかに「楽しい」ものであった。

 だから「動物との知恵比べ」というのは、エンターテイメントたる漫画の素材としては、実はまだまだ極められていない豊かな鉱脈なのではないかと思うのである。
 ただし、だれでもやれそうなだけに、構図が意外に単純で、連載ものなどにしようと思ったら、「単調」になるきらいがあるだろう。生物のもつ特性の奥深さだけで毎回勝負していくしかないが、「うんちく漫画」が隆盛をみせているだけに、わりとあたるんじゃないかと思う。

 単調の危険をのりこえて、大ヒットをとばしたのは、いわずもがな、矢口高雄『釣りキチ三平』である。「魚との知恵比べ」というのが毎回のテーマで、それはそもそも釣りというスポーツ・娯楽のテーマでもある。そのテーマの豊潤さを知る矢口であるからこそ、長寿の、しかも追随を許さぬほどのすぐれた大作になった。

 絵も決定的であると思う。
 矢口にしろ谷口にしろ、まさに「自然主義リアリズム」ともいうべき精緻さが特徴で、昨今のヲタ系の漫画家には絶対に不可能である。そういえば、陽気婢の漫画にはしばしば川釣りをするシーンが出てくるけど、もちろんあの絵柄で「動物もの」なんか描けるわけがないのである。描かなくてもいいし。

 ファンサイトで知ったのだが、谷口は、本作を描くより数十年前、70年代に、すでに「学習漫画」として子どもむけに「シートン動物記」を描いており(シリーズのひとつ)、やはりそこでも「狼王ロボ」を描いている。谷口自身が深く対象を愛しているのだ。

 対象に対する徹底した愛着や取材、精緻な自然画――このふたつの「掘削機」があれば、「動物との知恵比べ」ものというジャンルは、まだまだたくさん掘ることができる豊かな鉱脈ではないかと思うのである。絵はうまいけども、昨今の萌え系漫画の流れにはのれない、とかいう漫画家さんがいたら、こういうヒネリかたはあるのではないか。それとももうそんなのは、やられつくしているのかしら。





作画:谷口ジロー、原案:今泉吉晴
『シートン 旅するナチュラリスト 第1章「狼王ロボ」』
アクションコミックス 双葉社(以後続刊)
2005.4.8感想記
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