中川智香子「市場社会主義を考える」



 単行本ではなく、「現代思想」誌2004年4月臨時増刊の「マルクス」特集に掲載された小論文である。
 イタリアでひらかれた学会で筆者がハイエク研究者によびかけて「市場社会主義?」というセッションをおこなったことをひとつの材料にしたものだ。
 この論文の骨格の一つは、つぎのようなものである。

 ハイエク研究者(つうかハイエク主義者)たちの結論は、1920年代以来マルクス主義・社会主義は「市場」にたいして譲歩を重ねてきたが、最後の砦である「市場社会主義」さえ成り立ちはしないというものだった。しかし実際には、ハイエク自身が戦後愕然としたように、自由主義者たちが「経済への介入」に譲歩を重ねてきた歴史というものが存在しているのだ、と(中川によれば、「リベラル」を意味する言葉がニューディール政策やケインズ型政策の容認などの「介入主義」の許容のニュアンスをふくんでいるのはその反映である)。

 中川は言う。もっとも集産主義的なマルクス主義者であったとされるレーニンでさえ、「コマンディング・ハイツ(管制高地)」という概念をしめしつつ、市場へのあゆみよりをした。逆に、ハイエクが「自由主義の追悼文」とまで嘆いた、自由主義者たちの集まりであるはずの「自由文化会議」のセッションでは、「資本主義か社会主義かという従来型の二分法の空虚さが論じられ、混合経済が参加者の多くによって認められた」という事態がおきた。

「『市場が機能するのを許容する。しかしコマンディング・ハイツは国家、もしくは政府が握っている。これを最も重要なこととみなす』という見方は、社会主義の側にも、自由主義の側にも、さらには敗戦国、発展途上国にも共有された。……(中略)……ともあれ、この立場は、社会と市場を連結した構成単位ととらえ、コマンディング・ハイツの名の下に、要所ひいては細部に至るまでを、権力の介入を含む合理的調整にゆだねるものである。この見方からすれば、市場社会主義の台頭が、マルクス主義にとっても、自由主義にとっても、決定的な一歩を踏み出す契機となったといえる」

 自主ゼミをいっしょにやっていたぼくの友人が、宗教の宗派のちがいを「登山口」のちがいにたとえたことがあった。

「けっきょく、同じ頂上をめざしてのぼっていくわけですから、あるところまで行くと似てきますよね。だから、登山口の違いだけで争っているっていうのは、まあのぼりやすいとかにくいとか違いは多少あるでしょうけど、あんまし意味がないと思いますよ」

 普遍性にいたる道はいろいろあるけども、けっきょく世界というものが意識の外に唯一のものとして外在しているとき、「真実」は同じような方向へ収斂していく。
 完全な集産・計画経済でもなく、市場による「自己調整」でもない、市場と介入を自由に組み合わせた経済こそ来るべき社会の経済であることは、いまやうたがいない。マルキストであるぼくがめざす経済はそのようなものである。

 「それは社会民主主義ではないのか?」という問いにたいして、おそらくイメージされる経済はそれと似たものだろうとぼくは答える。中川は論文の前半で、この市場社会主義の代表的論客であるローマーについて簡単にふれているのだが、「彼によれば社会主義者が望むのは、自己実現と幸福、政治的影響力、および社会的地位という三つの要素への機会の均等である」というのだから、その実現をするための経済を構築するのだとすれば、あまりマルキストも社民主義者もかわらなくなる。

 しかし、違いがあるとすれば、その根本的な違いは、資本というものへの認識だろう。
 「資本主義的生産過程を推進する動機とそれを規定する目的とは、できるだけ大きな資本の自己増殖、すなわちできるだけ大きな剰余価値の生産、したがって資本家による労働力のできるだけ大きな搾取である」(マルクス『資本論』)――ナイーブに市場の活用だけを考えるのではなく、商品交換(市場)のなかから資本が生まれ、資本がたえず利潤の最大化を求めようとするという認識があるかどうかということになるだろう。

 この認識から、コミュニスト固有の行動原理がうまれる。
 たえず利潤原理を最優先しようとする資本と資本の権力。そのもとでの「改良」や「構造改革」ではなく、利潤原理を考慮しつつ、それを第一原理としない政治=権力の確立(革命)が必要だというのがコミュニストではないかと思うのだ(それは一国経済を前提としているのではない、というギモンがあるかもしれないが、それはまた別の機会に)。




「現代思想」2004年4月臨時増刊号 総特集「マルクス」
2005.9.25感想記
この感想への意見はこちら

メニューへ戻る