さそうあきら『神童』



 友人から「いまとなりの席に座っている同僚とクラシック談義になった際、『のだめカンタービレ』をぜひ読むべしと強烈に薦められて、その気になりました」「もし持っていたら、貸していただけませんか?」というメールがきて、『のだめ』を貸すことになった。

 ぼくが家で『のだめ』をそろえている最中、「しかし、音楽漫画といえば、やはり『のだめ』というより『神童』だろう」という思いがむくむくとわきおこってきた。
 『のだめ』がクラシック人口をにわかにひろげ、関連CDがとぶように売れている、という話は聞いているんだけど、その友人はたとえば、さっとドビュッシーとかを弾いてしまうくらい音楽の心得のある人なので、そういう人には『のだめ』よりも『神童』だろうと思ったわけ。『神童』は、普段の性向は奔放だが、音楽にかんしては極限までの繊細さをもつ小学生5年生の天才ピアニスト・成瀬うたと、落ちこぼれ音大受験生の菊名和音(かずお、「ワオ」)との交流を描いた話である。

神童 (1)  しかし、このサイトに『神童』の短評がのっているように、実はぼくは7年ほど前に、その「短評」をつけて同書をバザーに出して売ってしまったのである。だから手元になかった。
 仕方なく文庫版のほうを書店でふたたび買い求め(右の書影は文庫版ではない)、7年ぶりに読んだ。

 読んだが、すげーわ、これ。やっぱり。


 むらむらと感想が書きたくなって、サイトの「ひとりで勝手にマンガ夜話」に感想があったことを思い出し、その感想を読み直してみたのだが、あまりに的確で(注意:ページをひらくとショパンの「舟歌 嬰ヘ長調 作品60」が流れます)、今さら何をぼくが書くのかとくじけてしまった。


 ただ、このサイトとは別で、ぼくがお気に入りの「漫画読者」というサイト(最近は更新がない)での感想を読み直している最中に思い直したことがあった。

 こちらの感想は、98年4月のもので、物語が完結していない時点でのもの。
 このサイトの管理人・椛澤美洋は、ちょいと民俗学的な視点からではあるけども、物語から「少女」や「性」というキーワードを嗅ぎとった。
 破瓜による能力の減退、という、このサイトの予見は外れたが、こういう匂いをこの物語に感じたことは、ぼくとしては何だかわかるような気がした。



エロティックな印象


 「ひとりで勝手にマンガ夜話」の白拍子泰彦は、この漫画のラストについて、「音を通じて触れ合うふたりの親密な関係・恋人でもなく父子のようでもなく兄妹でもなく、音が取り持つ絆が最後に『感性』によって結ばれる性差・年の差・才能の差を凌駕した純粋な交歓」へと昇華していくことを指摘していてまことに正しいと思う。
 同時に、「漫画読者」管理人の椛澤が「『神童』は性的描写をうりものとする作品ではなく、ただ無垢な少女が登場するというマンガであるのに、読むものに少女が『汚される』妄想をなぜかもたらしてしまいます。これはあながちわたくしの性的妄想のありかたのみに責任があるわけではないでしょう。眼球の処理にベタを避けた白っぽい画面のさそうあきらのこの作品から性的な妄想を紡ぎだすのは、多くの人にとって意外に難しくはないはずです」と指摘していることにも、説得力を感じる。

 さそうの少女描写には、聖潔さとともに、性の匂いがたちこめている。

 冒頭、うたを夜道にワオが送っていくシーンで、ワオが「オレが小学生を襲う変態だったらどーする」とふざけて聞いているのにたいして、うたは「いいよ襲っても」と答える。また、ワオがうたの家庭教師をやることになるシーンで、うたの母親は「あんたロリコンじゃないでしょね」と詰問する。
 そして、うたは初潮をむかえると同時に、ワオに恋心をいだいてしまう。

 うたが性的な身体をもった生身の少女であることが、強調されるとともに、さそう自身がおそらく、うたへのペドフィリア的な念をこめて描いている。生々しく、そして美しいのだ。
 呉智英は、この作品を読んだとき、うたという少女に感情移入をしたと書いているけども、ぼくはあくまでうたという少女が放つ、性的な香気を嗅ぐ側にいつづけた。それは白拍子が「性差・年の差・才能の差を凌駕した純粋な交歓」だと指摘したラストにいたるまで保たれ続けた。音楽で悟りが開けぬぼくが抱え続けた煩悩である。しかし、だからこそ、この作品は不用意に傾いていて面白いのだといえる。


 これは、単にうたの描写の問題にとどまらない。
 音楽をつうじての、それこそ「交歓」とはエロティックなものだ、という描写が、さそうのこの作品にはいたるところに登場する。

 いちばんぼく的にエロかったのは、ワオが賀茂川香音(かのん)という声楽科の音大生と知り合い、香音の唄のピアノ伴奏をワオがつとめるシーンである。
 足を小さく、しかし、しっかりと開き、すっくと立ってドビュッシーを唄いはじめる香音の描写がまずぼくの心をとらえる。

「ちょっとハスキーで甘くて
 はかなくて せつなくて でも――
 強い声」

というワオによる香音の声の描写のとおり、その「強さ」が伝わってくる絵である。
 おそらく、それ以前に何事にもオドオドビクビクしている香音のエピソード描写があり、唄っている香音の眉間も少し困った風な調子があることが「甘さ」や「はかなさ」「せつなさ」を伝えるのだろう。
 しかし、大きく開いた口と、大胆な全身描写が「強さ」を伝えるのだ。

「不思議……舟に乗っているみたい」「気持ちいい……」

と香音は唄いながら、ワオのピアノ伴奏について「感じる」。ピアノ伴奏をしているワオもそれにからみあうように熱気をこめて伴奏をつづける。教授が「ストップ」というのなんて聞いちゃいない。止まらないのだ。

「2つの糸がよりそい
 からみあい――

 何かいけないことを
 しているようにもりあがり」

 その演奏の「クライマックス」で、声をあげる香音の顔が大写しで描かれ、ついに香音の声は校舎の窓ガラスをつきやぶってしまう。いうまでもなく音楽的「絶頂」の表現だ。この荒唐無稽さがすばらしい。

 話している男女(あるいは同性同士)一般ではなく、言葉のやりとりを楽しみあっている二人がいれば、そいつらは性的な関係にある、といえる。言葉を媒介して精神的にセックスしているようなものだ。
 だとすれば、音楽をつうじて「からみ」をおこなうことなんて、本当にいつでもすぐあるんだろうなと思う。音楽がいつでももっている要素ではないとは思うけど、ときどき見せる一面だと感じる。

 『のだめ』と『神童』、どちらが優れている、劣っているという話ではなく、どちらもぼくは楽しめたわけだが、『のだめ』ではこのエロティックな描写や雰囲気がほとんどない。それゆえに、ぼくは『神童』のほうに、心をあやうい調子でなでつけられながら惹かれてしまうのだ。



音・音楽を何で表現するか――絵


 ところで、この漫画は文化庁メディア芸術祭優秀賞を受賞していて、さそうは「大好きな音楽を音で表現するのではなく、絵だけで表現するのではなく、エピソードとして表現していく漫画を目指しました」という受賞の言葉を残している。
 文庫の裏表紙には「絵だけで表現するのではなく」という言葉がとれて「大好きな音楽を音で表現するのではなく、エピソードとして表現していく漫画を目指しました」とある。

 なるほどエピソードで表現されている。絵で必ずしも表現されていないシーンも多い。
 しかし、『のだめ』が主に聴衆の反応で演奏の壮絶さを表現するのにたいして、やはりさそうのこの漫画の特徴は「絵」による表現だろうと思う。

 以前書いたぼくの短評では、ワオの隣家のそば屋のおばさんが、苦情をいうつもりで、うたの演奏する部屋に入ったとたん、見開きいっぱいの「千曲川」の情景をその部屋に見る、というエピソードをとりあげた。美空ひばりの「川の流れのように」をまさに「絵」で表現したのである。
 ワオに恋心をいだいたうたが、ワオからもらったリンゴを雪のなかでかじる場面もある。リンゴをかじる音でワオが選んだリンゴというもの、そしてワオそのものを意味する「音」を感じるのだ。実りそうにない、しかし、ワオを誰よりも強く思っている、うたの恋心が、たいへん切なく表現された名シーンで、ここを読んでいるとちょっと涙が出てきてしまう。

 ただ、こうした交響詩的な、いわば音楽=情景という表現は、実はそんなに多いわけではない。だから、さそうはわざわざ「絵だけで表現するのではなく」と書いたのだろう。
 しかし、ある意味これは漫画なのだから、絵で表現することが中心になるのは当たり前で、音譜の大河のなかをセッションする二人の男女や、セックスで表現される連弾、落語の「抜け雀」のようなタッチで表現される演奏、そしてラストの、さまざまな人の思いをのせた演奏など、「エピソード」で表現するというさそうの中心にはやはり「絵」がある。
 文庫化にあたって、さそうは、うたの演奏シーンを大幅に加筆したようだが、ときには聴衆の反応であったり、あるいは鳥たちの自由な飛翔であったり、やはり「絵」によって表現することを加えたのである。

 残念ながら『のだめ』は、音楽(演奏、音)を何で表現するか、という点でも、やや単調で、その点でもぼくはどうしても『神童』の方を偏愛してしまうのである。



『マエストロ』への違和感


 ところで、さそうの新しい音楽漫画『マエストロ――巨匠』はまだ連載がつづいているようなので、最終的な評価はまだなんともいえないが、絵がおそろしく後退している印象をうけた。
 さそうの絵はヘタだヘタだといわれながら、先ほど述べたような「色気」、とくに美人の描写には一種の艶があった。ストップモーションにような動きのなさでさえ、すでに味であった。
 ところが、『マエストロ』では、『神童』にあった艶がなくなってしまっている。さらに、以前はデッサン人形のような「不器用さ」とともに、「正確さ」があったのだが、それさえも崩壊して、筆も荒れていた(これを洗練とよぶ人がいたら見てみたい)。

 他方で、中身は音楽論的に過激ともいえる先鋭化がおきている。宮崎駿は『もののけ姫』をつくったとき「論文」だといわれたが、それと似ている。一種の「音楽論文」だ。指揮棒の振り方ひとつから、オーボエのリードづくりにいたるまで、音楽「オタク」的な知識で武装され、その集積体として漫画がある。
 それはそれで実験的だし、じっさい1巻は面白かったのだが、『神童』のもつ味わいとはまるで別のものである。






全3巻 双葉文庫
2006.1.9感想記
この感想への意見はこちら

メニューへ戻る