「思想地図」創刊記念シンポジウム「国家・暴力・ナショナリズム」を読んで



 眼病を患っております。
 というと大げさですが、角膜びらんという症状で、目ん玉の表面の皮がかわいてズルっと一部むけてしまうのです。ドライアイみたいなもんを想像してもらえればいいでしょうか。寝ている時に目の中がかわくので朝起きるときまぶたを開けるのと同時に、ズルっといってしまうのです。その瞬間目に激痛が走ります。

 半年くらいまえから2カ月に1度くらいのペースでくりかえしており、「再発性角膜びらん」などといわれています。まあ、そのまんまの名前ですけど。ふつうは朝だけでケロっとなおります。ごくたまにそこが炎症をおこすのかどうかわかりませんが1日中眼球を動かすたびに激痛が走る症状が続くことがあり、目のなかにガラス片を入れたような痛さです。
 それでも痛みはふつう1日、長くても2日でおさまりました。ところが今回は2日ほどで痛みはひいていったのですが、予後の過ごし方が悪かったのか炎症をおこしまして、しみるように痛くなってしまい眼帯生活に。1週間でなおるはずなのに、はがれた部分がなかなか再生せず、もう1カ月も眼帯生活を送っています。

 保育園に娘を送っていくと同じクラスの子がまじまじと見ていますし、年長クラスになると群れるように集まってきて「どうしたと!?」「どうしたと!?」。「おじさんの商売は海賊なんだ。ゴールド・ロジャーの宝を探しているうちに、やられてしまったんだ」。
 眼帯ばかりの日々。
 こんなときにできるのは……そう綾波レイごっこくらいでしょうか。

「紙屋さん帰っちゃうとこの仕事できないなあ」
「私が死んでも代わりはいるもの」

(症状のある目のほうから病理的な涙がこぼれたとき)
「これは……涙? 私……泣いてるの?」

(ものすごいしょうもない企画書が出たとき)
「ごめんなさい。こういうときどんな顔をすればいいか分からないの」

などと!
 なにをそんなことをえんえんと書いているかというと、だからあんまり本や漫画が読めないっていう状況なんですよ! という言い訳でした。いろんな仕事の約束がたまってしまったり、片目でパソコン画面を見たりしている今日この頃です。



敬称を略すること



思想地図 vol.1 (1) (NHKブックス 別巻)  そういう言い訳をまず前置きしてなんですが、雑誌「思想地図」まったく手に入りませんでした。5時に保育園に迎えにいく生活なので本屋に寄るヒマもないうえ、紀伊国屋書店に聞いたら「もうありません」といわれたので、ずっと読めずにいました。
 それでようやく手に入ったのが先日。しかし、眼の症状のためになかなか読了がすすみません。それでもまあ、ようやっといくつかの文章を読み終えました。

 実は、ブログ「伊藤剛のトカトントニズム」でぼくについて言及してあるエントリをみたので、あ、これは読まないと、と思ったのですがなかなか手にできなかった次第なのです。
http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20080428

 どうでもいいことですが、ここで「伊藤剛」と書くべきか「伊藤剛氏」と書くべきか「伊藤剛さん」と書くべきかちょっと迷います。まったく知らない人ではなく、上記エントリにもあるように一度はお電話でお話ししたことがありますから。
 このホームページでは基本的に「敬称略」でやってきました。ぼくは決断力のない人間なので、いちいち「さん」「氏」とかつけていたらその敬称にどういうニュアンスをこめるかなんていう瑣末なことに小一時間も頭を使ってしまいそうなのです。だいいち、ホラ、ホメたりするときに敬称があるとクールじゃなくてなんかヨイショしているみたいだし、悪口とか書いたりするときには切っ先がニブるじゃありませんか。
 とくに一度でもコンタクトをとったことがあるという人には、「さん」とか「氏」をつけているのですが、作家やプロの物書きの人、ブロガーの場合は、再度作品を評したりすることがあるわけで、いつまでも敬称をつけていると距離感がわからなくなってしまいます。

 というわけで、長々と書きましたが「伊藤剛」と敬称を略しておきます。はい。
 いずれにせよ「思想地図」の伊藤剛の論文はざっと見ただけなので、このページではそれについて何か書くことはできません。何か書けるかどうか、あるいはあえて書く必要そのものがあるかどうかも、いまのところよくわからないわけですが。




あえて「嫌韓」「ぷちナショ」を話題にしない



 そんなふうに書いておきながら、そのあといきなり「思想地図」vol.1の中身についてあれこれいうのもナンですが、冒頭の記念シンポジウム「国家・暴力・ナショナリズム」について一言。

 東浩紀・萱野稔人・北田暁大・白井聡・中島岳志らによる共同討議です。
 「国家・暴力・ナショナリズム」とありますが、基本的にナショナリズム論ですよね。
 東が最後に「『国家・暴力・ナショナリズム』というタイトルにもかかわらず、今日、僕たちはほとんど嫌韓やぷちナショナリズムを話題にしませんでした。これは実は意図的です」「国家やナショナリズムを主題として掲げたとき、嫌韓とかぷちナショの話ばかりになってしまうこと自体が、僕たちの想像力の限界を示しているのではないか」とのべています。

 ぼくも最近「マンガから聞こえるナショナリズム」という一文を書きましたけども、そこでは小林よしのりや『嫌韓流』などについてふれることはありませんでした。そしてあえてマルクスがナショナリズムを必要としていたことや、ぼく自身がある意味でナショナリストであることも書きました。「これは実は意図的です」。

 「国家やナショナリズムを主題として掲げたとき、嫌韓とかぷちナショの話ばかりになってしまう」というのは、旧来の左派の一部にあるような、ナショナリズムというものをそのまま排外主義であるとみなして、「国家」や「ナショナリズム」を安易に「否定」することで安住してしまうようなそういう気分にかかわっています。

 ぼくの結論は「この世が主権国家の集合体である以上、世の中をよくしようと思えば、その主権国家をよくしていく以外にない」(メルマガより)ということにつきます。だからこそ日本という国家に積極的にかかわり、それをよくしていくために献身する、ということです。ぼくはある種のナショナリストであると自認しています。

 もともとぼくがサヨクになった動機の一つはそれでした。
 ぼくは高校時代、校則を変える運動にかかわっていましたが、よく考えると自分は学校のことだけじゃなくて、この社会そのものにたいして何の関与もできない非力でちっぽけで受動的な存在ではないのかという思いです。
 自己決定にたいする激しい無力感ですね。
 そして自分の運命ということを媒介にしながら、では日本国家そのものを何か動かしたりコミットしたりできることで自分がただ流されるだけの存在ではないようにしよう、としたのが左翼組織に入るきっかけになったのです。徒党を組まなければ社会にたいして無力すぎる、と。一人で何か変えられるというのは、自分は実は組織やマスコミの力を使って何かメッセージを発していることを隠して、善良な人をダマしている「文化人」たちのタワごとなのです。ひとは群れなければ社会を変えられません。




「方法としてのナショナリズム」に同意する



 したがって、この共同討議のなかで中島が提起した「方法としてのナショナリズム」というのに大変共感をもちました。どういうことかというと、ナショナリズムというのはもともと国民の草の根のもので、「国民の力で国家をつくる」というエネルギーだった、というわけです。それをあとになって国家の側が、太古の昔から私たちは同じ「民族」だったんだよ、という偽装をして囲い込んでしまう、という逆転があったというのです。
 だから、「私たちがここでしっかりと考えておかなければならないのは、ナショナリズムを全否定したり、あるいはナショナリズム=悪だという簡単な立場に立ったりすることではないはずです。解体しなければならないのは、ナショナリズムが原初性を偽装している部分であって、初発のナショナリズムは『国家は国民のものである』という国民主権の主張としてあったわけです」(中島)ということになるのです。
 まあ、他の人の簡単なまとめを借りると、「ナショナリズムとはある側面から見れば、そもそも主権在民という発想にすぎない」(白井)、「『方法としてのナショナリズム』は国家の決定プロセスに参加し、国家をコントロールするための動機づけになる」(萱野)ということです。

 ぼくはナショナリズムを「ナショナリズムは本来、身分の差や部族の違いをこえて、みんな『平等』な国民となり、お互いを『友愛(同胞愛)』で結び、『自由』な政治主体(公民)としてその国をよくする義務を果たそうという運動、エートスである」と規定しました。まさに「民主」と「愛国」の結合がナショナリズムだと思います。ただしぼくの場合は、「民主」に必死でとりくんでいればすなわち自然と国をどうよくするかを考える「愛国」というものになるのであって、なんか日本民族の誇りとか文化的同質性とかそういうキモイものをわざわざ「愛国」のベースにおく必要は全然ないわけですわ。

 ハンス・コーンの有名なナショナリズムの二分法によるならば、文化などの同質性に重きを置く「東のナショナリズム」と、国民の政治へのかかわりを重視する「西のナショナリズム」があるわけですが、中島は後者を重視するというわけです。

 ちなみに、井崎正敏は『ナショナリズムの練習問題』のなかで、後者はやがてアメリカをその典型例とする「市民的なナショナリズム」となり、その普遍的価値を化け物のように他国に押しつけていくという限界を露呈する歴史をあげています。その民族独自の方法としていろんな国の制度があるんですよ、というわきまえがないと、他国が「遅れて」いることにイラだちそれを押しつけてしまうわけです。ただ、それはぼくは副作用みたいなもんで、それをどう抑制するかを後で考えてよく、とりあえず「主権在民」の方法としてナショナリズムを肯定的にとらえていくことには賛成なのです。




東は結局自分の「気分」の追認にすぎないのではないか



 気になったのは東浩紀の論調です。
 東は「方法としてのナショナリズム」に批判的なのです。いや東は、はっきり「反対」と述べています。

 東の次の発言は東の立場を端的に表しています。

「公共性は、必ずしも国家を介して発現されなくてもいい。選挙行かないから、国政の話題に関心を示さないから公共性がないということではない。地域コミュニティでボランティアに参加するのでもいいし、あるいは仮想的な社交空間、ネット上でもいいわけですけど、そういうところでのコミュニケーションもそれなりの公共圏を作っているはずです。
 そういうとき、『とはいえ国家こそが公共性の最終審級なのだから、みなもっと国家の管理に関心をもとう』という話ではなく、その分散した公共性の存在を前提として、それら現場で行なわれている行為を社会全体のコントロールにうまく利用するシステムがあればいい、とどうして考えられないのか。
 この発想をつきつめていくと、極端な話、議会制民主主義なんかもうどうでもいいんじゃないかということになります。数年に一度、国民の意思を問うお祭りに、本当に未来の国家像がかかっているのか。もっと効率的な意思集約と決定のプロセスがあってもいいのではないか」

 萱野はこれを聞いておいおいとたしなめています。
 「決定の正統性をどこから調達すべきか、という問題を国家はやはりネグレクトすることはできない。国民が選挙で決めた人が決めたから、この決定は正統なんだ、という正統性の担保はどうしても必要になります」。この萱野の発言とそこから少し前にしている発言「東さんの問題意識はよくわかるのですが、そうなると質問したくなるのは、決定が正式なものだという事態はどうやって担保されるのか、ということです」をつなげてみると、わかりやすい。
 国家ほど危険なものを正式な決定ぬきに、そんなアモルフにその意思を決められるわけねーじゃんという、国家の暴力性や危険性をよく承知した萱野らしいツッコミです。

 もし東がそういう問題を忌避しようとしているのであれば、これほど呑気な話はないでしょう。ただ、さすがに東はそこまで気楽なことは言ってないんじゃないかと思います。国家そのものをコントロールすることは否定しないし、ネットとか地域コミュニティとかの議論とかもおりこめるようにして、なんらかの方式でかっちりとその手続きが決まる、というようなことを考えているんじゃないかと思いますが。
 そのあたりの肝心なことを明示してくれないので、萱野があわてたように、東がとんでもなく気楽な議論をしているように読めてしまいます。

 彼がモデルとしているイメージは「市場」であり、「ネット」です。

「たとえば、ルソーの一般意思を、じつは社会契約論でも何でもなく、市場が実現するものとして考えられないか。たとえば、ある財を購入する行為は、消費者は自分の欲望だけで動いているわけだけど、結果的には一つの意思表示になっている。そしてそれが集約されて市場が資源配分を決定する。それをルソーの一般意思と繋げて考えられないか。言い換えれば、ルソーをロールズからではなくハイエクから読み直せないか」

 なぜわかりにくいルソーの「一般意思」を前半にもちだしてきたのかと思ったらこういうことだったのか。
 たとえば、Googleによる世界政府という思考実験があるわけですが、あるアルゴリズムにしたがって検索の順位を出していくシステムみたいにして意思決定をする、というようなことは一つのイメージになるかもしれません。
 あるいは、たとえば集めた税金を、市場的な行動の結果最適解が導かれそれによって配分する、みたいなことをイメージしているのでしょうか。

 よく経済における「市場経済」と政治における「民主主義」をセットでいいますよね。なんかアメリカみたいですが(笑)。どちらもみんなで決めるっていう「すばらしい」システム。しかし、東は民主主義というものも、いまのような議会制民主主義のようなのはソ連のゴスプランに似ていると思っているのでしょう。一堂に会してそのあとの資源配分や方針までこまごまと決めるのはできっこない、非効率だ! というわけです。それも「市場化」させてしまおうというわけです。

 しかし、東の念頭には市場とかインターネットみたいなことがあったのでしょうが、こればかりは何らかの具体的なモデルを示してもらわないことには賛成のしようがありません。市場にしてもネットにしても、比喩にしかすぎないわけですから。比喩や類推はどこまでいっても、モデルそのものではないのですから、それが議会制民主主義以上のものかどうかはまったく判断できないのです。

 ほとんどその原理をしめすことができないにもかかわらず、東が「方法としてのナショナリズム」を否定して話をすすめていること自体にぼくはあやうさを感じます。結局そこには「嫌韓」や「ぷちナショ」を特別に問題視する「ナショナリズム否定」と同じような感情が底に流れているんじゃないかということです。
 んー、もうちょっとぶっちゃけていうと、東自身が議会制民主主義にかかわってきたことがあまりないというその現状、その気分をただ追認するだけのものになっているんじゃないか、ということです。いや、実際にかかわってこなかったかどうかよく知りませんけど。
 思想はそれをつむぎだす人の客観的立場に大なり小なり拘束されているものですが、それでも自分の立場、あるいは気分を追認するだけのものに、もしなってしまうのだとしたらやはりそれはまずいでしょう。ナショナリズムの市場化、ナショナリズムのハイエク化という着想は、「現実の拘束を解き放たれた自由な思想」のように見えて、実は「現実を知らない思想」になってしまいます。
 
 以下、余談になります。立場性とか論者の気分といえば、東ではなく北田の発言ですが、「先進諸国でナショナリズムをかろうじて支えることのできる実体的な基盤としての国民の共通利害は、セキュリティに収斂しつつあるといえます」と言っていますが、少なくとも日本をみるかぎり、ホントにそうかよ、と思います。
 東京都の都民意識調査における「都政への要望」でなぜか石原都政の途中から急に「治安対策」がトップに躍り出たのはびっくりしたことがありますが、全国的な国政への関心の向け方からすると、世論調査ではたいがい1位が社会保障で群をぬいてトップ、2位が景気か税制です。治安対策っていうのはホントに下の方で、安全保障という項目でみてもそんなに上位にはいきません。
 セキュリティなんてナショナリズムの問題として心配しているのは、大学のセンセイくらいゆとりのある人の話じゃねーの? そういう論者の立場性とか気分とかがモロ立論に反映してねえか? と思います。





NHKブックス別巻
「思想地図」vol.1
2008.5.19感想記
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