アリストテレス『詩学』


 山崎豊子の大河小説、たとえば『大地の子』(残留日本人孤児)、『二つの祖国』(日系人収容所)、『沈まぬ太陽』(日航の労組弾圧)。
 この三作の主人公は、ぼくにはどれも同じようなキャラにみえる。

 謙虚な正義漢、といった造形。

 山崎作品が好きなくせに『沈まぬ太陽』を読んだ友人が、「主人公が正義漢すぎてつまんない」といったけど、実は、山崎作品の主人公はどれも似通っているのだ。作者の「萌え」も多分に入ってるだろうなあと思いつつ、これだけとりだしてキャラにしてみると、あんまり魅力はない。

 しかし、それは山崎豊子の小説においては、なんら瑕疵ではない

 山崎の小説は「大河小説」とよばれるにふさわしく、善良な人間、それも「どこにでもある善良さ」が、歴史のとうとうたる奔流の前に、翻弄されつくす。なおもそのなかで良心が光るというのが隠し味であるが、基本は、「歴史の激流のなかで翻弄される運命」という「筋」そのものが山崎作品の本質的な魅力である。

 アリストテレスは言う。

「(悲劇にとって)もっとも重要なものは出来事の組みたてである。……出来事、すなわち筋は、悲劇の目的であり、目的はなにものにもまして重要である。……悲劇は、行為なしには成り立ちえないが、性格がなくても成り立ちうるであろう。……たとえある作者が、性格をよくあらわしていて、語法と思想によって巧みにつくられた演説をつぎつぎとならべても、悲劇の効果はえられないであろう。しかしこれらの取りあつかいが劣っていても、筋、すなわち出来事の組みたてをもっている悲劇なら、はるかによくその効果をあげるであろう」(『詩学』p36〜37)

 筋がしっかりしていりゃあ、極端な話、キャラなんてなくても創作はできるよ、というわけである。

 アリストテレスは、この本の中で、ソポクレスの『オイディプス王』を絶賛しているのだが、たしかに、『オイディプス王』を読んでいても、オイディプスやイオカステに極彩色の性格付けはされていない。「わー、オイディプスってカッコいいなあ」「イオカステって素敵」とか、いわゆるキャラ萌えとは縁のない世界である。

 『オイディプス王』は、破滅へとむかって急速に収斂していく、その運命の渦のようなものに、読者であるぼくらもものすごい勢いで呑まれていくというところに、醍醐味がある。
 まさに「筋」(ミュートス)の力。

 対照的な小説家として、司馬遼太郎がいる。

 司馬の魅力は徹底した「キャラ」づくりにある。
 司馬の歴史小説ファンは、竜馬のキャラに、信長のキャラに、道三のキャラに萌えまくる。
 司馬の小説には筋らしい筋がないといっていい。歴史そのものが縦糸たる「筋」ではあるが、歴史自体の筋などはあまり大きな関心を払われていない。
 じっさい、司馬の叙述は、あっちへぶらぶらこっちへぶらぶらと、一見脈絡がないようにみえる。しかし、読み終えたとき、ぼくらは信長という人物を、竜馬を、道三を、はっきりと表象することができる、というギミックが周到に仕込まれているのだ。

「筋は、一部の人々が考えているように、一人の人物にまつわるものであれば統一があるというものではない。なぜなら、一人の人物には多くの、数かぎりない出来事が起こるが、これらの出来事のあるものからは、統一ある一つのものはけっして生まれないからである」(『詩学』p41)

 司馬はこんなアリストテレスのたわごとなんて知ったこっちゃないのである。
 わかりやすい、単相のキャラ。
 たとえば、信長について、鮮烈で、単相のキャラをつくりだす。中世的秩序の革命的破壊者にして、人間を徹底した道具材料視する機能主義者、と描き出すのだ。
 この単相キャラの造形は、斎藤環が指摘しているように、日本の漫画・アニメ的世界のキャラによくなじむ。萌えを誘うのである。

 2chのしょぼい右派たちが、しばしばアニメ的ロリヲタであり、かつ司馬ファンだという根源は、そこらへんにあるんじゃないかと思っている。


『アリストテレース「詩学」 ホラーティウス「詩論」』
松本仁助・岡道男訳(岩波文庫)
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