香山リカ『しがみつかない生き方』




「〈勝間和代〉を目指さない」にヤラれたクチです



しがみつかない生き方―「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール (幻冬舎新書)  本屋でパラパラと立ち読みしたとき、こんな雑談みたいなもので本が出せるのかと呆れた(おまえの本はどうなのだという反論はとりあえず棚に上げておいたことは言うまでもない)。

 しかし、香山が本書で、

〈たとえば私の場合、いまの社会を精神科医として見渡して思いついたことが出てくると、それを何とかして人に伝えたい、と思う。「せっかくだからこれをみんなに言ってみようかな」という素朴な気持ちが、本を書くときの動機の大半を占める〉(p.157)

と書いているのを見てもわかるように、〈思いついたこと〉を〈素朴な気持ち〉で書くのがこの人のスタンスであり、むしろそのような雑談のような形式だからこそ多くの人が対話相手のようにしてこの本に相対し、26万部も売れるのだろう(09年9月8日付朝日新聞広告参照)。

 ぼくがこの本を買うにいたった最後の一撃は本書第10章「〈勝間和代〉を目指さない」という章タイトルだった。「何が書いてあるのだろう」という……いや、もっと正直に言えば「ほほう、香山リカは勝間和代をネガティブに意識しておるんですか。へへえ。なるほど。ふーん」というひどく俗な関心によって食指を動かされたものである。アマゾンのレビューやブログの評価をみても、この章タイトルに惹かれたという人が非常に多く、購買意欲を起こさせるコピーを考えついたのはもうすごいとしか言いようがない。ちょっとのぞいた地元の紀伊国屋書店もこれをポップに大書していたから、売り込みのネーミングセンスとしては抜群だったといえる。
 




本書のターゲットは…



 香山は本書で、どのような精神状態の人間を想定して、そこから解放させるべくこの本を書いているのだろうか。すなわち香山のターゲットだ。

 2000年代以前に香山の診察室を訪れる人は、「飽くなき成功願望」、別の言い方をすれば高望みをしてそれが入手できないことに満たされなさを感じていた。

〈ところが、二〇〇〇年代に入って、診察室で「幸せではない」と訴える人たちの状況が少し変わってきた。/客観的には“ふつうに幸せ”なのに、それではもの足りないと思っている貪欲な自己愛タイプも少なくはないのだが、それとは違うタイプの人たちも増えてきたのだ。/たとえば、“ふつうの幸せ”はとりあえず手に入っていて、それ以上はとくに望んでいるわけではないにもかかわらず、「これがいつまで続くのか」「これで満足してよいのか」と自問しているうちに、何が幸せかわからなくなってしまう、という人たちがいる〉(p.16)

 さらに、

〈それからさらにここ二年ほどは、“ふつうの幸せ”ではもの足りない、とそれを侮蔑しているわけでも、続けられないかもしれない、と先回りして不安に陥っているわけでもないにもかかわらず、現実的にそれを手にできない人も増えている。つまり、「何かあっても何とかなるだろう」という仮定が、実際に成り立たなくなっている〉(p.21〜22)

 ここでは、香山が例をあげているのだが、いわゆるワーキングプアやセーフティネットの破綻といったような現実が想定されている。つまり、ごくごく当たり前の幸せが手に入らない、手に入ってもそれがいつか続かなくなるのではないかという「不安」にさいなまれる、という精神状態を、香山は想定しているのだ。




ワープアに「お金にしがみつかない」とか言える?



 しかし、ワーキングプアやネットカフェ難民といった〈いまや“ふつうの幸せ”が手が届かない最高の贅沢となっている人たち〉(p.25)に本書の第8章「お金にしがみつかない」とか、第4章「老・病・死で落ち込まない」とか命令されたって、一体どうしろというのかという気になる。仕事を休めば解雇されホームレスに転落する危険が身近に迫っている人に「お金にしがみつかない」「老・病・死で落ち込まない」ということほど空しい説教はないだろう。
 そのような逆説的なタイトルで誘導して、実はびっくりするようなことが書かれているかもしれないと思って読むのだが、そんなことはまったく書かれておらず、タイトルから想像される通りのことがストレートに書いてあって、別の意味でびっくりするのである。
 〈いまや“ふつうの幸せ”が手が届かない最高の贅沢となっている人たち〉に〈まだ根深い「お金が第一の価値観」〉(p.164)などと説教してみて何がどうなるというのか。ケンカを売っているのかとしか思えない

 本書で随所に表面される政治観をみると、ぼくにとって香山はかなり近い存在だということがわかる。
 香山は本書の第5章「すぐに水に流さない」において〈なぜ小泉・竹中コンビは責任を問われないのか〉という節タイトルで、構造改革路線は格差を広げたものであってとして批判し、こういう権力の誤りこそは〈水に流して〉はいかんのではないかと息巻いている。
 また、ナチスドイツの精神病患者の〈断種〉の歴史をふりかえり、「あの人って反社会性パーソナリティ障害だよね、犯罪予備軍としか言いようがない」と即断する若い医師をナチへの道だと批判している。
 イラクでの人質事件を契機にした「自己責任論」への批判のまなざしにも共感できる。
 だから、政治的に見て、お前(紙屋)には香山などよりももっと批判すべき対象の人間がいるんじゃねーのかというツッコミがありうると思う。まあそうだよな、と思わなくはない。

 そうであるからこそ気になるのかもしれない。




近い政治感性なのに、結論が真逆に



 政治や社会の問題で、何を問題と感じるか、という感性は近いのに、ここで書かれている問題のえぐり方は、近いところを通り抜けながら全然あさっての方へ行ってしまっているのだ。

 たとえば後期高齢者医療制度。

〈しかしこれも…「高齢者は不必要な厄介者だ」という価値観が先にあって、それに基づいて作られた制度ではないだろう。先にあったのは膨れ上がる医療費の問題であり、それを何とか抑制しようとしたところ、結果的に高齢者が「長生きでごめんなさい」と高齢であることをわびなければならない事態を招いてしまったのである〉(p.92)

 まあ、たしかに高齢者憎しというイデオロギーが先にあってつくられた制度ではないというのはそうかもしれない。しかし、そこから、

〈だとすれば、そんな“浅知恵”の結果を深読みして、「ああ、年を取るのはそれだけで悪なのだ」「高齢者は社会の厄介者だと社会が声をあわせて言っているのではないか」などと考える必要もない〉(p.93)

という方向に結論づけられているのは、あれあれあれと思ってしまう。

 長生きそのものではなく制度が悪いんですよ、とはまことにその通りなのだが、「そう言われても…」というのが正直なところではないか。厚労省の役人や財界が「年寄りは早く死ね」という奇妙な宗教に憑かれているわけでないことは多くの高齢者が知っているはずだ。しかし、制度が「言って」いることはまさしく「年寄りはコスト高だから早く死んでくれ」ということなのである。後期高齢者医療制度に限らず、年金といい、介護保険といい、自民党政権下の社会保障全般が「高齢化社会」という看板で語っていたことは、「年寄りはコスト高だから早く死んでくれ」という強圧なのであり、思想と制度を切り離したからといってそれは何一つ解決しないし、気が楽になるわけではない。コスト、それにもとづく制度設計によって、実際に社会のなかに「年寄りはコスト高だから早く死んでくれ」という思想が育っているのだから。

 〈老いは良いものでも悪いものでもない〉(p.92)という中立性を説くためには、思想と制度を言葉の上で「切り離せ」と百万回言ってみても無意味だ。老いのコストを社会が十分に引き受けられ、心配しなくてもいいという制度設計の展望を示す以外に、それは切り離すことはできないのである。

 これでは無力な「ポジティブ・シンキング」とそう選ぶところがないではないか。




「子どもを持つ女性がいちばん有利な時代」?



 さらに驚くのは〈子どもを持つ女性がいちばん有利な時代〉(p.135)という虚言である。
 香山は大学の女性研究者支援は、実際には「子どもをもつ女性研究者支援」であって、子どもを持たぬ女性研究者はまったく恩恵を受けないではないかと批判する。

〈いまでは「子どもを持つ女性がいちばん有利」という時代が来たのだ〉〈「子育て女性が有利」という逆転のあおりを受け、むしろ彼女たち〔未婚・未出産の女性たち〕が不利な扱いを受ける、ということはないだろうか〉(p.136)

 大学だけの話かな、というふうに読めなくはないが、まさか大学論をここでしたいわけではないだろうから、社会全般に普遍的なこととして香山は考えておるのだろう。寝言はネグリジェを着てから言え、というココロ社の名言を香山に進呈したい。

 こういう感情は、働く女性のなかに存在する。たとえば下記のような記事はその典型だ。

逆差別ではないのか、「子育てで残業免除」 女性も制度に甘えているだけではダメ:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/skillup/20081208/179450/?P=1

 この記事を書いた田澤由利は結婚し3人の子育てをしながら起業し成功した女性である。他方で香山は子どもを持たない女性である。
 香山は「子どもを持たぬ女性」のイデオロギーを、田澤は「子どもを持つ女性としての成功経験」および「中小企業経営者」としてのイデオロギーをそのまま垂れ流しているということだろう。
 いずれにせよ、香山がそのような立場からすべての人にむけた「子どもにしがみつかない」という説教をすることの困難は目を覆わしむるものがある。




しがみつかない生き方はつまらないのでは



 総じて、本書でテーゼとして提示されている10のルールの多くはそれほど突飛なことではない。だからこそ、「そんなこと言われても、どうすりゃいいわけ?」と問い返したくなるのである。
 別の言い方をすれば気持ちの持ちようや発想の逆転で解決することではない、ということなのだ。
 たしかに精神科医のように、そのことに固執する相手に系統的に接することができるのなら、話し相手になりつつ「しがみつかないで」というメッセージを繰り返し送信することによって病的な憑き物は落ちていくのかもしれない。
 あるいは宗教的な共同体があるような場所にいる人も、そういうメッセージや世界観のなかでずっと生きていけるから、いいのかもしれない。
 しかし、本書を読んだだけのような読者は、本を閉じればたちまちそうはいかない現実が待ち構えているのである。「自慢・自己PRをしない」というルールを自分に課してみても、それで目の前の就職試験や営業が何とかなるというものでもない。

 そして、もう一つ。もしワーキングプアのような人や病的な偏執がある人にたいしてでないのであれば、「しがみつく」ことがない人生はつまらないものだと言うこともできる。
 何かに固執してそのことを絶えず意識して、多少の不安にさいなまれているのは、現状に満足していないという意味で、健全な成長のバネである。現状に安住して幸福感いっぱいな人にはこういう固執や不安というものは存在しない。
 その不安が病的な域に達していたり、生活に絶望するほどのものであれば、もちろん解決せねばならないのだが、そうでないという人には、そのような「しがみつき」およびそこから来る不安と生涯つきあってみるのもまた人生の面白さというものではないか。




「生きる意味」を手っ取り早く手に入れるために



 なお、本書はすべて同意できないものではないことは付け加えておこう。
 たとえば第1章〈恋愛にすべてを捧げない〉は、すでに松田道雄が名著『恋愛なんかやめておけ』で述べたことだ。松田は近代文学史をふりかえりながら、恋愛とは人生のごく一部にしかすぎず、そんなものに身を焦がして青春を費やしてしまうのはバカらしすぎると諭してくれている。
 〈恋愛にすべてを捧げない〉とだけ言われても困るが、そのことを歴史を振り返ることで説得力をもって告げるのなら、このテーゼは蘇るであろう。
 また、第6章〈仕事に夢を求めない〉は、ぼくも「マンガで労働を考えて何が悪いか!」で書かせてもらったことに通じる。
http://www.sbcr.jp/bisista/mail/art.asp?newsid=3255
 仕事で自己実現をできるという人の方が珍しいのである。

 第9章〈生まれた意味を問わない〉も同意できる。
 ただ、ぼくは最近、実家で自分の祖父、曾祖父、高祖父について写真や人生を調べていて、そのなかで「イエ」というものをしみじみと考えることが多くなった。
 「イエ」という観念はまことに自分の生まれた意味をつくり出しやすいシステムだとつくづく感じる。
 自分は連綿と続く紙屋家という「イエ」のリレーランナーの一人であり、子どもを産むことでそれを次代に引き継いでいくのだ、という観念である。これに家屋としての家と、生産の場所としての農地や店舗などがあればこの観念は完成される。先祖供養はこの意識を強化させ確立させる。
 農村であるぼくの実家やその周辺は、子ども・家や土地・先祖供養がトリニティを成していて、これを忠実に守る家が今でも多い。

 もちろんこの観念にぼくは同意してはいないものの、子どもを持つ身になってから、この観念が実に「よくわかる」という気持ちになってしまっている。あやういなあと自分でも思うのだ。
 たとえば拙著『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』がいかに不朽の名著であろうともせいぜいその価値は100年である(笑)。そのころに果たして日本語という言語さえ残っているかどうかわからない。そうするとぼくがこの世にいた意味は一体どうなるのか、とふと悩んでしまう。

 ぼくは共産主義者であるから、「あなたのたたかいが人類の進歩に貢献したということなんだよ」という納得の仕方もある。

 あるいは香山流に「そんなことは深く考えない」と流すテもある。

 しかし、実に手っ取り早くその存在意義を感じられるのはやはり子ども・家や土地・先祖供養の三位一体だ。そうすれば自分の生の意味を手に入れられるという誘惑は、ちょっと恐ろしい気がしている。




香山リカ
『しがみつかない生き方 「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール』
幻冬舎新書
2009.9.14感想記
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