佐藤和夫『仕事のくだらなさとの戦い』



仕事のくだらなさとの戦い 本書の中心点は、効率優先の近代的な労働を批判し、労働の核に「コミュニケーション」をおくことによって、人間らしい労働(心の生活のための労働)の回復をめざす、というものである。なんかこう書くと、ものすごく平凡な本みたいだなあ。

 うん、そういうふうに、現状の労働批判としてどんな人にも読める本ではある。


マルクス批判として


 しかし、もう少しいえば、これはマルクス労働観への批判でもある。マルクスもふくめた近代の労働観がゆがんでいるせいで、対抗運動の側のオルタナティブもゆがんでいたのではないか、だから現代の労働をラジカルに批判する力をもっとらんのではないかという。

 佐藤が問題にするマルクス(をふくめた近代)の労働観とは、「自然との物質代謝」であり「労働をつうじて人間が形成される」という考えだ。自然を加工するなかで人間が成長する、というわけだ。そしてその奥には「労働によって自然を支配する」という考えがひそんでいるのだと佐藤はいう。
 佐藤はそのことに懐疑的だ。自然とのやりとりをし、自然を「支配」したとて、人間が成長するわけがない、と。


「これまでの労働に対する見方といえば、マルクスの議論におおむねのった形で『労働は、人間が自分と自然との物質代謝を自分の行為によって媒介し、規制し、制御するような自然と人間の一過程である』(清水正徳『働くことの意味』岩波新書、一九八二年、二〇頁)といった、きわめて孤立したロビンソン・クルーソー的なイメージを基礎にしていた。……〔中略〕……今日の仕事の大半が、人間同士の共同活動のなかで行われるのであって、それを捨象して、人間が一人だけで、トマトや米を育てたり、椅子を作り上げるような場面だけを想定すること自体が抽象的だ。それに、一日中、あるいは場合によっては数十年にわたって、椅子だけを作り続けたり、農業を続けることが、人間の能力を豊かにしたり、自分の力の形成になるといった議論もいささか非現実的だ」(本書p.69)

 佐藤によれば、ナチにしても「社会主義」にしても、根底には「労働賛美」があるという。近代の労働観がゆきつく先であり、自然を「支配」することで人間に奉仕するモノがたくさんできるからだ。佐藤の本にはナチのダッハウ強制収容所にあった「労働は自由をもたらす」のスローガン、旧東ドイツの建造物にかかげられた「労働はすべてに打ち勝つ」というスローガンの写真がある。
 佐藤はこう言う。

「……近代社会では労働のもつ問題点がそうしたモノの豊かさと言われるものの前に見えなくなってしまったのかもしれない。モノが大量に生み出されるというシステムと、そうした労働のシステムが人間的なものかどうかということとは別であるにもかかわらず、モノがたくさん生み出される労働は、同時に人間をより豊かにするものだと安易に同一視してきたのではないか」(本書p.57〜58、一部カタカナに直した)

 「モノがあふれて心が痩せて」(by新沼謙治「渋谷ものがたり」)ってやつか(笑)
 つまり佐藤がいいたいことは、こうだ。

――近代の労働観は、マルクスもふくめ、自然を支配しモノを生み出すことにのみ腐心し、そこには一人で他人から邪魔されることなく働くイメージで考えられてきた労働観があり、どう人間関係を良好なものにしていくかということは二の次にされてきた。その結果、どう豊かなコミュニケーションのもとで働くかという労働の質は問われずに、モノをつくりだす(=自然を支配する)労働が賛美され、ゆえにナチスと「社会主義」は両極に見えながらともに近代の定向進化の果てとして同じ「労働賛美」へとゆきつくのだ、と。
――したがって、仮に資本主義的搾取をなくしても問題は解決しない。それにすべてを還元するのは「人間の社会的人間関係や精神的諸問題の原因を、究極的には、経済的諸関係を中心とする物質的利害関係に還元しようとする」「誤った『唯物論的』傾向」(p.83)である。コミュニケーション問題を独自に解決する工夫が必要になる。

 モノの生産やモノの豊かさにこだわる態度が、労働組合運動などでも、賃金アップ先にありき、時短後回しの形で現れるし、革新政党の要求もモノとり第一となる、と佐藤は指摘する。もう死なない程度にモノはあるんだから、モノについての要求はもういい、というつもりなのだ。

 佐藤の意図についてはここがわかりやすい。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jssm2/contents/ronsou/ronsouroudou.html

 くはー。
 ああもう、ツコッミどころがありすぎて、どこからツッこんでいいかわからん! というやつである。



佐藤のイメージしている労働は狭くないか


 第一に指摘したいことは、佐藤のイメージしている生活と労働が、狭いのではないかということ。具体的にいえば、佐藤がイメージしているのは(1)ホワイトカラーの生活と労働、(2)若い人の実態もバブル期のそれではないか、という問題だ。

 佐藤は、人生80年時代では子育て終了後、夫婦が二人きりで顔をつきあわせて数十年も生きるので「退屈死」時代が訪れるという。また、若い人は、ありとあらゆる快楽を与えてくれるモノにとりまかれる。「この光景の最大の悲劇は、この男にとっては求める快楽はボタンを押せば得られるかもしれないが、肝心要の当人は誰からも必要とされていないことである。つまり、この本人は消費して楽しい時間を過ごせるかもしれないが、それが終わった瞬間に底知れぬ自分の存在の無用感に襲われることになる」(p.13)。

 また、次のような描写は、ホワイトカラー労働をイメージしていると思わないだろうか。

 「日本では、かつてマルクスが自然との物質代謝などと定義づけたような労働の性格は今日ほとんど失われている」(p.74)「私たちが暮らしている現代社会で大きな問題をなしているのは、日本のような発展した資本主義社会の場合、もはやいつ飢え死にするかという問題ではないので、労働の苦痛は、主として食えなくなる心配によるものではなくなりつつある」(p.81)「大半の労働者は、マルクスの生きた時代にあまりの長時間労働として指摘されたイギリスの労働者を超えるほどの長時間労働をしている場合も珍しくない。しかし、それ以上にきびしい問題は、一日十数時間にものぼりかねない仕事のなかで営まれる人間関係が、時には耐え難いほどの緊密で連携の高いものとなり、そのようななかで同僚との相性が合わないとか、まったく意見が合わない上司に自分の納得のいかない仕事を命じられても、それを成し遂げなければならないといったストレスが今日の労働者を苦しめていることだ」(p.59)

 「日本では、かつてマルクスが自然との物質代謝などと定義づけたような労働の性格は今日ほとんど失われている」?――日本では、農林漁業作業者、生産工程・労務作業者、運輸・通信従事者などいわゆる「現業」にたずさわる人々は2384万人いる(うち生産工程・労務作業者は1843万人、農林漁業作業者は315万人)。これにたいして、管理・事務・販売・サービス・専門技術・保安従事者は3840万人だ(2000年国勢調査)。「大都市」である東京では、前者は145万人、後者は444万人だ。全国でみても1:1.5、東京でさえも1:3である。
 佐藤が物質代謝としての性格をもつ工業・農林水産業労働は「今日ほとんど失われている」、と規定するのはまったく現実を見ていないと言われても仕方がないだろう。

 NHKスペシャル「フリーター漂流」をもちだすまでもないが、若い人は派遣・請負の形でいま次々と過酷なモノづくりの現場へ放り込まれている。
 そこではたえざる作業部署の変更にさらされ、労働者は分秒単位で作業に追われている。そこでは上司や同僚が気に入るもクソもない。労働者はそこで肉体と精神を消尽する。これはコミュニケーションによって解決する問題だろうか? 
 くわえて、フリーターの平均年収は100万円。無業者をのぞいても150万円だ。なるほど「飢え死に」するほどではないが、とても独り立ちできぬほどの貧困に見舞われている。「(月)30万円稼ぐためには、シフトを全部夜勤に切り替えて、死ぬほど残業する必要がある」(松宮健一『フリーター漂流』旬報社)と、あるフリーターは証言する。

 ここにいるのは、モノにあふれ消費を浴びるほどおこなう若者でもなければ、コミュニケーションの工夫によって労働苦が軽減されそうな労働者でもない。まさに低賃金と貧困にあえぎ、過密労働によって資本に使い捨てにされようとしている労働者がいる。

 「退屈死」をするという年金者の実態はどうか。
 なるほど厚生年金やその遺族年金を手にしている人は、それなりにつつましやかな生活を送れるかもしれない。年金をもらっている人のうち、厚生年金は4割、半分は国民年金だが、国民年金は「月に三万数千円から五万円余の年金しかもらっていない」(唐鎌直義『日本の高齢者は本当にゆたかか』萌文社)。年収200万円以下の階層は高齢者世帯の実に4割にのぼる。
 実際には、カツカツの年金でくらし、あっという間に介護が必要な体になって、払えない医療費や介護費用の工面に腐心し、必要なサービスを削っている層が存在している。それを「退屈死」の老後だとくくれるだろうか?

 たしかに佐藤は、コミュニケーションの工夫だけでなく、資本制による搾取が与えている影響や貧困の問題にも言及している。
 しかし、やはり中心には「モノがあふれるが誰からも必要とされず」「物質代謝としての性格をもたない労働をして」「上司や同僚とのコミュニケーションに疲弊し」「定年後は退屈死を待つ」というイメージがあるように感じる。
 それは、ホワイトカラーの人生であり、もっといえば、佐藤の周辺にいる「大学教授」のような「労働者」の人生ではないのか?
 また、若い人にたいして「モノにかこまれ消費だけの快楽におぼれているが、だれからも必要とされていない」「多額のローンを組んでモノにしばられる」という若者像は、バブル期によく聞いた若者像である。むろん、こうした側面がいまの若い人にないとはいわない。
 しかし、正社員主義が崩壊し、若い人の賃労働者の半分がフリーターであり(総務省統計)、若い世代のなかで格差が広がっている(「日経」06年2月7日付など)という現実をみれば、こうした特徴を主要な側面として押し出すことに違和感を感じる。
 佐藤が30〜40代をすごした(つまり佐藤が学者として知的リソースを大量に得た)バブル期の認識が尾をひいているとするのは、ぼくの邪推にすぎるだろうか。



マルクスと逆のことをマルクスに押しつけている


 そして、第二に指摘したい問題は、マルクス理解である。

 結論からいえば、マルクスが批判したことを逆にマルクスにかぶせている
 たとえば、先ほど上げた箇所だが、マルクスをふくめた近代の労働観は、ロビンソン・クルーソー的な「孤立した労働」をイメージしていた、などと佐藤は主張するわけだが、マルクスのどこをどう読んだらそんなトンチンカンな解釈が生まれるのか、理解に苦しむ。

 アダム・スミスの時代はたしかに独りで労働するイメージがあり、「自己労働・自己所有」がまだイメージできる時代だった。しかし、佐藤がのべているようにすでにスミスの時代でさえ、協業が始まっており、佐藤はそのことを避けるために“ピンづくりの協業も実は独立した個人の作業が前提なのだ”という苦しい言い訳をする。
 しかし、マルクスの時代になると機械制大工業が出現し、「孤立した労働」を本来的なものとみなす、というイメージはどこをどうひねっても出てきようがない。マルクスが共産主義社会を「結合された生産者」「全体労働者」として、協力と共同のものだとイメージしたことを、よもや知らないわけではあるまい。
 ひょっとして佐藤は、マルクスが共産主義社会においては、一つの理性をもつ「結合労働者」(各人が社会的にむすばれてはいるが利潤のために働き結果的にアナーキーな行動をとる資本制下での労働ではなく、社会全体が生産についての計画的な理性をもった働き方ができる、という意味)ができるのだから、それはバラバラだった個人が結合して「一人のでかい人間」になるのだ、ということを言いたいのかもしれないが、それを「孤立した労働」などというのは、あまりに牽強付会な話だ。


 あげくに、佐藤は、イスやトマトをつくりつづける労働は人間を豊かにするのかと疑問を呈する。そして、労働によって人間形成をするとマルクスは主張し労働賛美をしているのだと佐藤は言う。

 しかし、労働を一面的に骨化することをもっとも厳しく批判したのはまさにマルクスだったのではないのか。なぜこんなことをマルクスの「罪」にしているのか、理解に苦しむ。マルクスは、『資本論』のなかで、大工業が労働者に失業と就業の機会をめまぐるしく与えることによって「一つの社会的な細部機能の単なる担い手にすぎない部分個人」から「さまざまな社会的機能をかわるがわる行なうような活動様式をもった、全面的に発達した個人」が登場することを指摘した。
 その過程自体は苦痛にみちたものであるから、それを手離しで喜ぶほどマルクスはナイーブではない。大事なことは、マルクスが能力を一面的に固定化するような労働ではなく、人間の全面発達に未来をみていたということだ。
 マルクスは、『資本論』の別の箇所で、次のように指摘している。

「自由の国は、事実、窮迫と外的な目的への適合性とによって規定される労働が存在しなくなるところで、はじめて始まる。したがってそれは、当然に、本来の物質的生産の領域の彼岸にある。未開人が、自分の諸欲求を満たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないように、文明人もそうしなければならず、しかも、すべての社会諸形態において、ありうべきすべての生産諸様式のもとで、彼は、そうした格闘をしなければならない。……〔中略〕……事実、自由はこの領域(物質的生産の領域)の中ではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分達の協同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分達の人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。しかし、これはやはりまだ必然性の王国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発達が、真の自由の国が始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である」

 つまりこうだ。

――共産主義社会になって、生産が合理的・理性的に管理できるようになっても、生産活動自体は、自然がもっている必然性につよく拘束された活動になる。それは人間が生きていくためにはどうしても必要な活動だからやるんだけども、そこでは人間は本当には自由になれない。機械化とかがすすんでそれが利潤追求ではなく、労働時間の短縮にふりむけられたら、その余暇の時間ではじめて人間は全面的に発達するのだ、と。

 ここでは佐藤のマルクス理解とはまったく逆のマルクスがいる。

 労働が人間的になるのか、余暇がふえて人間的になるのか。
 マルクスは自分たちに必要なものをちゃっちゃと作り出したあとは、「余暇」としてその時間を個性の発達に使いましょう、と考えていた。たしかに労働は利潤追求から解放されて本来的なものになるが、そこで労働することで人間が立派になるとかそういう過重な期待はかけていない。
 コンベアでの労働は、どこまでいってもコンベアでの労働でしかない。それこそ鎌田慧の『自動車絶望工場』ではないが、ボルトをいっぺんにしめることに成功する「充実感」が多少あろうとも、その労働自体の「つまらなさ」は永遠に変わらないだろう。

 マルクスが無条件な労働賛美をおこなっているかように描き、さらにそれを旧ソ連・東欧の現実と混同させて最終的にナチズムと同じ根をもつと主張していくのは、よく見る手法ではあるが、あまりといえばあまりのやり方だ。

 また、モノをいくらつくりだしても、それらが人々を豊かにせず、プロレタリアはそのモノにはありつけず逆に機械というモノに使われ、ブルジョアはブルジョアなりにその在庫に苦しみ――時には自殺し――、いつでも利潤追求の人格化として自身を囚われの身にしている、という転倒、疎外も、マルクスが批判してきた近代の中心問題であった。
 「モノはいっぱいになったがコミュニケーション問題は解決されていない」といった言い方のように、モノの豊かさとココロやコミュニケーションの問題を対立的に描く佐藤の手法は、マルクスのこうした解明の到達を無視するものだ。

 これらは一例にすぎない。このように、佐藤は随所でマルクスとは反対のこと、マルクスが批判したことをマルクスになすりつけている。

「私は、この章〔『資本論』の「労働日」の章〕を、数十年ぶりに読んでみて唖然とさせられた」(佐藤p.33)

 この記述から、おそらく佐藤は『資本論』を「数十年ぶり」に読んだのではないかと推測される。マルクス像をマルクスに依って仕上げるのではなく、アレントや後の解釈者、そして旧ソ連・東欧の現実からマルクス像を組み立ててきたのではないかとぼくは危惧するのである。
 「近代の労働」がかかえる問題については、ぼくはおそらく佐藤と多くのものを共有できる。しかし、そこにマルクスまで含めることには強い違和をおぼえる。



コミュニケーション問題を過大視


 第三の批判点として、佐藤は資本制が労働をゆがめる問題と、コミュニケーションの工夫や解決の問題を同列ないしは同じくらいの比重で扱い、コミュニケーション問題の解決は独自の解決努力が必要だといっていることだ。

「今日職場で働いている人々のたいていの話を聞くと、労働の苦痛の中心点は、自分とはとても気の合わない人とでも一緒に仕事をしなければならないということであり、それがどれほどのストレスを与えているかということだ」(佐藤p.58)

 たしかにホワイトカラー労働においては、かたおかみさお『グッジョブ!』を持ち出すまでもなく、コミュニケーション不全が労働におけるストレスの大きな比重を占める。

 しかし、佐藤が、“コミュニケーション不全は労働苦の中心をなす問題であるが、この労働苦は資本制が止揚されても解決しない独自に解決が必要な問題である。共産主義になれば解決するなどというのは経済還元主義の誤った唯物論的傾向だ”というのは、どうだろうか。

 コミュニケーション問題にかぎっても、現代の高ストレスが資本の論理(超競争下での利潤追求第一主義)に追いまくられた結果の、切羽詰まった緊密さであることは論を待たない。
 もし、利潤追求最優先と過酷な競争の重石がとれれば、こうした緊張のかなりの部分は解決するだろう。
 もちろんそのあとでコミュニケーションをととのえることの独自の努力は必要だが、根底にある経済的圧力の問題とは次元がちがう問題ではないか。資本制のくびきから解放されることの重大さを、佐藤は軽視している。



よい議論相手と酒場で飲んでいる気がする本


 なんかメチャクチャな本のように書いてきたが、マルクスの責任になすりつけることをのぞけば、結論は大いに賛同できるものだし、仮に「ホワイトカラー」中心のイメージであったとしてもコミュニケーションの問題の解決が、労働において大きな比重をしめることはまったく納得できる。

 さらに、この本は売春や戦争の問題、家事労働の問題、男性の家事の問題を扱っており、結論をそのまま支持しないにせよ、叙述はきわめて刺激的なものに満ちている。とくに宮本常一、プリーモ・レーヴィ、シモーヌ・ヴェイユ、アリストテレスなど、引用が示唆に富むものが多い。そのなかで興味深いものを一つだけあげてこう。本山美彦『民営化される戦争』(ナカニシヤ出版)を参照にした、つぎのくだりだ。

「金儲けのためにはあらゆる活動の自由を保障するというのが、新自由主義の一つの柱だとすれば、今回のアメリカによるイラク攻撃ほどその性格を露骨に示すものはない。なかでも驚くべき例を示そう。アメリカは、フセイン打倒後、『国民歴史博物館』に残っていた文化的・歴史的異物をリストにして、インターネット上で競売にかけようとした。その際、このリストを作成した国防総省の代理人はウォールマート創業者の一人、ジム=ボブ・ウォルトンであって、彼は『我々は、イラク人民を解放して自由化したように財宝も自由化すべきだと思う』と述べ、イラク人が戻したければ『金持ちになったら、買い戻せばよい』と、戦争によって手に入れたものを堂々と金儲けにすることを躊躇しなかった。こうして実際に行なわれたオークションでは、国防長官のラムズフェルドが実際に金の皿を五〇〇万ドルで落札したという」(佐藤p.87)

 立場が違う「面白い」やつと酒場で議論しているような印象をうけた本である。侃々諤々議論はするけども、相手がそのなかで引用している本を聞いて「へーそんな本があるの」と刺激をうける、そんな感じである。





大月書店 そもそも双書
2006.2.20感想記
この感想への意見はこちら

メニューへ戻る