論争:市場の廃絶しかないのか1

あるサイト読者から、つぎのようなメールをいただきました。ご本人の了解のもと、掲載いたします。(仮にZさん、とお呼びします)


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置塩信雄の著作に関する書評を読みました。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/okisio.html
私はこの本を読んでいないので、どこまでが置塩信雄の主張で、どこからが書評なのかわかりかねる部分もありますが、この書評全体としてみれば、ナンセンスであると思います。



マルクスのアジア的生産様式の議論に見られるように(出典は忘れましたが、ご要望なら探します)、マルクスの議論においては「剰余生産物」の概念はありました。しかし、この概念はソ連官僚にとって危険なものであった(なぜなら、生産手段の私有がなくても搾取が存在していることを示していたから)ので、ソ連官僚は「所有」の概念を強調した。置塩は、この所有概念の誤りを正しく指摘したようですが、逆の誤りに陥っているのではないでしょうか。それはつまり、価値法則の無視ということです。資本制社会の特徴(それ以前の階級社会とくらべて)は、何より価値法則にあります。価値法則により、「合法的」に「自然」に搾取が実現され、社会は「自由・平等」であるかのように現象する(そしてこれこそがブルジョア民主主義の本質)ということが、資本制社会の特徴なのです。この点をあいまいにして、「所有」概念を強調すれば、プルードンや「NAM」のように、市場経済のもとで搾取が廃絶されうるかのような誤りに陥ります。置塩も同様の誤りに陥っているようです。

「問題なのは、剰余労働を行うのかどうか、どれくらい剰余労働を行うのか、剰余労働で生産された剰余生産物をどのような使途にあてるのかなどについて、労働者がその決定を行うのでなく、誰か他の人びとが決定し、労働者はそれに従わねばならないという点にある。そして、そのようなとき、労働者は搾取されているのである」「剰余生産物の処分の決定を誰が行うか」「つまり、ここにたいして社会が決定にくわわれれば、搾取は存在しないのである」(紙屋研究所)



これは、そのとおりです。問題は、「社会が決定する」というのはどのような事態をいうのか、ということです。それはまさしく、民主的に決定された計画により経済が運営されることをいうのであって、市場によって(つまりは価値法則によって)剰余労働の処分が決定されている限りは、「社会が決定している」のではなく社会の上に立つ価値法則が決定しているのです。価値法則の廃絶こそが、まさしく社会主義の内容をなすのだから、社会主義とは市場の廃絶であることは自明であります。

「資本主義的生産の規定的目的と推進動機は剰余価値の追求である」――もうけ第一という原理が社会をおおいつくし、人間をふりまわすという資本主義の原理がさまざまな限界にぶちあたっている(紙屋研究所)


この認識は完全に正しいけれども、あなたの市場支持の主張はこれと完全に矛盾しています。市場はまさしく「もうけ第一という原理」でなければ機能しないのであり、これを市場の支配を理性の支配(計画)によって置き換えていくことこそ、自由を意味します。

「経済に社会理性を発揮」するということは、まさしく市場の廃絶によってのみ成し遂げられることです。

もちろん、あなたが置塩の主張を誤って理解しているという可能性もあるわけですが、あなたが紹介する限りの置塩の主張は、価値法則という資本制の根本をあいまいにする謬論です。






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2004.7.28受信
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