ヤーギン&スタニスロー『市場対国家』/66点


 あなたは、経済に規制をきちんと加えるべきだと思う人だろうか、それとも、経済は自由にすればするほどよいというタイプの人だろうか。

 いま、日本では、少なくとも表面上は後者にむかって、次々と規制がとりはらわれている(実際には、銀行への税金投入のように、大資本には援助のためのさまざまな行政的しかけが強められているのだが)。
 あなたが、後者を選択するのなら、それはまさにいまの日本の政治経済の動向を無批判に支持していることになるだろう。

 20世紀は、ロシア革命以来、まさにその管理を国家がおこない、その規制をめぐって、国家と市場が激しく対立した時代だと、この筆者は描いている。
 国家による経済管理が世界を席巻し、やがてそれが崩壊していく、というこの筆者の歴史観を裏付けるために、各国ごとのいろんな歴史が紹介される。ピュリッツァー賞作家らしく、なかなか俗耳に入りやすい、わかりやすいエピソードで紹介されている。

 原題は、「コマンディング・ハイツ(管制高地)」。
 もともとは軍事用語で、日露戦争の二百三高地のように、そこをにぎることによって、全体を俯瞰し戦局を制することのできる場所を指す。
 転じて、それをにぎることによって、経済全体を管理できる位置をさすという意味でレーニンが使った言葉である。

 この本を、社会主義とその思想の敗北過程の証明材料として読もうとするなら、べつにもう読む必要は、ぼくはないと思う。それはその人にとって、すでに頭にあることを知識で補強するだけであって、なんの認識の深まりもないであろうから。

 だが、ぼくにいわせれば、それはその人の社会主義観、マルクス主義観の貧しさをさらけだしているだけであるように思う。
 社会主義とは、その言葉のとおり、むしろ国家に反対の態度をとったり、国家をアウフヘーベンしようという流れであって、国家による経済統制を「社会主義」だとみるのは、言葉の悪い遊びであり、ソ連=社会主義だという狭い迷信からの根本的な謬見であると考える(朝日の投書欄に、猪瀬直樹を左翼と読んだ森元首相に怒った会社社長が「左翼とは国家統制主義者のことだから、猪瀬は民営化を主張しており左翼ではない」という立論をしていたのに似ている)。
 ぼくは、社会主義、なかんずくマルクスの展望した社会主義とは、どうやったら経済の活力をいかしながらそれをうまく運営していけるかというものであって、国有化や国家統制一色でそれを塗りつぶすことなどまったくそのイメージになかったものだったと思っている。

 社会主義についての狭い偏見にとらわれなければ、本書は、明日の「あるべき経済」を考えるうえで示唆にとんでいるように見えてくる。
 それはやはり、「市場」とそれへの「規制」は、いまのホットなテーマであり、「市場」を野放しにした経済がいかに重苦しい惨禍を世界中にまきちらしているかは、いうまでもないし、すでに本書でもそのことは十分に告白されているからである。

 だから、本書は、市場とそれへの規制についての緊張にみちた関係について、よくよく考察したうえで、「社会によるなんらかのルールづくり」が必要だという結論で終わっている。
 これはぼくの考える必要な結論にきわめて近い。
 環境問題がその典型だとおもうけど、経済の活力を失わせるような国家統制ではなく、社会の奥深い規制力によって経済をコントロールするというモデルをそれは示している。
 じっさい、そういう規制は、すでにいまの資本主義の社会のしくみのなかであちこちに、いや無数に生まれている。いまの社会のなかに、次の社会を準備する萌芽が成長しているのだ。それこそが、マルクスののべた社会主義社会の芽ではないのかと思う。

 じっさいには、「市場」という商品交換経済一般の問題ではなく、無制限に利潤を追い求める「資本」の問題である。そして。「国家」による統制がその対抗軸なのではなく、「社会」による「規制」「制御」こそが、その資本の無限の利潤追求欲にたいする対抗策なのである。
 だから、本書は、その思想的課題を正しく表現するなら「資本対社会」となるはずだったとぼくは思う。

 ありきたりの結論をみちびくためなら読まないほうがいいが、明日の経済について虚心で読むならきっと有益な材料を提供してくれると思う。



上下巻(日経ビジネス文庫)

採点66点/100

2003年 1月 7日 (火)記

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