荒木飛呂彦『死刑執行中脱獄進行中』



この感想文は、ぼくのホームページを読んでくれているとおぼしき人から、掲題の作品について、「読んで感想を聞きたい」というメールをもらって、本作を読み、書いたものである。

※ネタバレがあります。




 荒木の漫画は、精神のテンションを人為的に上げさせる。
 ジェット・コースターに似ている。

 とくに、主人公を攻撃する登場人物が、たとえば「おれだぁぁぁぁぁぁ、やっぱり来ぃぃぃぃやがったぜぇぇぇぇぇ」とヨダレを垂らしながら叫ぶシーンなどが特にいけない。もー、ぼくなんか最高度に緊張してしまう。レベル7だ。ああいうふうに叫ばれている瞬間というのは、青びょうたんが誰も来ない廃屋で、番長100人くらいに凄まれているような、絶体絶命感を、きわめて人為的に感じさせられてしまう。

 脅しの文句を怒鳴るだけ、絵が怖いだけの漫画は、山のようにある。
 そんなものはちっとも怖くない。
 しかし、荒木作品だけが、妙に怖いのだ。

 二つ理由があると思っている。

 ひとつは、荒木の漫画は「数学」に似ている、ということだ。
 といっても数学が苦手なぼくは、初等数学しか知らんわけだけど。
 たとえば、初等の幾何学において、「直線Lと点Aで交わる正三角形BCDがある」とする。「ふーん、その直線はどのあたりから来てるの? 荻窪あたりから来て高円寺くらいまでなの?」「その正三角形というのは、新宿にあるの?」「この直線Lと正三角形がある土地は、どれくらいの海抜なの?」――そういう現実との連関は、実は根本的なところで断ち切られている。
 空想色の強い荒木の作品は最初から「どこにもない世界」ということが、はっきりしている。
 そのなかで、荒木は、厳密な条件設定をおこなう。
 その様は、ちょうど数学の問題で、いくつの厳格な条件が付されるのに似ている。
 「直線Lと点Aで交わる正三角形BCDがある。このとき、直線Lは三角形BCDとは1点でしか交わらない。また直線Lは直線Mと平行である……」などといった具合だ。
 たとえば、この短編集の表題にもなっている「死刑執行中脱獄進行中」では、「あなたが刑務所に入ったとします。その独房は一見快適そうですが、一歩間違うと殺される危険に満ちています。そのとき、壁に自分が出られるほどの穴が空いたとします」といった条件設定がおこなわれる。
 同じ短編集の中ほどにある「岸辺露伴は動かない」という作品では、「ポップコーンを近くにある街灯よりも高く上げてそれを3回連続で口でキャッチしないと殺されるとします。太陽の光がまぶしくても今ここでそれをやらねばなりません。また、鳩がよってきて、放り投げたポップコーンを食べてしまうおそれがあります。あなたの手にはライターがあるだけです。さてこのとき……」という制約条件をもうけるのだ。こちらの短編では、昔出会った不幸な男が娘にのりうつり、娘の舌が「人面瘡」のようになって、脅しつけるような言葉で喋り出すのだ。

 こんな独房も、現実に存在するはずがない。
 娘の舌が昔の因縁を喋り出す、などということも現実にはありえない。
 しかし、いったんその世界に入ってしまえば、あとは荒木ワールドにぐいぐい引き込まれてしまう。
 そして、荒木が設定した厳格で緊密な制約条件のもとで、まるでパズルやクイズを解くようなドラマに、ぼくらは巻き込まれてしまうのだ。
 荒木は、精神科医の斎藤環との対談(インタビュー)のなかでも、自分が一つひとつの出来事や話の展開に「理屈づけ」をかなりしっかりとしたがるほうだということを認めている。
 荒木の代表作『ジョジョの奇妙な冒険』でも、主人公がおいつめられるシーンや、敵方のスタンドが攻撃のセリフを吐くシーンは、妙に理屈だっている

 こうした厳密な条件設定は、荒木の作品世界が現実との直接の連関を断ち切り、徹底した「空想」であることによって逆に映える。それはSF一般の特性ともいえるが、少年漫画の王道である荒木は理屈がとてもシンプルだ。
 中途半端に現実と接点を持っていたら、これほどの心胆寒からしめる条件は生まれてこない。(余談:中途半端に現実と接点をもってしまったヌルい例


 もうひとつの理由は、荒木の質感のある絵、とくに「痛み」が引き起こされる原因を描くのが、あまりにもうまいということである。

 これは「痛み」そのものや、「痛み」の感情を描くのがうまい、ということではない。その描写はどちらかといえば平凡で、せいぜい叫び声をあげる程度だ。痛みそのものではなく、「痛みを引き起こす原因」の描写がうまいのである。
 たとえば「死刑執行中脱獄進行中」では、はじめ、蜂(おそらくスズメバチ)に刺されるシーンを描くのだが、荒木はまず手にはりついた昆虫の堅牢な足を、十分な質感をもって描く。巨大そうで、強そうで、「痛そう」な虫であることが読者には嫌でも印象づけられる。主人公が叫び声をあげるはるか前に、ぼくらは激しい痛みを体験してしまっているのだ。
 また、主人公が魚に食らいついた瞬間、頑強な金属で細工された「骨」がそのなかに入っていて、主人公のやわらかな口腔や頬、唇を突き破るシーンも痛い。

 とり・みきが、昔「痛い話」の特集をしていたが、銀紙を食べて噛んでしまったときの「痛さ」や、寝ぼけて安全剃刀で歯を「磨いて」しまったときの「痛さ」に似て、荒木は「痛み」のツボをよく知り、それを絵で表現するすべをもっているのである。

 厳格な条件設定によって、読者であるぼくら自身が、するどく追いつめられる。壁際に。幾重もの制約条件によってがんじがらめにされたぼくらは、それゆえに、主人公の攻撃相手が「おぉぉぉぉまぇぇぇぇ、さあ、どうするよ! 今すぐここでどうする気だよぉぉぉぉぉ」とヨダレを垂らしながら叫ぶと、ションベンちびりそうなほど、びびってしまうわけだ。
 とくに、短編「岸辺露伴は動かない」に出てくる「人面瘡の舌」は激しく怖い。
 そして、独特の「痛み」を引き起こす原因の描写。
 非常によく出来た「お化け屋敷」または「ジェットコースター」というべきで、それが人造的な恐怖であり痛みだと知っていても、ぼくらは、血圧をあげてしまうのである。


 荒木の作品をどう読もうがそれは自由なのだが、現実の人生や社会の何かの寓意だと見るのは、たぶん野暮なことなんだろうと思う。純粋なゲームやパズルのようにして「楽しむ」のが一番である。
 「死刑執行中脱獄進行中」のラストは、刑務所の壁に穴があき、そのむこうにはのどかな楽園のような風景が広がっているのが見えるのだが、主人公は出ていかない。穴から出たようと身を乗り出した途端、「ギロチンがストーン!」とでも来るおそれがあると思ったからだ。そのまま年老いるまで、壁の穴を見ながら「いつか穴をぬけていこう」と思って独房生活をすごすのである。
 読者は「物とかを穴から投げてみて何もこないかどうか確認して外に出ればいいのではないか」→「いや、ギロチンはなくても、外に出た途端、建物上から蜂の巣にされて射殺されるかもしれない」などと考えをめぐらす。「生きるかいなく独房で暮らすなら、殺されてもいいから脱出すべきではないか」といっそ考える人もいるだろう。「危険を避けながら独房暮しを続けるのがよく、妙な向上心をもたないことだ」と処世を考える読者もいると思う。
 厳密な条件設定の迷路のなかで、ぼくらはまったく身動きがとれなくなる。
 ちなみに、ぼくだったら、迷わず出ていく。独房での生活は、生きる甲斐のないことだからだ。



 斎藤環との対談では、荒木はかなり映画に影響を受けていたことを告白している。荒木の漫画は随所に映画的手法が見られるものの、漫画表現としてはかなり独特で、何かを受け継いだ形跡も、荒木の作風を受け継いだ作品もなく、一種の独立峰である。



 それにしても、荒木の作品は心臓に悪い。
 ジェットコースターが「スリルがあって楽しい」と知りながら、ぼくがあまり乗らないのに似た理由である。ぼくは、萌え萌えの欲望表現の中に身を沈めていたいのだ。
 





余談:中途半端に現実と接点をもってしまったヌルい例

 ある人力検索で「厳しい自己責任だが完全に自由の国と、自由は少ないが国があるていど面倒をみてくれる国とどちらがいいか」という問いがあった。
 いかにも前者を選ばせたいという意図がミエミエの質問であるが、前者の国は「現存」している。内戦などによって統治や共同体や秩序が崩壊している国がそれで、社会保障はおろか、インフラも治安も全てが存在しない。日々の生活の糧をすべて自分で奪ってきて、銃をとって侵入者を殺害しまた自分も殺害される国である。親でさえ子どもを売り飛ばすから、いざとなれば親をも殺す。完全なる「自己責任と自由の国」である。
 アメリカをふくめ、いわゆる「主要国」は、すべて後者の国である。日本には法律が約3000、政令が約2000、このほか自治体の条例が無数にあり、それらはすべて「自由にたいする制約」である。ぼくらはがんじがらめにされているのだ。また、国家予算だけで100兆円ちかくあり、地方財政など公的支出をすべてふくめればGDPの非常に大きな部分を占める。「ある程度」どころではない。
 中途半端に現実と接点をもったヌルい問題設定は、呆れるほど底が浅くなる。


集英社 SCオールマン愛蔵版
『死刑執行中脱獄進行中――荒木飛呂彦短編集』
2004.9.4感想記
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