志村貴子『敷居の住人』

 短評でも書いたが、志村貴子はまさにこの『敷居の住人』で、ぼくが挫折させられた漫画家である。
 早い話、第1巻がつまらなかった。

 それが『どうにかなる日々』を読んで評価をあらため、『放浪息子』『ラヴ・バズ』『午後の恐竜』を読んで、逆にデビュー作であるこの長篇に帰ってきたのである。

 しかも、ぼくは4巻から手にとってみた。1巻のつまらなさが記憶にあったからだ。
 そうしたらどうであろう。面白いではないか。5、6、7巻と買い、そこから逆に遡っていくという変則的な買い方をした。

 漫画家の「砂」がのべているように、『敷居の住人』は、「作家として出現するために志村が走った長い助走路ともなった作品」なのである。したがって、飛翔した作品群から読みはじめ、助走路を逆にたどっていくという、ぼくのような買い方は、一見変則的にみえて、じつは志村作品群にとっては普遍的な買い方ではないかと思える。


 なぜぼくが『敷居の住人』を面白いと思ったのかは、ぼくにとってはなかなか謎なのである。

 評論家の「砂」は、この作品の主人公である美少年・本田ちあきとは、周辺の女性たちにさんざん自己愛の変形物をぶつけられ、徹底的に〈受け〉を演じさせられる存在とみなした。「その受けぶりたるやただごとではない」。それは、やおい作品群における〈受け〉と同じであり、本田ちあきもまた男性ではなく女性的存在なのである。その意味で、この作品は、女性性を徹底的に精査し、批判する作品である。それに対応する漫画表現として、男性の性的なオルガスムの曲線に似た起承転結の感情起伏を排除している、という。

 これは、女性である作者・志村の意図からこの作品を見た場合である。

 そういわれればそうかもしれん、というぐらいは思うけども、オトコであるぼくにとって、この作品はまったくそのようなものではない。ぼくが関心があるのは、オトコであるぼくや他のオトコの読者にとって、この作品がどのように受容されているか、ということなのだ。

 なぜぼくにとって面白いのか。

 いや、真理は意外と単純なのかもしれない。

 キクチナナコや近藤ゆか、中嶋くるみ、安達ゆかりに会いたかっただけなのではないかと思う。いや、もっとはっきりいえば、これらの女性たちに翻弄されるちあきが、ただただうらやましいなあと思っただけなのだろう。もっとさらにきっぱりいえば、ぼくはモテなかったのだ。むろん、ちあきのような美少年の対極にぼくはいましたが。

 たとえ中学や高校時代の女どもが、恋愛を偽装した自己愛を投げつけてくるだけにせよ、オトコであるぼくにとってはそのことは性的な快楽である。いや、それはセックスするとかどうとかいう話ではない。
 まるで沼地でからみあうように、ねっとりとお互いを、言葉で、表情で、行動で交わらせあうことは、すでに性的である。翻弄されつづけること自体が、いいようもない快楽なのだ。思春期の少女たちのリアルさが描き出されるほどに、その漫画作品は、ぼくの個人史へと侵入し、破壊的な快楽をもたらす。
 キクチナナコがちあきにまとわりつく場面、近藤ゆかがちあきを電話で呼び出す場面、中嶋くるみがちあきを好きだと告白する場面、安達ゆかりがちあきの恋心をゆらすように近づいてくる場面、それがどんな結末をむかえようとぼくにとっては性的な瞬間である。

 そういえば、最近、ぼくの漫画感想をみたある女性から反論的なメールをもらったのだが、自分がやはり女性の気持ちをまるで理解できていないと反省し、ついでに、つくづくぼくは自分の欲望のフィルターを通してしか漫画を眺めていないなあと痛感させられたものである。くけけ。


エンターブレイン
2003.12.13記
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※ 参考:「ユリイカ 詩と批評」2003年11月号
※ 志村『放浪息子』1巻の感想はこちら