茨木のり子『詩のこころを読む』



 旧い友人が新たに大臣になつたといふ知らせを読みながら

  私は牢の中で
  便器に腰かけて
  麦飯を食ふ。
  別にひとを羨むでもなく
  また自分をかなしむでもなしに。
  勿論こゝからは
  一日も早く出たいが、
  しかし私の生涯は
  外にゐる旧友の誰のとも
  取り替へたいとは思はない

            (河上肇)

 左翼であるぼくにとって、この詩はしごく単純にグッとくる。
 茨木は「獄中吟なのに、どうしてこんなに明るく澄んでいるのか、といぶかしくなるくらいです」とコメントしているが、ぼくには最後の二行に屈折を見る。見るのだが、それでも朗々と歌い上げるというところに、この詩のまぶしさがある。
 ぼくだったら、心おだやかではいられない。
 そしてそういう悩み方を卑小だと恥じ、また悶々とするだろう。

 有名な濱口國雄の「便所掃除」という詩を読みたくて古本屋でつい買ったのだが、どの詩にも、そしてどの茨木のコメントにも心ひかれた。

 伝 説

  湖から
  蟹が這いあがつてくると
  わたくしたちはそれを繩にくくりつけ
  山をこえて
  市場の
  石ころだらけの道に立つ

  蟹を食うひともあるのだ

  繩につるされ
  毛の生えた十本の脚で
  空を掻きむしりながら
  蟹は銭になり
  わたくしたちはひとにぎりの米と塩を買い
  山をこえて
  湖のほとりにかえる

  ここは草も枯れ
  風はつめたく
  わたくしたちの小屋は灯をともさぬ

  くらやみのなかでわたくしたちは
  わたくしたちのちちははの思い出を
  くりかえし
  くりかえし
  わたくしたちのこどもにつたえる
  わたくしたちのちちははも
  わたくしたちのように
  この湖の蟹をとらえ
  あの山をこえ
  ひとにぎりの米と塩をもちかえり
  わたくしたちのために
  熱いお粥をたいてくれたのだった

  わたくしたちはやがてまた
  わたくしたちのちちははのように
  痩せほそつたちいさなからだを
  かるく
  かるく
  湖にすてにゆくだろう
  そしてわたくしたちのぬけがらを
  蟹はあとかたもなく食いつくすだろう
  むかし
  わたくしたちのちちははのぬけがらを
  あとかたもなく食いつくしたように

  それはわたくしたちのねがいである

  こどもたちが寝いると
  わたくしたちは小屋をぬけだし
  湖に舟をうかべる
  湖の上はうすらあかるく
  わたくしたちはふるえながら
  やさしく
  くるしく
  むつびあう

     (会田綱雄)


 広島で被爆者から、原爆投下直後、市内の川が死体でいっぱいになり、それを食べる蝦が川に大量に発生したという話をきいたことがある。「中国では川にすむ蟹はたべない地方もあるということで、それというのも、昔から戦争があると川に沈んだ死体を、蟹たちがむさぼりくって太るからで、気味わるくて食べられないということです」(茨木)。そのことが、ぼくの頭にまず浮かんだ。

 次に、ぼくはこの詩のような生き方をしたくない、と思った。

 貧しさのなかにあって先祖からずっとくり返されてきた生活。その閉塞した空気。生と死が密接に生活にからまっている因習めいた雰囲気。それはすぐさま自分が出立してきた愛知の田舎の農村に重なった。
 祖父が8年前に亡くなり、祖母もいま介護をうける身となって病院にいる。彼と彼女の人生を思うとき、こうした空気が骨の随までからみついているように思えてくる。また、郷土史をよんで、ひとりの人が故郷の川で竹筏をくんでそれを売って歩いたという話などを読んだときにも同じような空気を感じる。

 その空気へのぼくの反発、うしろから亡霊のようにおいかけてくる感覚が、この詩がぼくの心をとらえてはなさない理由だろうと思う。むろん、作者が「それはわたくしたちのねがいである」と書いているように、作者はぼくとは逆の思いをこめてこの詩を詠んだにちがいないのだが。

 最後の一連のセックスの描写は、そのような空気のなかだけに、いっそう美しい。
 それまでの、生活と生死の描写がなければ、これほど美しくはならないだろう。
 前半の、毛穴という毛穴をうめるような湿って重いことばの連がなければ、この美しさは生まれなかった。

 この詩は、ぜひとも吉野朔美に漫画にしてほしいと思った。「この作品は墨絵のように深沈とした格調をもち、『我が愛蔵の一枚の絵』のように、心の底深くに大切にしまっている人が多いのです」(茨木)。

 偶然にも、つれあいが、この本の別の詩を読んで「これ、吉野朔美あたりに描いてほしいね」といったのには、心底おどろいた。
 



岩波ジュニア新書9
ISBN: 4005000096
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