エンゲルス『心霊界での自然研究』


■■□■ 爆笑できるエンゲルスの著作 ■□■■

 エンゲルスの著作のなかでも、爆笑できる一作。いや、けっして作品が不出来だから笑えるというのはではなく、実際に書いてある内容が面白いから笑えるのだ。

 おおひなたごうの『俺に血眼』には、藤子・F・不二雄の霊を口寄せしてもらうという話がある。実際におおひなたがイタコというか、霊媒師のところにいったようなのである。霊媒師にドラえもんを描かせるという暴挙をやって、霊媒師に「あなたねえ、もっと素直になりなさいよ」などと説教される。
 清水義範にもイタコに霊呼びをさせるのだが、シャーロック・ホームズを口寄せしてもらったのに、なぜか津軽弁でしゃべるというのを笑い話にしている

 『心霊界での自然研究』でのエンゲルスのギャグ感覚はきわめてこれにちかい。
 イギリスの文法家を呼び出したはずなのに、霊はI areとアメリカ式に答えたという注記をわざわざしている。また、いまバラエティでは強調したいおかしみのある発言をテロップで流すという手法をテレビでやっているし、ホームページでも大文字や太字にしたりしているが、すでにエンゲルスは以下のように、こういう手法をこの論文のなかで頻繁にやっている。心霊写真が写っていたという自然科学者ウォレスの話にたいしての写真の真実性を擁護する人の意見を、エンゲルスはつぎのように紹介している。

 「(心霊実験でインチキをしたと疑われる)夫妻が自然科学の領域でのまじめな真理探究者と同様にこの種の詐欺はできない人たちだという絶対的な確信を(私=ウォレスは)もっている」

 「わたし(=ウォレス)が見いだしたところでは、――この信頼がなりたち、彼女にした約束をわたしが絶対に破らないことを彼女が確信するようになってからは――心霊現象はいちじるしく強さをまし、またこれ以外のやりかたではけっして得られなかっただろうと思われるような証明手段をもすすんで許可してくれるようになった」

 「みずからケーティと名のり、そしてクック嬢にいちじるしく似ていたこの心霊」

 19世紀にこのギャグセンスは類まれなるもの。あらためて、この男の軽妙洒脱の感覚に感心する。


 
■■□■ 経験の奴隷になるということ ■□■■

 馬鹿話はこれくらいで。
 エンゲルスのこの論文は、イギリスの最先端をいく自然科学者があっさりと心霊術にひっかかるのはなぜか、というきわめて興味深い論考をのせているのである。
 いまの学生たちと話していると、理論を「イデオロギー」といって小馬鹿にして、「事実や経験が大事だ」とさかんに強調する。
 なるほど事実や経験は重要である。
 しかし、理論を軽視して「経験重視」を一面的に強調すること――事実や経験さえ見ていれば、万事うまくいくという思考様式は、経験の奴隷に成り下がることであり、実に簡単に足下をすくわれる。「第二次世界大戦は、日本の侵略戦争ではなく、日本軍はいいこともやった」――小林よしのりあたりにこんなことをいわれれば、もうイチコロだ。多少の「事実」や「経験」に取り囲まれるだけで、世界観や理論のない人間は、あっさりとその経験や事実の奴隷と成り果てる。

 「あらゆる政治や社会のイデオロギーに『不潔な抽象』を嗅ぎつけ、ひたすら自我の実感にたてこもるこうした思考様式が、ひとたび圧倒的に巨大な政治的現実(たとえば戦争)に囲繞されるときは、ほとんど自然的現実にたいするのと同じ『すなお』な心情でこれを絶対化する…」(丸山真男『日本の思想』)

 サイババのインチキ魔術にひっかかって『理性のゆらぎ』を書いてしまった東大院生、やはりオウムにひっかかった東大院生。



■■□■ 迷信に陥るのは哲学者ではなく経験重視派 ■□■■

 エンゲルスは、次のようにまずのべる。

 「…われわれが度はずれの妄想とか信じやすさ、それに迷信といったたぐいのものをいずれかの自然科学的方向に見いだそうという場合、たとえばドイツの自然哲学のように、客観的世界を自分の主観的思考の枠のなかに押しこもうとした自然科学的方向のうちにこれを求めるよりも、むしろその反対の方向、つまりたんなる経験を恃んで思考を頭から軽蔑であしらい、また実際のところ無思想という点ではたしかにこのうえもなく熟達してしまったところの方向にこれを求めるほうが、誤るところが少ないだろう。このような学派はイギリスで有力である」

 今日ではイギリスをアメリカにかえてもいい。迷信を信じるのは、理論をバカにしている経験重視派のほうだ、というのである。エンゲルスはそのあと、心霊術にひっかかった自然科学者ウォレスをとりあげる。ダーウィンにならぶ業績をもつこの一級の自然科学者は、「ガル頭蓋地図」というあやしげな骨相学を真に受け、頭蓋の地図にしたがって、頭の、ある部位をふれると思い通りの動作を被験者から引き出せるという詐術ショーにひっかかる。
 このタネあかしは、被験者への「催眠効果」なのだが、感心するのはエンゲルスが、友人たちと同じ催眠状態を再現した実験をやってみせていることである。大槻義彦や安斎育郎なみのエンターテイメントといってもいい。そして冒頭にのべたような「心霊写真」にふたたびだまされるウォレスをエンゲルスはトリックもふくめて紹介する。

 経験と事実を重視する自然科学者こそが、あっさり心霊術にひっかかる。


■■□■ 理論的思考のないものは罰をうける ■□■■

 エンゲルスは、次のように総括する。

 「たくさんだ。自然科学から神秘主義にいたる最も確実な道がどれであるかは、ここでは手にとるように示されている。それは茂りに茂った自然哲学の理論ではなく、ごく平凡な、理論をいっさい軽視し、思考をいっさい信用しない経験のほうである」

 「じじつ、弁証法を軽視すれば罰なしにはすまされない。理論的思考をすべてどんな過小評価しようとも、二つの自然事象を関連させたり、両者になりたっている関連を見ぬいたりすることが、理論的思考なしにはできないことである。……弁証法にたいする経験による軽視は、最も冷静な経験主義者の幾人かをあらゆる迷信のうちで最も不毛なもの、今日の心霊論へみちびくことで罰せられているのである。……経験もまた結局は、見霊論者たちの執拗さにけりをつけるには経験的な実験ではだめであって、そのためには理論的考察をもってせざるをえない…」


■■□■ 現代のエンゲルス=大槻義彦 ■□■■

 現代では、大槻義彦や安斎育郎がこのエンゲルスの役を買って出ているが、両名とも、マルクスやエンゲルスに言及していることは注目しておいてよい。「唯物論の第一人者ともいえるマルクスやエンゲルスも、十九世紀に蔓延していた反科学思想やオカルトまがいのまやかしにたいして、唯物論の立場から毅然としたたたかいを挑みました。エンゲルスの『自然弁証法』にも、オカルトまがいとのたたかいがでてきます。最近、私は、あらためてマルクスやエンゲルスの著作を読んでいます」(大槻義彦『科学する面白さ』)とのべる大槻は、手から灰を出したサイババに心酔する東大院生を批判して次のようにのべた。

 「無から有が生じるのを見て『理性が揺らぐ』のなら科学者をやめればいい。理学博士の学位を返上すればよいのです。なぜなら彼(サイババに心酔する東大院生)は、吸入麻酔薬のメカニズムの解明のため、無から有は生じない原理であるところのエネルギー保存法則に依拠した研究によって学位を得ているからです。『シュレディンガー方程式』を使った計算です。ところが、シュレディンガー方程式の左辺にはエネルギー保存の法則がくみこまれています。エネルギー保存の法則に自信がなくなり、シュレディンガー方程式の左辺は誤りだとわかったのだったら、彼は右辺だけで議論すべきだということになります」(同上)

 「見つめただけでスプーンが曲がる」という経験をしたのなら、そのとき、経験を重視するのか、エネルギー保存則や各種の物理法則によって成り立つこれまでの物理的世界観を優先するのか、ということが大事になる。そのとき、理論的思考や世界観のないものは、容易に経験の奴隷となるのだ。


■■□■ 「侵略戦争ではなく日本はよいこともした」という哲学的虚妄 ■□■■

 前述した小林よしのりの話――「日本は侵略戦争をしたのではなく、よいこともした」――にもどれば、第二次世界大戦の性格は、ある歴史学者によれば16もの側面があるという。小林や排外的なナショナリストたちがいうように「欧米をふくめて帝国主義戦争」という側面もあれば、経過はどうであれ「植民地解放の契機」となった側面もある。しかし、そのなかで最も主要な環をにぎるとすれば、それは「ファッショ対反ファッショ」だったのである。その側面の把握が、長い論争において硬直化し一面化するなかで、まるであの戦争はそれ(ファッショ対反ファッショ)以外の側面をもたないかのような認識がうまれ、そこを小林的なものにつけこまれているのにすぎない。もともとあの戦争を「帝国主義戦争」であり「植民地解放戦争」と告発・評価したのは、コミンテルンや左翼の十八番だったではないか(藤岡信勝などが「第二次世界大戦=侵略戦争はコミンテルン史観」などといっているのはあきれるほどの歴史の捏造である)。
 その「環」をにぎる認識力は理論の力であり、経験の奴隷であるうちには絶対的にできない。



■■□■ 「見る人によって真実は違う」という与太話 ■□■■

 アメリカ先住民の知恵で、「6の法則」というのがあり、ものごとには少なくとも6つほどの同じ確かさの見解というものが存在する、という命題がある。
 だから情報はよく吟味しろよ、というオチになるのだが、このテーゼを、「見る人によって見えるものがちがう」と総括すれば、くだらない、凡百の主観的観念論として終わる。しかし、「事物が多様な側面をもって存在している」とみれば、これは豊かな弁証法的唯物論の見方となる。

 事実と経験は大事だが、それを主観主義に解釈したり、その奴隷となることこそ、現代では陥りやすいもっとも危険な罠なのである。


エンゲルス『自然の弁証法1』
大月書店 国民文庫11a ISBN4-272-80111-2 C0110

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