わかつきめぐみ『そらのひかり』



 物語としては、これほどぼくのなかで求められているテーマなのに、絵とセリフの入ったとたん、なんかその期待値には遠く及ばなくなってしまう、というのが本作だ。

 つれあいに聞くと、それなりにファンのいる昔からの漫画家なのだそうだけど、正直、ぼくははじめて聞いた。だから、本作以外、わかつきの作品は一つも読んでいない。
 オビに惹かれて買った、というのが率直なところ。

「志望校に落ちた吉田希凛は不本意ながら、祖母の家から別の高校に通うことになる。しかし個性的な面々との新しい出会いが彼女の気持ちをやわらかに変えていく」(オビより)

 物語を要約すれば、ほぼこのとおりである。
 もう少しくわしく紹介しておくと、この「個性的な面々」の一人は、不登校で一度も姿をみせない湯島早冬(さと=男性)。早冬は、主人公の希凛と会ってもいっさい口をきかず、わずかにネコを通してだけ言葉をかわす。
 もう一人は、主人公の同級生の山田枇杷。率直で、容喙的で、開放的な性格。
 あと、主人公の祖母の家によくくるおばあさんの夫で、照井虎之介。謎めいて、警句的なセリフが多い。

 主人公の希凛と不登校の早冬との交流をつうじて、早冬だけでなく希凛自身が解放されていく、という点が物話の軸になっている。

 くり返すけど、考えられた物語のスジ自体は、ぼく的にはとてもいいものだと思える。かたくなだったものが解放されていく、というストーリーはこの世にどれだけあっても貴重なものである。苛酷さを描くことがリアルだとする昨今の風潮からすれば、「癒しだ」「ヌルいぞ」といわれようと、それに抗して人間の共同や希望を描こうとする点で、はっきりと戦闘的であるといえる。

 しかし、ぼくはそういう点では評価できても、けっきょく、わかつきのこの作品そのものは好きになれなかった。
 なぜか。
 それは、とくに枇杷と虎之介の造形が、どうもぼくのこれまで出会ってきた特定のタイプの女性たちを思い出させてしまうのだ。「実は自分の意見を変えないというかたくなな人」というイメージ。

 「なんだお前の個人史じゃねえか」「お前が出会ったイヤなやつと作中人物が必ず一緒のわけねえだろ!」と、ここまで読んで、モニタ画面をなぐりつけた人もあるだろう。すまん。これが、自分でもひどい意見だとはわかっているのだが。

 テレビで、ある若手コントが、「ぷんぷん」「たらーり」「ぴくぴく」とか、そういう擬態のオノマトペを口に出す、というタイプの人のまねをしていたのだが、わかつきのこの作品からはまさにそんな人たちが、想起されてしまうのだ。
 3人。ぼくの会ったその種の人はたった3人で、その極小偏頗なデータから物を言うことの乱暴さは承知している。しかし言わせて。その3人は、とてもかたくなでした。
 わかつきの漫画の画面にあふれる過剰な擬態の文字と、それにあわせた表情は、この3人をぼくに思い出させる。それだけではない。その3人が「あたいはあたいさっ」といって振る舞っていた仕草がとても生硬で窮屈そうだったのを、思い出してしまう。
 たとえば枇杷の「でもさ 自分に合わせないからおまえはダメだなんて言うヤツの方がダメに決まってんじゃん」という言葉は、励ましのはずなのに、とてもかたくなに聞こえるセリフだ。
 あるいは虎之介の「自分で出した答えだ 何を恥ずかしがることがあるんだい 胸をはってお行き」も同様である。
 「あたいはあたいさっ」というスタイルをつらぬく、ということが、かたくなさへとつきぬけてしまう。

 この物語のなかで不登校から登校へともっとも劇的に変化する早冬でさえ、他者によって変化する、ということはなかった、といえる。
 「(学校にいかない自分にたいし)まわりがオレにすごく気をつかってオレに合わせようとして――でもそれは自分がしたくなったことを人にさせてるってことでさ そう気がついたら自分と自分のいる状態がイヤになった ――それでその状態を抜け出すためにまずは中途半端になっている学校に戻ってみようか――って」と自己分析をするセリフがある。
 早冬の変化とは、結局自分の「気づき」によってもたらされた。
 人間の変化とは自身の内発的なものによって引き起こされる、というのは、まったく正しいテーゼであるし、不登校をしている人の「考え」を「変える」などということが、一種の不遜な行為だという意見があることも承知している。
 だが、異質な他者との「対話」によって溶解し変化していく、という物語こそ、今ぼくが読みたいものだった。
 しかし、残念なことに、わかつきはそういうふうには話をすすめてくれなかった。あたり前である。これはぼくの作品ではないのだから。それはわかっているのだが、いろいろ言いたくなってしまうのだ。


 肝心の主人公・希凛が結局なぜ最初いやだった今の学校に行くことを「いい」と思えたのかといえば、「いい人、いい友だち」に出会えたからなのであるが、しかし、なぜこの人たちを「いい人」だと思ったのかは、以上のような理由によって、残念ながら、ぼくには伝わってこない。


 「社会にあわせて無理に自分を変えることはない。自分は自分のままでいい」というメッセージは、校則のおしつけ反対をたたかってきたぼくにとっては、瞳のように大事なスローガンであった。そして、そのメッセージがもつ意義も心得ているつもりである。
 しかし、「あなたはあなたのままでいい」というメッセージは、同時に限界もある。
 自分とは異質な他者を受け入れて、自分の一部(あるいは全部)を崩したり、変化させたりして新しい自分をつくり出していくということもまた必要なことである。「あなたはあなたのままでいい」というメッセージは、「服従」という文脈のなかでは、積極的なスローガンたりえるが、「異質な他者」にむかいあうときは、かたくなな壁になってしまう。

 
 ああ、きょうは何だか、かなり乱暴なことを書き散らしたような気がする。(いつものことか……)




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2004.6.3感想記
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