西炯子『STAYプラス お手々つないで』


 困るなあ、こんな漫画つくられても。
 困るんですよ! ほんとうもう。
 高校時代のこと、思い出すだろ。

 エキセントリックな女の子はよかったよなあ、やっぱり。
 そんな女の子、いなかったけどな。

 そもそも、一般的にも女の子というのは、高校生男子からみて、一種のブラックボックスだったわけ。なんであんな反応するのかわからん、とか。それがまあ、おそがくもあり(「おそがい」=三河地方の方言で「こわい」)、神秘だったりもするのだ。
 そこへきて、ちょいとマイペースだったり、風変わりだったりしてみなよ。さらにだね、なーんか、本とか読んだりしちゃって、教養主義の香りでもしたら、ぼくなんかもうイチコロだったと思うな。そーゆー女の子って、きっと無限の宇宙のような内的世界が広がってんだろーなーとか勝手に想像できちゃって、当該の女の子のハッとする仕草にでも出会った日にゃあ、そりゃあもう、ゴーゴーさとう!じゃないけど、1.2秒で便所にかけこんで単独でゴールインしてたと思うよ。

 不思議系女の子+知性の匂い、って、もうたまらんわけでしたよ。
 知性がそのままオネエサマ的なるものへ通じていて。
 ああ……。
 くり返すけど。
 あ、帰んないで。

 この漫画のヒロイン「山王みちる」という高校生の女の子は、そういうぼくの高校時代の偶像の顕現なんじゃないかなあ。現人神といいますか。ぼくが崇め奉っていたものがヒトの形をしているといいますか。
 で、超エリート高校の小器用・モテ系「佐藤敦士」は、彼女の魅力にいつの間にかひきずりこまれて、ぶんぶんと振り回されている姿なわけであるけど、その恥ずかしい「衒い」や「見栄」、そしてエロの固まりのような正しい男子中高生像は、そのまま高校時代(そして今の)ぼくであることよなあ。(ぼくが高校時代、女の子とクラシックのコンサートに行ったデートもどきのデートにおいて、親のダブルの背広(しかも喪服)を着ていったのは、当時のぼくとしては見栄のつもりだったのだが、今考えると、遺書を書いて電車に飛び込みたくなるほどの恥ずかしさに襲われる。)

 だから、ぼくは、高校時代の一つの偶像を山王みちるを通して、いま目撃しているのであります。
 そして、佐藤敦士を通して、なんとなんとなんとなんとなんとなんと幸福にも、ぼくはこの物語に出演し、山王みちるに翻弄され、見透かされ、そしていくら攻略しても攻略不能なキャラとして山王みちるに相対しているのであります。

「それでは土曜 人もなき白き建物の前にて波に打たれつつ待つ。
 ゆめ2 時刻 御違えなきよう」

 文語がかった文章語で手紙をくれる女の子。
 初対面プレイや観光客プレイをデート中に演じていただける女の子。
 休日にエロ投稿小説を書いている女の子。
 ブルマとスクール水着をふだん着ているなどと嘯いた後で「うそだよ 今のは軽い性的なサービスだ」などと完全に男子高校生を嘲弄する女の子。
 「ぼくにそういう趣味はない! サービスになっとらん!」と怒鳴ると、「おやこれは不首尾」などと軽々と返す女の子。

 そして極め付けは、わざわざ手紙まで書いて、神社の横にある、ヘンな「動く人形群」を「ぼく=佐藤敦士」に見せようとする女の子。「こんなひなびた田舎にもこんなにわたしの心にグッとくる物を作る御仁がおられたことが 何やら言葉にしにくいがうれしく いとおしく 貴くありがたく」「君にわかってもらえるか不安だったが ほかの誰よりも君に見せたかった……」。

 セックスをやりたいばかりの佐藤は、佐藤にこれを見せたかったという山王みちるの「乙女心」を理解せんわけだが、ぼくは、なんで理解せんのだと怒りながら、「あー、やっぱり、山王みちる……いいわぁ……」などと咀嚼して堪能してしまうのだよ。

 ぼく的男子高校生からみた「女の子のブラックボックスぶり」を、極限まで推し進めた形象・山王みちるではあるが、ただエキセントリックなだけではもの足りず、2つの因子がそこに組み合わって、ぼくの山王みちる萌えは決定的となる。

 ひとつは、そんなぼく=佐藤の「内面を理解してくれる女の子」だから。

 「佐藤くんはどうして 寂しそうなのかな……」

 一体、山王みちるがどういうつもりでこの言葉をいったのかその真意は不明だと思うのだが、佐藤のほうは、やっぱ「内面を理解してくれる女の子」じゃないかと勝手に思ったりするだろ。まったくもう。

 そしてもう一つは、突然に、そしてあまりにリアルに「攻略」されてしまう瞬間があるから。
 攻略しようとした佐藤は、山王みちるを完璧な計画のデートに誘い込むが、すべてかわされてしまう。疲れ切ったその帰りのバスで、佐藤は、不覚にも山王みちるの膝のうえで寝こけてしまう。そして、寝ぼけながら自分自身の指をかじる佐藤の手を、山王みちるが佐藤の口から優しく離そうとした瞬間、佐藤はやはり寝ぼけながら、山王みちるの指をしゃぶってしまう。
 そのまま、佐藤は、降車までずっと、山王みちるの指を、唾液まみれになるまで吸いつづけるのだが、山王みちるは、しゃぶるがままにまかせておくのである。
 それはやはり。
 それはやはり。
 愛だろう。
 ええ? どうよ。

「この場面は特にいい。
 ものすごく、いい。
 綺麗事でなく、みっともなさと愛が近い場所にあってこれは、いい。」



 この「みっともなさと愛が近い場所」にある、という言い表わしは、この場合まことに的確である。このようなリアルが唐突に侵入し、ぼくの心に山王みちるリベットを、だだだだだだだ、と打ち込んでいく。

 しかし、高校時代を終えて、人生のサマザマなクズ体験を重ねるうちに、山王みちるがもっていた女性というブラックボックスは、次第にぼくのなかで始末がつけられていった。山王みちるにまとわりついていたロマンチックな塗装は剥がれていき、その内実には西炯子『ひとりで生きるモン!』的な毒のある批評精神があったのだなあと思い知る。
 だから、昔ほどには山王みちる的なものには惹かれないのであるが、こういう強烈な作品を読んでしまうと、たちまち高校生にもどってしまい、高校時代の妄想と憧憬が蘇ってきてしまうのだよ。


 本書は、西の『STAY』三部作の二作目にあたるもので、県立高校の演劇部の5人の女子生徒をめぐる物語を出発点にしている。