城山三郎『素直な戦士たち』


※感想の終わりにネタバレがあります。


 お見合いの席で千枝は松沢秋雄に、唐突にIQを尋ねる。
 「あなたのIQは、おいくつですか」
 できるだけIQの高い遺伝子をもち、しかし人生の覇気は失っているような人間と結婚したい。そのような男と結婚し、猛勉強させて東大に合格させる子どもをつくる、というのが千枝の望みだった。
 『素直な戦士たち』は、お見合いのシーンから始まって、新婚旅行、出産、幼児期、小学校、中学校にいたるまでの、ある母親、ある一家の「東大合格受験戦士養成計画」を描いた小説である。1978年に書かれたもので、「受験戦争」が社会的に大問題になっていた時期だ。本書は、NHKのドラマにもなった。
 現在と違う社会条件はなにか、受験競争という以外にもっと深い真実の描写はどこにあるか――そんなことを考えて読み始めたのだが、そのような問題設定が意味のない、小賢しいものだと思い直した。

 シンプルに、実にシンプルに面白いのだ。

 人間を受験という狭い目的に縛り付ければ、その人間はダメになる、というそれ自体はすでにいまや自明となっている、とりたてて目新しさもないテーゼであるが、その単純明快な問題をまことに印象的に描く。

 実は、ぼくは本書を中学生時代に読み、鮮烈な印象を受けたことを覚えている。
 今回読み返してみて、中学時代そのまんまの鮮烈な印象をまた感じたのだ。
 子ども時代に夢中になったり面白かったりしたものは、大人になってから読み返すとこんな荒唐無稽な、あるいは、タンジュンなお話だったのか、とがっかりすることがある。漫画などでそういう体験をしてしまうことが多い。逆に、もっと若い頃読んだものがまったくちがった深みや立体感をもって、鮮やかに蘇ることもある。古典などがそうである。
 本書はそのいずれにもあてはまらない。
 昔のままの印象、もっといえば、まったく古びていない新鮮な感動をおぼえた。
 「あれ、こんなことが書いてあったのか」とかいう箇所はほとんどなかった。まるで同じである。一つひとつのエピソードまで中学時代の感動そのままに楽しめた。ふつうの厚さの文庫本であるが、引き込まれ、あっという間に読めてしまったのだ。時代が下っても、どんな世代でも楽しめる――それはすなわち、とびきりすぐれた大衆小説、娯楽小説だということである。

 前半、子どもたちに自我が芽生えるまでは、受胎前から始まる千枝が考え出す一つひとつの「英才教育」の極端ぶり、徹底ぶりが妙にユーモラスな、それでいてどことなく悲哀を感じさせるようなタッチで描かれる。
 以下は、優秀な男子を身ごもるために、初夜に際して、千枝が秋雄に体位を指定するシーンである。

「はじめての夜がふけた。
 ピンクのシェードのついたスタンドの灯だけ残し、生まれたままの姿になった二人が、向かい合った。
 秋雄はまぶしくて、まともに千枝の体を見られない。
 抱こうとすると、千枝が、かすかな声で何かいった。よく聞きとれない。
 問い返すと、千枝は消え入りそうな風情で、意外なことを口走った。体位の指定であった。その上、腰の下に枕を置くように、とまでいう」

 後半は、英才教育を施される長男・英一郎の、年子の弟である健次が、大きな存在として英一郎に迫り、また、この完璧な受験サポートの家族体制が次第に破綻していくさまが、描かれる。受験だけの単線の目的に緊縛された英一郎と、まったくの放任で育てられた健次。英一郎は、次第に受験目的の自動機械のように定向進化をとげ、千枝はその目的を遂行するための「下女」となる。そしてこの「自動機械」は、しばしば爆発したり、停止したりするのだ。

「英一郎は、自分で計画表をつくって勉強をはじめた。おどろくほど緻密な計画表であった。
 それまでの躾が実を結んだという満足を通り越し、千枝はおどろき、圧倒された。ついに英一郎が動き出した。千枝としては、その計画に従い、どんな下働きもいとわぬ覚悟である。
 まだるっこしいからと、英一郎は数学塾をやめた。学校の帰り、毎日七時ごろまで、図書館で勉強してくる。夕方は、食事の支度の音がうるさいし、家の内外の音が気になる、というのだ。
 そう聞かされてから、千枝は、夜、台所であとかたづけをするときなど、心臓のちぢむ思いで、音を立てぬよう気をつかった。隣のテレビ、裏の家の風鈴、三軒先のステレオ、一々、文句をいいに走った。家中どこに居ても耳をすまし、英一郎が鈴を鳴らすと、『はぁーい』と大声をあげ、すっとんで行く。茶をいれる。夜食をつくる。ノートを買ってくる。鉛筆を削る……。
 英一郎は、参考書を次々に揃えようとする。書名を書いたメモを渡され、千枝が買いに走る。
 『いますぐ読みたいんだ。さもないと、計画が狂ってしまう』
 夜になっていきなりいわれ、電車に乗って池袋まで探しに行ったこともある」

 こうした息もつまるような、まさに「受験地獄」の家を出た瞬間に、胸に迫るような家族一人ひとりの描写がやってくる。おそらくぼくは、その部分こそが小説としてのこの作品のクライマックスにちがいないと感じる。
 それは、中学生になった英一郎が、塾の帰りにブランコを漕いでいるシーン、それを父の秋雄と弟の健次が迎えにいくシーンである。
 英一郎は、中学生にもなったのに、塾の帰りにブランコに乗る。小学生のとき、ブランコから降りなさいといった教師に乱暴を働いた英一郎は、中学生になっても何かに憑かれたように、勉強の合間にブランコを漕ぐ。ブランコがちぎれそうなほどに、自分が飛び出してしまいそうなほど力をこめて漕ぐ、と健次はいう。

「街角のひとつで、健次が立ち止まった。
 『そこだよ、パパ』
 角を曲がってすぐのところに、低いコンクリート塀をめぐらした空地があった。私有地を借りた形の小公園であった。砂場と滑り台とブランコがあり、うすい闇の中で、そのブランコの人影を乗せてゆっくりゆれていた。
 一目で英一郎とわかった。乱暴な漕ぎ方ではない。ゆれながら夕闇の中にとけてしまいそうなほど、たよりなげな姿であった」

 受験地獄の中で強度の緊張と虚勢を強いられている、すなわち「乱暴に漕ぐ」英一郎と、「ゆれながら夕闇の中にとけてしまいそうなほど、たよりなげな」英一郎。
 その英一郎を一目で見分けた秋雄。
 圧巻のシーンである。

 英一郎を探し出すまでの健次と秋雄の描写もまたいい。

「藤色の夕靄の下りはじめた道を、健次と並んで歩き出す。二人は無言であった。いや、沈黙が父子の会話であった。英一郎についての心配とは別の感情が、胸をあたたかく濡らしてくる。父子二人で散歩するのは、何年ぶりであろうか。あのとき、健次は、『ぼく、パパが好きだよ』と思いつめた表情でいったものだ。大人に近い体つきになったいまも、健次の口から同じ言葉が出てきそうであった」

 受験に狂う家庭の雰囲気に、それぞれの立場から違和感をもっている父子が、奇妙な形で通わせる連帯感は、あたたかいというより、痛々しい。


 作者の城山三郎は、言わずもがな、直木賞作家、経済小説の名手であり、本書は城山の作品群からすれば、異色のジャンルではある。
 城山の根底には、戦争体験がある。個人情報保護法に国家管理の臭いをかぎとって強烈に反対し、さきごろライフワークの集大成として特攻隊の小説(『指揮官たちの特攻』)を書いた城山には、まさにあの先の日本がおこした無謀な戦争への、厳しい批判の気持ちがあり、実はそれが彼の小説全体を通底しているのだとぼくは考える。城山はインタビューでこう答える。「僕は自分の軍隊経験、戦争経験をどうにか書き残したい一心で作家になったようなものです。あの経験さえ伝えられたら生き残った意味があるという気がしていました」
 城山にとっては、戦後の官僚たちさえも、軍事国家を転換させ見事な平和・経済国家をデザインした能才の群れのように見えるのだろう。『官僚たちの夏』で描かれた官僚たちの人間くささはどうであろう。また、戦争や国家という人間が管理される「暗い」領域ではなく、経済という人間の猥雑なエネルギーが衝突しあうジャンルこそ、城山にとっては、もっとも描きたかったものにちがいない。

 教育もまた例外ではない。
 描かれているものは受験戦争であるが、人間を単一の目的のために管理し、染め上げようとする無謀な試みに、城山は「戦前」を見たのではなかろうか。

 ラストで、大ケガをして過度の受験勉強ができなくなった英一郎は、今読めば、悲劇の結末というよりも、何事かからの解放のようにも読める。

「秋雄は何度もうなずいた。……呪わしいことだが、深刻なだけでなく、その底の方で、英一郎のためにほっとする気分があることも否定できない」

 それは敗戦という大破局をむかえながら、「解放」された日本の姿にダブっている、とみるのは、あまりに強引なのであろうか。



新潮文庫
2004.9.15感想記
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