武富健治『鈴木先生』


※ネタバレがあります
※『鈴木先生』3巻の「解説」を書きました



 「その苗字が示す通り、鈴木先生はごく普通の人であり、ごく普通の人が、まるで『神』かその使徒であるような聖人君子として理想の教師像に本気で向き合ったとき、どのような苦悩になるのか、この作品は見事に描き出している」(宮本大人/毎日新聞夕刊06年10月31日付「マンガの居場所」)。

鈴木先生 1 (1)  1巻が出て読んだとき、すでにネットでは話題になっていた。
 面白い作品だとは思ったが、ネット評が「絶賛」にちかいものばかりだったのには違和感が残った。漫棚通信ブログ版が1巻について「この作品、フツーに、まじめに、リアルを描いてるだけに見えます」と淡々とした評価を書いたのに、親近感を覚えた。
http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/index.html

 まず、ぼくが1巻のさいになぜそれほど「熱狂」できなかったかを書こう。いやその前に1巻におけるこの漫画のよさを述べておこう。



豊かな現実に到達するための細分化されたロジック


 たとえば、1巻の冒頭で「げりみそ」事件というものに、鈴木先生は出遭う。
 男子中学生の一人(出水/いずみ)が給食中に食欲が失せるような下品な発言を突如連発するようになる。カレーのとき「げりみそ」と大声で言い、ごはんつぶをウジにたとえ、ニンジンを排泄された未消化のそれに喩える。クラス全員だけでなく、対面で食べている女子生徒・中村は耐えられずこれまた窮状を大声で鈴木先生に訴える。

 鈴木先生は出水を呼び出す。いい加減にしろ、と叱り飛ばす道もあろうが、鈴木先生はそれをとらない。黙秘権を行使する出水にたいして、原因を推理していく、という行動を深化させていくのである。
 なぜ出水がそんな行動をとるようになったのか?

 叱り飛ばさずに、中学生のなかにある幼稚なような、だが、本人には深刻な葛藤に目をむけていく。「一見ごく些細な、しかし、多感な中学生と彼らに向き合う現場の教師にとっては極めて重要な、『問題』群のリアリティーがまずある」(宮本前掲)。
 こう書いてもピンとこないかもしれない。「そんな教師漫画は他にもあるじゃないか」――その通りである。ある「問題行動」の裏に潜む児童や生徒の全体性を把握しようという教師の物語は、「金八先生」をはじめとして、ある意味で王道だ。

 『鈴木先生』においては、従来の教師ドラマとちがうのは、その思索の「過剰」さである(後述するが実際にはそれは「過剰」ではない)。
 まず出水の問題行動が始まったのが、席替えの後である事実をつきとめる。そこからさかのぼって出水が対面している二人の女子(中村と小川)――席替えの前と後――の違いについて考える。

「比較だ
 この2人の行動
 発言を徹底的に
 比較分析するんだ!
 そうすれば
 見落としていた何かが――」

 ここにいたるまでの鈴木先生の思考の発展が、すでにかなりのコマとページを費やして表現されているのだが、そこからの比較がまた細かい。

 まず鈴木先生は、教師からみた二人――現象を把握する。「我々教師から見れば小川は扱い易く――」「中村は少々やっかいな子供だが――」。しかし、鈴木先生はこの現象を次に否定する。「とらわれてはいけない」。何にとらわれてはいけないかといえば、教師の視点からの両者の表面的な差異に、である。「出水 正の――つまり同じ級友の立場に立って見るんだ」。
 「そうすると―― 小川も決してとっつきやすい女子ではなく 中村もまた特別目立って品性劣る女子でもない むしろそのエキセントリックさは少女らしい魅力でもある」。そこから、鈴木先生の思考は、恋愛感情の方向へとすすんでいく。「正直 同年齢の男子に人気があるのは中村ではないだろうか」。さらに思考を深化させる。「まさか… 出水のヤツ… 中村に対する好意のウラガエシ… なんてオチじゃないだろうなァ……」。
 ここで一旦たどりついた結論は、凡百の教師ドラマに出てきそうな陳腐な「ひねり」である。わざわざ後のページで、俗論を代表する教師にもう一度同じ発想を言わせてその陳腐さを強調するほどだ。
 鈴木先生は出水の目を思い出してその陳腐な結論を自身の中で否定する。「いや… あの目はそういうものじゃない…」。教育の現場で感じる単純化への批判とともに、定番の演出をまるで批判するかのような思考の運びである。

 このように、鈴木先生は、あらゆる陳腐さ、単純化、安易さを拒否する。多様で複雑な現実にたどりつくために、鈴木先生は思考を重ね、謬論や予想される単純化に一つひとつ反論していくのである

 これが物語的にはまず「過剰」として現象する。
 漫棚通信ブログ版で、世間のこの漫画への評価を概括して「登場人物が給食ごときで真剣に悩んでる、などとあちこちで評判ですが」と述べているように映るわけである。

 しかし、複雑で、幾重にも曲がりくねり、矛盾しあい、とんぼがえりしている「豊かな教育的現実」に到達するためには、思考は「過剰」にならざるをえない。もっといえば、思考は細分化され、多段階に分割され、深化をとげていかなければならない。
 このあてどもなく、しかし「過剰に」細分化された思考の流れは、マルクスの資本論草稿さえ思いださせる。マルクスは思考の試行錯誤を重ねたものをメモにそのまま書き付け、まるで蛇行する船の航跡のようなものをノートに残している。鈴木先生の思考はそれによく似ているのだ。

 この「過剰」な微視化は、時としてセリフの「リアリティ」さえ損なう。
 たとえば黒田硫黄が『茄子』で使っているセリフは、しびれるほどに日常的である。ぼくはいまだに『茄子』のなかにでてくるゲームをしながらパート先でもらってきた刺身を同窓生と食べる時の、「セーブ そして刺身」というセリフのあまりの「リアリティ」と「かっこよさ」にイカれてしまうのだ。
 このようなスマートな「リアリティ」は鈴木先生にはない。
 あまりに細分化された思考のロジックは、笑い出してしまうほどである。「だけどこの謎かけが真意を打ち明けるにふさわしい相手をはかる取り返しのつかない最後の賭けだとしたら――オレはなんとしても今日! 真実にたどり着かなければならないんだ」。そう胸の内で思いながら、まるで敬虔なキリスト教徒のごとく祈りをささげ(実際には手を組んでいるだけだが)、大ゴマの鈴木先生マジ顔を見たとき、必要なロジックではあるが、そこにいわゆる「本当らしさ」という意味での「リアリティ」は微塵もない。「給食ごときで真剣に悩んでる」とその「過剰」さが笑われるゆえんでもある。

 くり返すが、しかしその「過剰さ」――に見える細分化されたロジックは豊かさにたどり着くためにどうしても必要なものなのだ!
 

 そればかりではない。

 鈴木先生は、実は出水の問題行動の原因に気付きながら実は無意識のうちにその原因にたどりつくことを自分で封じてしまったのではないか、という、自分の立場の基盤まで疑いはじめるのである。マルクスは“イデオロギーは自らの発生根拠を知らない”という旨をのべたことがあるが、自分の立場の歴史性や特権性を疑うところまで鈴木先生の思考と視線はすすんでいく。「その『行動』のもとにあった自身の『誠意』や『熱情』の正しさは微塵も疑うことのないあまたの熱血教師たちとの、大きな違いだ」(宮本前掲)。

 自分が幼少期に受けた教育のせいで、いっしょに食事をしている人の、ある礼儀上のしぐさがどうしても許せないでいるという自分に気づくのである。なぜなら、大学時代にそのことを恋人とおぼしき女性につい口にしてしまい、「心のせまい人」という評価を広められて傷ついた過去をもつからである。

 自らの正当性の基盤の根拠まで疑うことで、鈴木先生の視線はようやく出水のところまで本当の意味でおりてくることになる。
 このように鈴木先生はまるで反論を一つひとつつぶしていくかのように思考の論理を細分化し分岐させて「豊かな現実」に到達するのだ。それは「過剰」ではなく、必要なものなのだ。

 1巻では、以下、酢豚が給食のメニューからはずされてしまう騒動を描いた「酢豚事件」、級友の妹と肉体関係をもってしまう「岬事件」について収録されているが、こうした「過剰に」細分化されたロジックはくり返される。
 問題行動の裏にひそんでいる生徒の心理の推理が、従来の教師漫画にくらべてハンパではないことはこれを読んでもわかるだろう。例えば、夢路行『あの山越えて』はある種のリアルな教育現場の描写だが、子どもの行動と親の離婚などがシンプルかつストレートにそこでは結びついている。「金八」のドラマでもいくつかにはひねられていても、ここまで多様で豊かで微細ではなかった。



なぜぼくは1巻に「熱狂」できなかったのか――正論の担保


 さて、にもかかわらず、ぼくの1巻時点での感想は「面白いが、大騒ぎするほどのものではない」という感じにとどまっていた。ベストオブイヤーのひとつにあげるという気もしなかった。

 なぜならば。

 1巻においては、鈴木先生の側に依然として「正論」が担保され続けていたからに他ならない。そしてそれがある種のうそくささを生んでしまっていたのだ。「人気教師の偽善」の臭い、というと言い過ぎだが、あえて言えばそういうことになる。

 教師ドラマや教師漫画というものは、巨大な「正論」が中心に蟠踞していることが常だ。
 「金八先生」に一つの典型をみるが、そのアンチテーゼである『GTO』や『ごくせん』のような「型破り教師」モノでさえ、それは「金八型でない正論」を主張するものにすぎない。そして、その場合、教師の側に正論はつねに担保されている。
 もちろん、「金八」にしても、あるいはその流れを組むドラマや漫画、たとえば一丸の『1年1組甲斐せんせい』でも、ときどきに失敗をし逡巡し後悔する。しかし、それはめざすべき正論に実践が及ばなかった悔しさや後悔であり、作品のどこかしらに正論の根拠は担保され続けている。読者はある種のパターンとともに、安定感をもってこれらの物語を消費できる。
 先にあげた夢路行『あの山越えて』でさえ、そうである。この作品はかなり淡々とした調子のリアリズムであるが、オトナの諦念にも似た達観がつねに流れ、それは作者=主人公の正論の変種である。

先生! (1)  ぼくはいま合わせて河原和音『先生!』(女子高校生が男子教師と恋仲になってしまう物語)も文庫で読み直しているのだが、ここでは教師は「なんつうかカミサマですから」といえるくらいに(笑)正論のカタマリである。いちいち主人公の少女にほどこす新米教師のアドバイスは、クールで達観している。たかだか二十数才の若造のたわごとが「無謬の神」として現れるのだからすごい。少女の脳内を精確に表現したという意味ではまったくリアルなのだが。

 ことほどさように教師漫画において「正論」の確保ははずせない。

 そして、『鈴木先生』1巻においてもそれが逃れられているわけではない。

 1巻において――たとえば「げりみそ」事件をみてみても、たしかに鈴木先生は自分の意識のなかにひそんでいた「ひとつのマナーへの偏執」「それによるトラウマ」に目をむけ自分の根拠を疑う。「オレたちの心の方が正されるべき問題なんだろうか――」「翌週 出水 正の両親を呼び出した それはもちろん注意や文句を言い並べるためではなく オレ自身が救いの光を求めていたのかもしれない…」――こういう「しおらしい」自省を鈴木先生はのべるわけだが、しかしぼくにはこれはとても「優等生」的な正論の確保に読めた。そしてこの程度の自省なら、他の漫画やドラマにもあるだろうと思わせた。

 このセリフのあとに、呼び出された出水の父親(大学の講師)が問題をクラスの「自由な討論」に付すべきかという鈴木先生の提案にたいして「『話し合い』が相手を打ち負かし自分を通すための戦闘…『討論』に落ちた時……そうした体験ばかりが積み重なれば内面での葛藤を乗り越えていく大切な機会が失われてしまう…… 生徒それぞれの胸の内で思考を熟成させる機会を与える そんな選択も――教師として決して責任の放棄ではないはずです 教育は 折りにふれ ではないでしょうか」と述べることは、それ単体でとりだしてみれば、人間発達の弁証法ともいうべき真理だ。
 しかし、こうした発言を「性急」に載せてしまうことによって、『鈴木先生』という作品には作者=主人公に正論が「性急」に担保されてしまう。

 注意しておくが、ぼくは教師の漫画に正論が不要だと言っているのではない。
 教育という営為が、正しいと思う価値観を継承させていくものだとすれば、「正論」のない教育はありえない。しかし、それが痩せた正論であったり、うろんなものであればすぐに生徒に(そして読者に)見抜かれてしまう。ゆえに教師漫画とは正論との格闘であり、正論をめぐるドラマツルギーでもある。ちなみに安田弘之『先生がいっぱい!』は正論を徹底的に放棄した野心的な教師漫画だといえるが、作品としては破産した。

 さらに、小川蘇美という女子生徒に対して「ヤバいスイッチ」が入ってしまう様も描かれる。
 「@教育的指導」というエピソードでは、性にかんする指導をおこなう教師自身の性意識そのものに切り込む。ここでも指導する教師自身の基盤の正当性自身を問うのだ。
 しかし、このエピソードの終わりには、鈴木先生は小川にたいする「ヤバいスイッチ」が切れている。小川に会っても「全然――大丈夫になっている!!」という自分にびっくりするのだ。

 ぼくはこのエピソードの結末を読んだ時(そしてそれは1巻の結末でもある)、純愛とかそういうものでなくて、本当にたまたま変な性的スイッチが入ってしまうときが教師というのはあるよね、ということを思った。
 つまり、この回かぎりのちょっとしたエピソードとしての「生徒に抱いてしまう性的な意識とか欲望」という「味つけ」としてこの問題をとらえたのだ。
 先生も人間だからこういうことってよくあるよね、という程度の逡巡として。
 そして、その自らの性意識を問うという設定がこのエピソードの中ではあまりよく効いていないようにも感じたために、ますますこの「スイッチ」問題は単なる味つけという印象を強めた。
 一時的な「スイッチ」という程度のリアル。「そういうこともあるよね」的なリアルの水準だ。



2巻における驚くべき地平――正論の基盤への激しい攻撃


鈴木先生 2 (2)  しかしである。
 ようやくぼくは2巻について話ができる。

 2巻を読んで、ぼくはこの作品に対する印象を大きく変えた。すごい作品だと思ったのはこの2巻においてである。

 2巻では、まさに鈴木先生の側にある正論や根拠を脅かすことに、驚くべき分量が費やされている。そしてその攻撃の質たるや、激しい。激しすぎる。この激烈な攻撃にたいして、読者も激しく心を動揺させられる。安閑としておれないのだ。

 すでに1巻において、萌芽はあった。
 1巻で桃井先生という同世代の女性教師との間で、生徒を信用するしないという論争をおこなう回想シーンがある。「子供を信じない教師が子供の信用を得られます!?」と叫ぶ桃井先生にたいして、「本質まで信用するなとは言ってません!」「だから――気づかれないようにやるんですよ!」と鈴木先生が「戦術」を述べるのである。
 「き…聞きました!? 人気No.1の鈴木先生が裏では子供なんて信じるなだって……!」と半狂乱になって職員室じゅうに告げる。実際には、当該の問題児はそのあと問題をおこしてしまうために、実践的には桃井先生が「敗北」する。後日、桃井先生は、鈴木先生にイヤミったらしく叫ぶのだ。

「私は誰かさんみたいに表でいい先生面してウラでコソコソ疑って嗅ぎ回るような器用なマネできないんです!」

 しかしこの段階では、鈴木先生の「誤解されがちな、リアリスティックな対処」を浮き彫りにするための道具的エピソードでしかない。

 微細で多段階で豊かなロジックによって現実に迫るという鈴木先生の方法は、当然生徒に人気を博する。しかし、2巻ではその鈴木先生の「人気」の基盤そのものを激しく攻撃するのだ。



子どもの「無垢」さえも攻撃される


 まず「人気投票」事件。
 先生の人気投票を女子生徒たちが仕組み、あわせてワースト投票までやり、それを印刷してバラまいてしまうのだ。
 鈴木先生は当然トップにくるのだが、ワーストトップに来た山崎先生という同年代の体育教師は、常日ごろ鈴木先生の人気に強いコンプレックスを抱いていた。
 このとき、教室の子どもたちの前で取り乱す山崎先生の描写は、読者を動揺させる。
 他の教師にひきずられながら山崎先生が叫んでいる中身は、たしかに妬み・嫉みの類であるが、山崎先生的な真実であろうという妙な説得力がある。
 引きずりだされる山崎先生の叫びを聞きながら鈴木先生は耐えきれない様子でつぶやく。「積もり積もって――オレが追い込んで壊したっていうのかよ!!」。

 鈴木先生は山崎先生の叫びをバカバカしいという形では聞き流さなかった。「積もり積もって――オレが追い込んで壊したっていうのかよ!!」ということにたいして、涙を流してしまうところまで自責を感じてしまうのだ。
 桃井先生が「私…山崎先生の気持ちは少しわかるんだ―― …経験あるからね…」とのべるとき、鈴木先生の「正論」的な方法が「正論」として存在するだけですでに人を傷つけ追い込んでいるという恐るべき事実をつきつけるのである。

 ここにおいて、鈴木先生の「正論」の基盤は激しく攻撃される。

 なるほど、読者は依然として鈴木先生が間違っているとか極悪人であるとは思わないだろう。しかし、担保されない不安な「正論」として読者の前に姿を現すことになったのだ。読者は「人気投票」事件を実にスリリングな気持ちで読むにちがいない。なんたって、ぼくがそうだったのだから!

 そればかりではない。
 通常の教師ドラマや教師漫画においては、事情をかかえた子どもたちは「イノセンス」であり、無垢であるがゆえにそれは別の意味で正論を担保されている。世の中で「被害者」という立場がなぜか自動的に「正論」の特権を得ているように、問題をかかえた子どもたちが激情にまかせて「オトナたちが汲み取ってくれなかった真情」を語る瞬間、その子どもは「正論」を体現していることがあらかじめ担保されているのだ。

 ところが、この人気投票事件のカラクリを、首謀者であるマリという女子生徒が涙ながらに語るのだが、驚くべきことに、作者はこのマリという少女の「正論」の特権性さえ剥奪してしまうのだ。
 すなわち山崎先生がベタベタと河辺という女子生徒の体を触るのでそれを告発することが実はこの人気投票の本当のねらいだったのだと涙ながらに告白する。

「私 カーベェ(河辺)のためにやったのに…… カーベェを泣かしたら全然意味ないじゃん!」――だから泣かないで、とまるで自分の「善行」に酔いしれる悲劇のヒロインのように泣いている河辺を、自分も泣きながら慰めようとする。
 ところが、顔をあげた河辺は涙を流しながら意外なことを口走る。

「マリ…
 何でそんなひどいことするの…?
 つき合ってる山際センパイのこともひどく言うし――
 男の人があたしにやさしくすると
 そんなにイヤなの……?

 私…
 山崎先生にやさしくしてもらって…
 本当はうれしかったのよ!!


 びっくりである。おいおい。
 人気投票で級友の窮状を救おうとした無垢な少女の善意は、当の救済相手の級友によって粉々に打ち砕かれて、マヌケきわまる愚行として満天下に恥をさらしたのである。わあああああっと泣き崩れるマリ。「もういい!! あっち行って! もうヤダあたし――」。半狂乱だ。
 
 引きずり出される時にこれでもかと描かれるときの山崎先生の涙まみれの顔といい、ここで「本当はうれしかったのよ!!」と叫ぶ河辺のコマといい、そして錯乱するマリといい、それはグラフィックとしてもはや何らの「過剰」さも感じさせず、この混乱を表現するのに必要な劇的演出にとって、絶対的に適正なものになっている。読者はまるでその教室にいるかのような狂乱を味わいながら、スリリングにページを繰るであろう。

 そしてこの後、「@昼休み」というエピソードでも、「鈴木先生的偽善」ともいうべき「人気」にたいして、今度は卒業生に叫ばせる。
 卒業して高校に行った「落ちこぼれ」でガラの悪い白井が母校を訪ねてくるが、担任だった鈴木先生ではなく、迷惑をかけた生活指導の岡田先生を指名して、卒業後の生活についてのグチをこぼすのだ。

 岡田先生と話し終わった白井は、談話室から岡田先生と談笑しながら出てきて、まるで演説するかのように叫ぶ。

「岡田ちゃんは損な役を引き受けちまってるんだな! でもよ――本当の人気ってのは時間が経てばちゃんと結果になって見えてくるもんなんだぜ!? なァ? オレの学年でよ 鈴木先生鈴木先生ってキャーキャーベタベタしてた優等生のヤツらで卒業してからここを訪ねてきたヤツってどれだけいる? ほとんどいねェんじゃねェか!? オレたち落ちこぼれは受けた恩は絶対に忘れねェ!! いい子にしてひいきされてよ… その場を上手に楽しんで次の場所に行っちまえば昔のことなんかすっかり忘れて――出世だの安定だののために前ばっか向いてる薄情なヤツらとは違うんだ!」

 職員室が重苦しい雰囲気に包まれる。
 白井が立ち去ったあと、岡田先生が、弁解なんだか、白井の擁護なんだか、そして自負なんだかわからないフォロー演説を職員室でぶつ。
 これらは、まったく別の角度からの「正論」として、鈴木先生の基盤を激しく揺るがす。そして読者の心をも。
 
 実はこのあとで作者は驚くべきカタルシスを用意しているのだが、それが一体なんであるかは、実際に読んで楽しんでほしい。

 このエピソードは「よっしゃっ それでは――もうひと頑張りいきますかァ!! 後半戦出ぱぁつ!!」と「さわやかに」叫ぶ鈴木先生の大ゴマでラストとなるのだが、これは一見すると「さわやか熱血教師モノ」のようなラストである。
 しかし、岡田先生=白井的なものと、鈴木先生との分裂は、なんら埋められることがないのに、このような「さわやかさ」で終わっていることは、実はものすごい恐ろしいことだといえる。鈴木先生の顔にカゲが入り、目もすこしうつろのように見えるのは偶然ではあるまい。
 現実は何も解決にはいたらず、正論は脅かされたままでその現実を生きなければならないという教師的真実がこの「さわやか」な結末にはある。

 さらに、続く「@嵐の前夜」というエピソードでは、昔の同僚だった関先生という女性教師と、食事に行ってその場でまたしても鈴木先生的基盤を激しく攻撃するバトルを展開するのだが、それはもういちいち紹介するのはやめておこう。
 このように、2巻では、巻の大半を費やして鈴木先生的正論を攻撃する。



「性的対象として子どもを見る教師」


 その攻撃の最たるものが、「小川病」と作品中で形容される、鈴木先生の中に「巣食う」、女子生徒・小川蘇美にたいする性的欲望の復活だ。
 2巻において、鈴木先生という生身の人間に生じきたった性的意識はもはや「一過性」のものではなく、鈴木先生のなかには生徒を性的な対象として見ているという眼差しが一貫していたという、「恐るべき」真実へと変わる。
 教師の不祥事といえば、いまこのテの話題ばかりである。
 いわば、現代において教師の正当性や正論の基盤を最も激しく脅かす材料といってもいい。

 あなたは、自分の子どもを性的対象だと見ている教師に、委ねられるだろうか? 人間だからそういうこともあるさと笑っていられるだろうか? 毎日のように裸のわが子と妄想のなかで戯れている教師に――この作品はそのように挑発しているかのようである。

 しかもそれを「恋人との関係が修復するまでの一時的な観念的遊戯」だといって自分に言い聞かせることとかがリアルすぎ。
 “妄想のなかの小川が全裸のうちは妄想だが、下着など衣服を着け始めたら現実への浸食だとみなす”という鈴木先生の「自分ルール」も超笑える。リアルすぎて。

 実は、山崎先生の根底には小川への性的執着があったことが、これまた驚くべきエピソードとともに暴かれるのであるが、そうなってみると、小川病がぶりかえした鈴木先生というのは、山崎先生と何ら選ぶところがないということになる。


 もはやここには、他の教師漫画のように、読者が安心して読める「正論」の基盤がない。かといって、「正論」がないのではない。鈴木先生が実践する「正論」はあるにはある。しかし、いまやその「正論」はひどく懐疑にみちた、不安で、頼りなく、よるべないものとしてぼくらの前に投げ出されているのだ。

 そして、教育をめぐる等身大の正論とは、そのような不安で頼り無いものであるはずだ。だれも自信がもてずに教育の現場にいるのである。

 このようにして到達するリアルがあったのか! とぼくは驚いている。

 3巻においてまたしてもまったく予想だにせぬ新しい地平のリアルへと進むのか、それとも尻すぼみで終わってしまうのか――この漫画がどのような展開を見せるのかまったくわからない。これはこれまでの教師漫画では絶対にありえなかったことである。その不安のうちにこそ漫画を読むという快楽そのものがある。


 余談であるが、「小川に恋する5人のうちの1人…!!」と解説される竹地公彦の初登場時の超いい加減な造形(中学のときのぼくの自画像ラクガキみたいw)と、「その中でも… 前回の席替えで小川の隣の席をゲットした… いわば一馬身リードした男っ!!」という鈴木先生の内語がむちゃむちゃ可笑しい。成績優秀だが体育は苦手とか、ここでのキャラクター解説といい、竹地は中学時代の「リアルぼく」である。

※『鈴木先生』3巻の「解説」を書きました




双葉社 アクションコミックス 1〜2巻(以後続刊)
2007.3.12感想記
(2007.6.14補足)
この感想への意見はこちら
メニューへ戻る