谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』



※ネタバレがあります


涼宮ハルヒの憂鬱  学校を破壊したい衝動に駆られたことはあるだろうか。
 それは、夜の校舎窓ガラス壊して回った行儀よくまじめなんてくそくらえと思った、とかいうニュアンスではなく、学校という退屈な牢獄を観念的に爆砕してみたい、という衝動だ。
 志村貴子の漫画『敷居の住人』で、主人公が学校を爆破するという妄想を一瞬いだくシーンがあるけど、これは抵抗や抗議としてではなく、学校という退屈な空間、そこから外につながっている退屈な社会やシステムというものをコナゴナにしてみたい衝動のようにぼくには読めた。

 いや、破壊や爆砕でなくても、学校という退屈空間をめくるめく非日常の空間に変えてみたい、という衝動でもいい。
 学校を舞台に「戦争する」という妄想は、そのひとつ。
 宗田理『ぼくらの七日間戦争』というのは有名なところだけども、学校そのものを戦闘の舞台にするという妄想でいえば、たとえば冬目景『ZERO』なんかもそうである。いちばんソフトな形態、というか現実に近い形態としては、ゆうきまさみ『究極超人あ〜る』に出てくる「戦争ごっこ」がそれにあたるだろう。

 高見広春『バトル・ロワイヤル』だって、舞台が学校施設ではないというだけで、ぼくからしてみると、よくある「学校戦争」幻想の延長にすぎないような気がする。過酷な味つけにあまりまどわされず、思春期のゲーム的妄想だと思ったほうが、スジが通る。

 かくいうぼくも、高校時代に妄想めいた小説を書いたことがあって、それは県内でも有数の広さを誇る自分の高校の敷地をひとつの「城」にみたてて、何百人、何千人という「殺しあい」をさせるものだった。書いている自分としては、なにか真剣な悲劇を書いているつもりは毛頭なくて、ほんとうにゲーム感覚のようなつもりで書いていた。

 「なーんか面白いことない?」

と高校時代、前の席に座っていた友人が口癖のように言っていた。
 学校というのは退屈の象徴だ。
 いろんな刺激をうけるその時期に、座席にしばりつけて強制的に理解不能な話をえんえん聞かせているわけだから、それを退屈システムの現実化とみなすことにそう無理はない。

 いや、近代の草創期には、学校というシステムは、古い農村共同体がつくりだす因習をうちやぶり「蒙を啓く」明るい光だったし、高度成長期に入ってからでも、そこで学んで学歴をつんでいくことが何かしらの明るい未来に通じていくような予感が世の中には満ちていた。
 学校で教えていることが陳腐なこと、うそくさいことのように感じられてしまう時代には、学校は教えていることだけではなく、空間全体が倦怠感に満ちあふれることになるだろう。

 ライトノベルである『涼宮ハルヒの憂鬱』は、退屈な学校空間にいらだつ、女子高生・涼宮ハルヒの物語である。物語は、主人公である「俺」こと「キョン」(名前が出てこない)が高校入学以来、涼宮ハルヒというエキセントリックな人物が気にかかるところから始まっていく。

 どれくらいエキセントリックかというと、涼宮は入学してからのクラスのあいさつで、

「ただの人間に興味はありません。宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上」

というセリフをいうくらいにエキセントリックなのである。

 ハルヒはいつもいらだっている。それはこの学校には退屈なことばかりしかないからだ。いや、それは学校だけではなく、この世界、といったほうがいい。
 ハルヒは、キョンを無理矢理まきこんで「SOS団」、すなわち「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」をつくってしまう。そこにはメガネの本マニアの女性(長門有希)、巨乳で童顔の女性(朝比奈みくる)、マイペースな男性(古泉一樹)がやはりハルヒに「拉致」されて入ることになる。そして「この世の不思議」を探しに、ビラをまいたり、街に探しにでかけたりするのである。

 ハルヒの精神が不安定になると日常世界のどまん中に、亜空間が出現し、そのなかで青白く光る巨人が世界を破壊しまくる。登場人物の一人は次のように「巨人」を解説する。

「涼宮さんのイライラが具現化したものだと思われます。心のわだかまりが限界に達するとあの巨人が出てくるようです。ああやって周りをぶち壊すことでストレスを発散させているんでしょう」

 退屈を粉砕しようとする衝動をぼくらは何とか形にしたいと思っている。
 ずいぶんと直截のようにみえるが、谷川が表現した衝動は、このコバルトブルーに光る巨人だった。ハルヒ自身で制御できなくなるほどの衝動だ。

 ぼくらはたしかに日常の退屈をこんなふうに粉々にしたかった。
 すでに何度も引用してきたが、吉岡忍が次のように言ったことは示唆深い。

「サブカルチャーはメインの、あるいはトータルな文化が硬直し、形式化して人々の生活実感や感受性からずれてくると、あちらこちらで噴きだし、広がっていく。メインのつまらなさ、退屈さ、権威性に気づき、そこからの疎外感を感じとった人間は、みずからの生理や感覚をたよりに動きはじめる」(吉岡忍『M/世界の、憂鬱な先端』)

 メインカルチャーを築こうという左翼であるぼくとしては、深刻に考えなければならないものがそこには横たわっているはずなのだけど、殺しあう物語を紡いだことのあるぼくは、やっぱりハルヒの側にも身を寄せている。「世界」と「私」というふうに乖離し続けた心は、「なんか面白いこと」を探し続けているのだ。

 ハルヒは、世界の退屈さを、次のように表現する。
 父親に連れられていった野球場で、自分は数千人の中のたった一人だったことに愕然とする。そして、さらにいえば、球場に来ている人たちさえ、日本と世界のなかでは、一握りにすぎない数なのだ。

「あたしはまた愕然とした。あたしなんてあの球場にいた人混みの中のたった一人でしかなくて、あれだけたくさんに思えた球場の人たちも実は一つかみでしかないんだってね。それまであたしは自分がどこか特別な人間のように思ってた。家族といるのも楽しかったし、なにより自分の通う学校の自分のクラスは世界のどこよりも面白い人間が集まっていると思っていたのよ。でも、そうじゃないんだって、その時気付いた。あたしが世界で一番楽しいと思っているクラスの出来事も、こんなの日本のどこの学校でもありふれたものでしかないんだ。日本全国のすべての人間から見たら普通の出来事でしかない。そう気付いたとき、あたしは急にあたしの周りの世界が色あせたみたいに感じた。夜、歯を磨いて寝るのも、朝起きて朝ご飯食べるのも、どこにでもある、みんながみんなやってる普通の日常なんだと思うと、途端に何もかもがつまらなくなった」

 自分の小さな世界が社会と接続されたとき、自分の世界の陳腐さを知る。
 それはまぎれもなく「成長」なのだが、当の本人は気づきはしない。
 退屈の粉砕とはかけがえのない自分をとりもどす闘いである。ああ、なつかしき実存主義哲学を思い出すではないか。

「現代における実存主義の展開をうながしたいまひとつの大きな原因は、近代の機械的な文明が人間を平均化し集団化したことに対する反抗であり、人間的実存の抑圧に対する反逆である。……人間が群集のなかに埋没し、たんに一個の数になってしまっている悲惨な状態を、キルケゴールはひとりの人間がひとつの音より以上でも以下でもなくなるロシアの農奴の吹奏楽にたとえた」
「人間的実存を集団の一単位、機械の一部品にしてしまうこの危険、そのような非人間的な生存の条件に対して、最後の抵抗をこころみようとするのが、実存主義である。……実存はまずそこにある。実存は本質にさきだつ。実存は絶対的な出現である。この出現はいかなるものをもってしても理由づけることができない。『実存するものは、すべて、理由なしに生まれ、弱さによって生きのび、出会いによって死んでいく』と、サルトルの主人公は述懐する。……私らは何ら理由なしに、この不安と絶望の時代、この人間喪失の時代に、投げ出されているにせよ、私はこの時代、この状況を私自身のものとして生きなければならない。誰も私に代って私の状況を生きてはくれないからである」(松浪信三郎『実存主義』)


 谷川流が示した解決策とは、涼宮ハルヒを「神」と見立てることだった。

「世界は涼宮さんによって作られたかもしれない」

 登場人物の一人の言葉だ。
 この退屈な世界をつくったのも、それを破壊するのも、それは涼宮ハルヒ次第なのだ。世界は、「私」の内面世界と直結している。いわゆる典型的な「セカイ系」物語の世界像であるが、谷川の面白さは、そこに「宇宙人」やら「超能力者」やら「未来人」を配したことである。

 「私」と他人との間に横たわる深淵は、絶望的なほどだ。
 しかし、谷川は自閉することを選ばずに、深淵があるゆえに、その深淵のむこうにいる他人を「宇宙人」「超能力者」「未来人」という、心躍るブラックボックスと描いた。
 言い換えれば、ぼくらがもし日常の退屈世界を超克しようとおもえば、そのカギは「他人」にある。ハルヒの生活するすぐ横には、何の変哲もない「級友」がいるけども、そいつらは「宇宙人」で「超能力者」で「未来人」かもしれないのだ。
 自分が理解不能なほどに他人というのは、底知れない。
 見方を変えていえば、まさにハルヒが探していた、わくわくするほどの「世界の謎」が実はすぐ横にいる他人のなかに内在しているということなのだ。
 自分をのぞく外的世界は、実はそれほどに豊穣な世界である。

 虚構がつくりだす「内的現実」は、外的世界の現実にくらべて「面白い」と考えるのが、オタクの心性だが、同時に、外的世界そのものの豊かさと底知れなさに気づいた人々は、自然科学やら社会科学やらにハマッていく。どちらがより「面白い」とかいうことはない。実は、内的世界にも、外的世界にも、信じられないような豊かさが詰め込まれている。
 そのことに気づいた瞬間、世界の退屈さは破砕されるだろう。

 そして、自分も自分を取り巻く世界も、おどろくべき豊穣さと神秘に満ちた世界だと気づくとき、自分というもののかけがえのなさに思いいたる。しかし、ハルヒはそれをまだ模索しているのだ。

 謎、といえば、思春期の男子からみたオンナノコほど、謎なものはない。
 ぼくにとって、同窓の女の子はやっぱり神秘だった。
 突拍子もないことを突然口走ったかと思うと、ぼくにはさっぱり理解できない行動にのめりこみ、そしてぼくの恋心をゆらすようにぼくを巻き込んでいこうとする。それは涼宮ハルヒそのものじゃないか。
 キョンが迷惑千万にハルヒに巻き込まれながらも、次第次第にハルヒの思惑にハマり、いつしか心惹かれるようになっているのをみると、中高時代の自分をみるような既視感がある。

 巨乳とかメイド服とかロリ顔とか、萌えのドライヴを物語に内蔵し、単なるキャラ萌えとしても楽しめるように構築されてはいるものの、全体はきわめて正調の「少年文芸」である。少年期にぶつかる課題が、まさに今ふうに転がしてある。
 ただ、これがどれほどの可能性をもった作品かということは、シリーズ全体が終わってから言いうることであろうと思う。
 第一作目である本作を読んだだけでは、まだまだ問題はスタートラインについたばかりであるというような気がしている。





角川スニーカー文庫
2005.11.29感想記
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