手塚治虫『シュマリ』


 手塚治虫の青年漫画には、かなりひんぱんに「強姦」が登場する。
 『アドルフに告ぐ』でも、『きりひと讃歌』でも、強姦が登場し、女性が屈服させられる。この『シュマリ』でも、主人公のシュマリをはじめ、男爵夫婦や太財炭坑社長のように一種の「和姦」の体裁をとった強姦シーンが登場する。

 他の男性漫画家たちが隠蔽したかった男女間の力関係を、手塚はこうした暴力のなかに、はっきりと描き出そうとした。強姦は、どれも女性が暴力のうちに男性に支配されていく「手続き」として存在する。

 男女間の問題に限らない。
 手塚は、あらゆるものを実に明示的に、はっきりと描く作家であると思う。
 メタファーを使う場合も、あまりわかりくくはない。錯綜せず、シンプルに描く。
 『シュマリ』とあわせて、少年漫画である『どろろ』も読んだのだが、戦争や政治の抑圧によって、人間が殺されていくところを、遠慮会釈なく大量に描く。まさに大量に。比喩を使う時にも、国の南北をわかつ無意味な壁、共同体を周期的に突然おそい富を収奪していく化け物(政治)などなど、非常にわかりやすい。その大量の残虐なシーンひとつをとってみても、手塚の作風がいかに安手のヒューマニズムとは無縁であるかは一目瞭然であるが、同時に、主人公のどろろが「おいらは人間だ!」と宣言するシーンや、あらゆる感覚・運動の器官を失った百鬼丸が化け物を退治するたびにそれらの器官(五感)を回復していく比喩をみると、逆に、手塚はやはりヒューマニストなのだということもまた一目瞭然である。

 『シュマリ』は、明治維新期の北海道を描く大河ドラマで、男と駆け落ちした自分の妻を追って北海道に現れた士族の成れの果てである「シュマリ」(アイヌ語で「キツネ」の意)を主人公にする。
 シュマリ自身はいったい何をめざしているキャラなのかさっぱりわからないのだが、周辺でおきていることは、実にわかりやすい。北海道という自然を開拓していく開拓民たちの苦労とともに、その開拓の過程がアイヌの土地を奪い、自然を搾取し、醜悪な近代国家が一帯を席巻していく過程そのものであるということを、実もフタもないほどストレートに描く。

 物語のラストは、シュマリが拾って育てたアイヌの子どもが、強制的に日露戦争にかり出されるというシーンである。そして、その子どもは、行方不明になっていたシュマリと、行軍中に偶然中国大陸(「満州」)で出会うのだ。その子どもが出征前に日露戦争や日清戦争をはっきりと「侵略」だと規定する。
 手塚は、北海道開拓が「近代化」の名の下におこなわれた侵略そのものであり、これこそが日本の近代国家の血と火の文字で書かれた年代記だと主張しているのである。侵略された民族であるアイヌが「日本国民」として侵略戦争に動員されることをもって、その侵略の完成を象徴させる。
 しかし、日本の近代が欲望した侵略はそれをもっては終わらず、その敷衍がまさにアジアへの侵略の開始だと手塚は見ているのである。だから、シュマリはそのフロンティアにいつもいることになる。アイヌが侵略者の戦争に動員されていったように、こんどは朝鮮民族や「満州」の人々がそうなっていくであろうことを暗示させる。
 昨今、なんとかの一つ覚えのようにくり返される「朝鮮の近代化は日本がおこなった(だから植民地支配は正しかった)」という言説の浅薄さは、この手塚の近代化論ひとつをとってみても、すぐにわかる。

 ことほどさように、手塚はストレートである。
 少し組み立てを重層にしてあっても、読者にとどけたい思い自体を、手塚はまったく隠そうとせず、しかも容赦がない。ネットで手塚が国民栄誉賞をもらえなかった原因として「赤旗」に何度も連載したからだという言説をみたことがあるが、そんなチンケな話ではなく、手塚の漫画は、ある種の人々にとっては実に忌わしい物語だからなのである。『火の鳥』でも神武東征が残虐な侵略であるとはっきり書いている。

 この手塚のストレートさ、仮借のなさは、その思想の根底に、戦争体験があり、まさにその構造自体が戦後民主主義の精神そのものだからである。そのリアリティにとまどう人々は、それを自虐史観などといって攻撃するわけだが、本来、戦後民主主義がもっていた観察眼とは実に容赦のない、露悪的なものであったといえる。
 手塚の評価が、一部の漫画評論家や一部の漫画好きのあいだで「物足りない」という意味で「面白くない」というふうにされているのは、戦後民主主義がいまやすっかり「偽善者」「ええかっこしい」という役回りをかぶせられているのに似ている。手塚の漫画のストレートさが、「単純なお話」のように見えてしまうのだ。

 だが、ぼくは、今回『シュマリ』や『どろろ』を読み直してみて、「意外に」面白かったことを再発見した。そして国家や戦争、男女についての世の中の言説が、鋭さを失いつつあるなかでは(これは単に排外的ナショナリズムの台頭のことだけでなく、たとえば戦争について国家や侵略の問題にふれずに「争いが止みますように…」とだけいうような言説もふくんでいる)、逆に手塚のシンプルさやストレートさは、新鮮な魅力をもって蘇ってくるのではないかと思った。
 
 
 

秋田文庫(全4巻)
2004.9.18感想記
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