『啄木歌集』



 こころよく
 我にはたらく仕事あれ
 それを仕遂げて死なむと思ふ

 つれいあが、65で定年したら死にたいという。ぼくは、128才まで生きたいのですが。どっちが正しいでしょうか。



 非凡なる人のごとくにふるまへる
 後のさびしさは
 何にかたぐへむ

 不破哲三のむこうはって、講義とかしちゃったりしてね。笑いもんですよ。



 ダイナモの
 重き唸りのここちよさよ
 あはれこのごとく物を言はまし

 こうやって、ネットでの言葉を積み上げていくことは、すべてむなしい空費なんでしょうか。いや、そんなことはない、いつかダイナモみたいな唸りを出す言葉をつむぎたいと自分にいいきかせているんですけど。



 どんよりと
 くもれる空を見てゐしに
 人を殺したくなりにけるかな

 人を殺したくなったことはありませんが、死にたくなったことはあります。



 一隊の兵を見送りて
 かなしかり
 何ぞ彼等のうれひ無げなる

 なんの心配事もなさそうに歩いていても、心配事はあるんですよ。っていうのは、訳知り顔の賢しらな解説にすぎません。まじで哀しくなることがあるんだよ。お前を見てると。と言われました。



 ある日のこと
 室の障子をはりかへぬ
 その日はそれにて心なごみき

 マスカラで鼻の下に生えているヒゲを引っぱりだすという作業にわけもなく一日中没頭していたら、気づけば夜中でした。



 顔あかめ怒りしことが
 あくる日は
 さほどにもなきをさびしがるかな

 お前さあ! どうしてくれるわけ!? あれほど言っといたじゃんよ!! 「BSマンガ夜話」、次回は『百鬼夜行抄』だからちゃんと録画しておいてって!! なんでそれでこのビデオ、半分以上、水野晴郎の「シベリア超特急」が録画されてんだよ!? え!



 途中にてふと気が変り、
 つとめ先を休みて、今日も
 河岸をさまよへり。

 中学校時代、午前中の授業を理科室でうけていると、田んぼがずーっと見えて、もんのすごく気持ちがよさそうで、こういうことやりたくなりました。まあ、その前に、お前は午前中「ふとんの国」に旅立っているじゃねえかというツッコミもあるでしょうが。



 あの頃はよく嘘を言ひき。
 平気にてよく嘘を言ひき。
 汗が出づるかな。

 今でも会議とか自主ゼミとかでやってます。ぼく。
 夜、一人の下宿で、ふと思い出して「わあっ」とよく叫んでしまいます。



 「石川はふびんな奴だ。」
 ときにかう自分で言ひて
 かなしみてみる。

 やってみたことはありませんが、すごくかなしくなるんでしょうね。本当にかなしくなるといやなので、やる勇気がありません。



 五歳になる子に、何故ともなく
 ソニヤといふ露西亞名をつけて、
  呼びてはよろこぶ。

 ナンシー関が雑誌「小学三年生」で同じことを自分について言ってました。ぼくも、紙屋アンドレ研究所とかどうでしょうか。ちがった自分になれたみたいです。



 猫の耳を引つぱりてみて、
 にやと啼けば、
 びつくりして喜ぶ子供の顔かな。

 「にゃ」がかわいいです。いまのネコミミ萌えみたい。



 古新聞!
 おやここにおれの歌の事を賞めて書いてあり
 二三行なれど。

 ヤフーやグーグル検索で、じぶんのサイトがどこかで言及されていないか、ホメられていないか、毎日数時間浪費して探す。

*    *    *


 ぼくは、“啄木は感傷的だ”というイメージをうえつけられる前に、五木寛之『青春の門』によって、逆に「そうではない」という議論からまず植えつけられました。
 五木はこの小説のなかで、西沢という新聞記者に啄木論をやらせています。啄木は感傷的だというインテリ学生の言い草にたいし、反論させるのです。インテリ学生は、早熟で、小学生のときに啄木にふれてしまいます。西沢はそのインテリ学生が大学生になってから文学青年たちのなかで議論をかわすなかで啄木=感傷的という評価を「教えられた」んじゃないかと看破するんですね。後知恵だというわけです。

「おれは最近つくづくおもうんだが、世の中には、早く本を読みすぎた人間の不幸、ってもんがあるんじゃないかね」「啄木という人は、あまりにも若い読者に早く読まれすぎる不幸を背負った人だ」

 西沢は、啄木についてこう評価します。

「おれが啄木に恥じたのは、自分自身が二十歳になるまで、いちどだって精いっぱいぎりぎりの生き方をしたことがなかった、というその一点だけだ。……おれはそのままいけば、中流の生活をつづけ、ほどほどの嫁さんをもらい、まあまあの子供たちを育て、適当に生き、適当に死ぬだろうという予感があった。そいつが急に恐ろしくなったんだ」


 啄木は精いっぱい生きた人間の、精いっぱいの歌だ、というわけです。

 どう思いますか。
  

 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
 花を買ひ来て
 妻としたしむ

 左翼仲間たちとつきあっていておたがいに優劣意識がないのは、ぼくとしては、すごく気が楽なんです。が、たまーに、ぼくなんか、すぐれたヤツっていうのに、自分のダメさをおぼえちゃうことあります。あるんですよ。ほんと。そんなとき、「そういう気持ちを見つめつづけても、あんまり生産的じゃないぜ」と友人にバッサリ言われることもあります。そうなんです、意味ないんですよ。そんな比較。
 んー、でも、啄木がぼくはいいのは、そこをきちんと、イジイジしていることなんです。やっぱりそれは、精いっぱい生きているってことなんじゃないでしょうか。

 いや、わかってるんです。啄木が「精いっぱい生きている」がゆえに、「友がみなわれよりえらく見ゆる」という感情が襲ってきたときのどうしようもなさというのは、ハンパにいきているぼくの比じゃないってことは。
 けど、そんなふうに啄木を読んでもいいじゃないすか。
 「友がみなわれよりえらく見ゆる日」はあるんです。ぼくのなかの内的真実として確実に。

 そんなとき、ぼくは、遠くに別居しているつれあいと電話で1時間馬鹿話をします。いや、「そんなとき」でなくてもですが。きょう、つれあいが長距離電話でふるった熱弁は、コンビニのケーキは決して馬鹿にしたものではない、という話でした。
 

 


久保田正文編『新編 啄木歌集』
岩波文庫 2004.2.23記
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