読んだ本・見た広告などの「短評」

できたらもう少し長めに書きたいものもありますが、とりあえず短評にしています。あとで長めに直すものもあるでしょう。
●=漫画、○=漫画以外の本、▲=広告、△=その他・分類困難
2003年の短評はこちら


志村貴子『ラヴ・バズ』2巻 ●

「泣くのやめな!」
「うるせぇな! 一生ここで泣いてるわけじゃねぇよ!」
「なっ! なんだてめー その態度は!」
「痛かったら涙が出るよ! てめえは泣いたことがねぇのかよ!」

 これは主人公の藤が、ヘタレ以外の何者でもなかった若いころ切った啖呵です。
 すばらしい啖呵。「大工調べ」の棟梁もかくや、と思うほど。
 啖呵は会社じゃ切れない。一人前の社会人で啖呵を切る奴ぁ、ヘタレだ。
 でもヘタレの切った啖呵はこんなにも美しい。
 啖呵の中には真実がある。
 ぼくもどっかで使ってみます。

 藤かおるをヘタレとか言うな。
 藤は「ヘタレ」じゃねーよ。こいつがヘタレだったら、おれなんかどうなっちまうんだ。ヘタレの藤は、ヘタレでありつつ、ヘタレでない何者かになりつつある。だからヘタレを脱したいおれは、「藤はおれだ!」などと思いつつ、応援してしまふ。

「なんで泣いてんだろあたし でも やるって決めたから それでもまたくじけそうになったらね ちょっと聞いてる?神様 くじけそうになったら あたしなんて殺されればいい 殺されるくらいならプロレスやるよていう話」。


(少年画報社/以後続刊/2004.6.30感想記)


木尾士目『げんしけん』4巻 ●

 萌える集団を客観視する萌えない絵柄のはずなのに、随所に、絵柄ではなく状況に萌えさせるというすばらしい技巧。
 コスプレをした咲の、

 「何撮ってんだ お前」

の凄みに読む者すべてが慄然とするのは、読み手が、作中の盗撮犯の(またしても盗撮だよ)欲望とどこかで通じているから、まるでわがことのように怯えるであり、かつ、不正を暴いたそのあとの颯爽たる咲に、読者自身が「ほぅっ………」となってしまうのは、会場のヲタとまったく同じ人種だからだ。

 そして、この巻の愛蔵シーンとは、やはり大野と田中がつきあっていることがわかるエピソードの箇所であり、それは読者がやはり大野加奈とつきあいたいからだ(断言)。
 「なぜおたくは『現実に』倒錯者ではないのか。私の知る限り、おたくが実生活で選ぶパートナーは、ほぼ例外なく、ごくまっとうな異性である。個人的な印象では、おたく人生の『上がり』とは、異性のおたくパートナーとの結婚とみなされているふしがある」(斎藤環『戦闘美少女の精神分析』)

 ヲタがはまりこむべきバーチャルの世界ではなく、クソリアリズムでヲタ・ライフを描き、最後だけをちゃっかり反転してヲタのために理想化してみせるというこの前代未聞の手法。おそるべし木尾士目。

(講談社 アフタヌーンKC/以後続刊/2004.6.25感想記)


二ノ宮知子『のだめカンタービレ』9巻 ●

 ぼくは管弦楽バージョンしか聞いたことがないけど、たしかに「ペトルーシュカ」の「ロシアの踊り」部分はNHK「今日の料理」のテーマっぽい。あれが耳に残っていたらやっちまうだろう。というわけで笑わせてもらったが、それをネタにできる二ノ宮のすごさにも慄然。
 このエピソードでつかんで、そこから「のだめ」のイメージ喚起力、技術をみせつけたうえ、心踊るスジに仕上げるという二ノ宮の才能こそまさに「のだめ」だ。

 あいかわらずオケのてん末には興味もてず。もっとのだめの才能をみせてくれ〜。

 ※『のだめカンタービレ』1〜8巻の感想はこちら

(講談社KCキス/以後続刊/2004.6.18感想記)


サラ イネス『誰も寝てはならぬ』1巻 ●

 『大阪豆ゴハン』のときも、いっこうに好きになれなかったし、今回も熱心にすすめる友人にほだされなければ読まなかっただろう。が。単行本になって連続して1巻まるごと読んでみるとそんなに悪くないことがわかった。
 全体的に、ヒマな零細デザイン会社にただようホゲホゲ感が、ぼくにとって非常に親和的でよろしい。
 妻を女性に「寝盗られて」開きなおられてしまう話や、路上で詩を売っている姉妹をバイトで雇うものの「目当て」の妹にはまったく恋愛光線が効かない話、「仕事のできる美人」上司から秋波を送られてもなん気づかない話、韓国料理屋で隣があまりに下品にさわいで不快な思いをしていたはずの女性がひょんなことでその下品なグループの一人に接近していく話、などがつい惹かれる。他のエピソードは瑣末感しかないのに、この種のエピソードだけ、妙に生々しいのだ。ぼくがこの種の女性がお好きなんだってことかな。
 謎かけを結婚条件にする「トゥーランドット」の物語の曲名をタイトルに配したのは、こういう男女の機微の謎めきようにたいする比喩か。ようわからん。

(講談社/ワイドKCモーニング/1巻/以後続刊/2004.6.16感想記)


松竹伸幸「北朝鮮問題を攻勢的にとらえるために」 ○

 きょう、あるクリニックの院長と対話。早い話が右翼のおっさん。「北方領土返還」とか言ってたので、「なんで全千島返還と言わないのか。北千島は捨てるのか。スターリンの無法を認めるのか」と叱ったら謝っていた。あと、拉致問題や大韓航空機爆破事件で、いかに左翼の一部が北朝鮮の無法とたたかってがんばってきたかを話し、あんたはその時期なにをしていたのか、まさか石原慎太郎みたいに何もしてなかったとか言うなよ、とド詰めにしたら、恐縮していた。
 で、そのあと、意気投合。
 健全なナショナリズムは、かくも対話が弾む。
 ところでこの松竹論文であるが、秀逸なのは、“北朝鮮への対話と圧力が必要だ”という議論への切り返し。この種の議論は、実際のところ、物理的圧力のみを強調している場合が多いのだが、たんにヨリ強硬であれば、北朝鮮にたいし効果的な態度をとっていると考えているところが恐ろしい。
 松竹は、真に重要な圧力とは、国際社会が道理と大義の旗をにぎりつづけ、その包囲網をしきつづけることだ、と指摘する。これはテロ包囲でも同じことがいえる。対テロ戦争など、テロをなくすどころか、テロを増殖させエサを与えている行為だ。
 6ヶ国協議によって、米国から中国までが共同の歩調をとって、北朝鮮を包囲している。この国際包囲網こそが時間はかかっても、事態を解決する。逆に、この包囲網を一方的な強硬措置によって破壊してしまえば、事態は解決から遠のく。それを、リビアをめぐる二つのテロ事件のてん末を例にとって松竹は説明する。
 現在、6ヶ国協議では、情勢を悪化する措置をとらないことが合意されている。制裁法などをつくり、それを今の段階で発動させていくことはこれに抵触してしまうことになる。そういう選択肢が将来ないとはいわないが、制裁法といい有事法制といい、日本が一方的に事態を悪化させる措置だけを重ねていくことは、6ヶ国協議の合意を反古にし、包囲網を崩しかねない。

 ぼくはずっと、「北朝鮮が利益に感じるように核放棄を説くべきだ」といってきたが、小泉首相はキム・ジョンイルに会ったときもそう言ったし、ブッシュ米大統領にもそのようにアドバイスしたようである(6月8日時事)。事態は決して悪くない方向にねばり強く推移している。強硬を圧力ととりちがえない理性がいま必要なのだ。

(日本共産党理論誌「前衛」2004.7月号/2004.6.15感想記)



NHK取材班編『責任なき戦場 インパール』 ○

 太平洋戦争の日本の敗因をさぐるシリーズ4。
 参加した10万人の日本軍のうち、戦死者3万人、傷病兵は4万人。壊滅的結果である。太平洋戦争の後期、1944年、インド・ビルマ国境のインパールを攻略した無謀な作戦の敗因をさぐる。
 輸送総量の計算をおこないながら、ふるえあがるような悪路、天険のなかで輸送をおこなわねばならない、という客観状況を緻密に描出していく。「標高二〇〇〇メートルをこえる日本アルプスのような山々の道なき道を、荷物を運んで登るなどということは、常識では考えられないことであった」(p.76)。ところが「補給は初めから諦めて、所持していく」という無謀きわまる計画案が出るのだ。50キロの荷を背負って、2000mの山々をこえるのである。
 兵棋研究に参加した参謀でさえ、「できるとは思ってなかったでしょうなあ」「綾部さん(総参謀副長)も『こりゃ、ダメだなぁ』と言うておられましたよ」と述懐する。それで数万人を死地に投げ込むわけである。
 本書では敗因を、そもそも制空権をにぎって補給自由だった英軍の柔軟性との比較や、日本軍司令官の(牟田口)の横暴などをあげるが、本書では、輸送軽視の思想をふくめ、日本軍の官僚組織としての欠点へと原因の一つをもとめていく。
 『失敗の本質』(中公文庫)でも、インパール作戦における、やはり日本軍の官僚制としての問題を、別の角度からさぐっている。
 ぼく的には、どちらの本も、軍事戦略上必要のない作戦だったというそもそもが重要だと思う。輸送のまずさということは、日本軍全体に共通する特徴であるが、それが拡大した要因となってあらわれるのは、彼らの戦略判断の多くが「机上の空論」だからであり、現代にまたぞろこの問題が再現しているんじゃないかと思うわけだ。

(角川文庫/太平洋戦争 日本の敗因4/2004.6.10感想記)



安永知澄『やさしいからだ』1巻 ●

 6人の主人公、オムニバス形式。
 それぞれの話、全体として何を描きたいのかよくわかりませんでした。ちりばめられているエピソードは印象的なものが多いんだけど。セックスの最中に大量の汗をかく女の子とか、自転車にのっていると見えないピアノ線がはってあるような妄想にとらわれるとか、ロリコンのピアノ教室の教師とか、坊主頭にかく汗に執着を感じるとか。
 汗、あるいは体から分泌される液体への執着。
 そこにリアリティが発生するというふうに思っているのかしら。
 たとえば、セックスの最中の汗、というのは、「リアリティ」ではなく、「なかったこと」にしたいような、余計なものだとしかぼくには思えないのであります(余談だけど、またしも「ギュッとして」って女性の側のセックスのさいの要求が登場。最近、二宮ひかる『犬姫様』でも見た。ホント普遍的な要求なんですね)。ちがうんすか。そういうアレじゃないんすか。
 えーと、漫画そのものには面白いような空気はあるんだけど、正直面白いとは思えなかったのであります。福島聡を読んだときに似ておりました。
 あと、ぼくの理解力のなさでしょうが、病気の母親と自分の臭い(香り)のエピソードとか、冒頭のピンクのビーズのようなおできができるエピソードは、イミわかりませんでした。すいません。

 なお、ペドファイルのピアノ教師の「おっ今日はうさぎさんみたいだね」というセリフは、とてつもなく下品で、ナイスです。

(エンターブレイン/ビームコミックス/以後続刊/2004.6.9感想記)


きづきあきら『ヨイコノミライ』1巻 ●

 今度は、確実に「痛い」です。いや、「痛い」のというより、「イタい」。
 高校漫研にいるヲタたちのヌルさのイタさを活写。「感想と批評の区別もつかない自称批評家」「現実が直視できないオカルト少女」「文芸部からはみだしたボーイズ作家」「声優気取りで甘えた声…自己愛の強烈なナルシスト」「口ばっかりプロの半可通」「何の取り柄もないただのオタクに居場所を感じているだけの無能オタク」。
 おたくのイタさの描破においては、『げんしけん』以上。
 なぜイタいのかというと、天原(「感想と批評の区別もつかない自称批評家」)は、そのままおたくの末席にいるぼくのイタさだから。掲示板への書き込みにみる肥大した自尊心、アク禁されて傷つくプライドなど、自分のみにくい姿そのまま(ぼく自身は掲示板への書き込みはしないし、アクセス禁止にされたこともありませんが)。
 きづきは、このような欲望的な絵と題材で勝負するのが正しい。
 このイタさを、今後きづきが引き受けていくのか、ただの高見の見物で終わるか、見もの。

『氷が溶けて血に変わるまで』の感想はこちら

(ぺんぎん書房/1巻/以後続刊/2004.6.1感想記)



タキトゥス『ゲルマーニア』 ○

 カエサルの『ガリア戦記』とともに、エンゲルスが「これぞ原始の母権と民主制の痕跡の記述」と小躍りした、古代ローマ歴史家による名著(解説者はこうした見解を嫌って「ゲルマーニアの住民は決して平等に、理想的な、牧歌的な、もしくは原始的な、共産的平等体制の下に生活していたのではない」とわざわざ入れる始末。エンゲルスでさえこうした見解はとっていないのだが)。本文だけなら一瞬で読め、しかも楽しい。
 いろいろあるが、男と女の描写は、とりわけ楽しい。

「戦争に出ないとき、彼ら(たち)はいつも、幾分は狩猟に、より多くは睡眠と飲食とに耽りつつ、無為に日をすごす。最も強壮にして最も好戦的なものといえども、すべてみずからは些(さ)のなすところなく、家庭、家事、田畑、一切の世話を、その家の女たち、老人たち、その他すべての羸弱(るいじゃく)なものに打ち任せて、みずからはただ懶惰(らんだ)にのみ打ち暮らす」

 なんだ、今と同じじゃん、とかいう感想もあろうが。

「すでに敗色があらわれ動揺に陥った戦列が、女たちの激しく嘆願し、胸をうち露(あら)わして自分たちの捕虜となる運命のまのあたりに差し迫っていることを示したために、ついに立て直されたものがいくつかあったことが伝えられている。彼らはこの捕虜の身となることを、その女たちに関しては〔みずからに関してよりも〕、はるかに堪え得ぬばかりに怖れるがゆえに、もし彼らに身分の高い少女たちを人質のうちに加えることを命ずるならば、精神的にその邦家(くに)をもっとも有効に束縛することができるほどである。そればかりか、彼らは女には神聖で予言者的なあるものが内在すると考える」

 タキトゥスの驚きをみると、ローマの徹底的な父権・男権の社会からは、とうてい理解できない女性の地位だったようである。
 男女の役割だけでなく、国家があるのが人間の始原より当たり前だと思っている観念や、民主制と国家が不可分のものだと思っている観念に、一撃をくわえる好著である。

(岩波文庫/泉井久之助訳註/2004.5.25感想記)



羽海野チカ『ハチミツとクローバー』6巻 ●

 羽海野において、「ギャグ」はもはや、「ちょっとした作品の味付け」などではない。巻末の「番外編」(全12ページ)は、羽海野が「感動」や「萌え」を生む情景などに頼らなくとも、ギャグの道だけで十分やっていけることを、はしなくも証明した秀作となった。
 山崎の、美和子によせる恋心を「悪用」、美和子が山崎にイタい」服をプレゼントし、それを着させて山崎を「おとしめよう」といたずらするのだが、スタイルのいい山崎はあらゆる「イタい」服を着こなして、各種ファッション誌の街頭特集をかざってしまう。この熾烈な山崎と美和子の攻防(実は美和子の独り相撲)を描く。
 イタい店のネーミング=「ダンディハウス ワダ」(これ、雑誌連載時は「ブティック ワダ」だったはずだが、単行本では変わっていた。実在したのであろうw)、イタい服その1=大胆なアニメ柄(それはNOVAうさぎTシャツを着ているおれだっつーの)、イタい服その2=「ラメ入り船長風」(それはおれの親父が着てるっつーの)、「大胆なアニメ柄をさらりとみせるおしゃれ上級者」という雑誌コピーのパスティーシュ……など、くり出されるすべてのジャブが天才的。
 マジで、ギャグ1本槍の作品を、次は描いてみては。
 なお、美和子が勝負をかけて送りつけたイタい服は「虎に竹」。しかし、あれはどうみても「ヒョウ」だと思うのだが。

 ところで、単行本p.15の「わあっっ、DVだようっっ」も、雑誌連載時は「わあっっ、ドメバだようっっ」だった。  ※『ハチクロ』1〜3巻の感想はこちら

(集英社クイーンズコミックス/以後続刊/2004.5.20記)


コンノトヒロ『ぷぎゅる』 1巻 ●

 本作は、「あずまきよひこ」+「榎本俊二」+「桜玉吉」+「野中英次」+「田丸浩史」の総和を13くらいで割ったというほどのものだろうか。
 漫画表現とは、どんなにすぐれた作品であっても、あるオリジナルのコピーであったり、ヴァリアントであったりするとすれば、べつにそのことをとがめだてたりする必要はない。田中芳樹が『アルスラーン戦記』1巻の「あとがき」で、創作とは、すでにある創作物のまぜあわせの「スープ」をつくることなんですよ、とさくっと解説していた。そのミックスかげんや、割りぐあいさえ読み手のツボにハマるなら、堂々たる人気作になるのだ、とこの漫画は教えてくれる。
 チェコちゃんの造形さえ新味はないと思うが、本当にそんなことはこの作品の評価にとっては、どうでもいいことなのである。

(講談社マガジンZKC/2004.5.13記)


「新現実」vol.3 「日本共産党は信頼できるか」 ○

 大塚英志と志位和夫の対談、というか、応酬
 「民主党が『創憲』と言い出したり、社民党が政治勢力として立ちゆかなくなっている現状で、次の選挙、その次の選挙で憲法が争点になっていったときに、憲法九条にたいして肯定的な立場をとる有権者は、現実的な選択として、否応なく共産党を選択せざるをえないところまで、言ってしまえば『追い込まれて』しまっているわけです。そのときに、有権者が護憲という立場で投票したとして、日本共産党がそこから先信頼しうる政党なのかは、かなり生々しい問題として有権者の側にあると思うわけです。そこでも『共産党が生理的に好きとか嫌いとか、もうお互い言ってられないよ』というのがリアリティとして出てくると思います。そこのところで、少しぶっちゃけた話を聞いてみようというのが今日のインタビューの主旨なんです」(大塚)
 おもに、天皇制、社会主義、除名者の問題を、大塚が粘着質的に聞き、志位和夫がむかつく、という構成。
 編集後記で「実は特集中、最もシュートな企画。志位和夫、一瞬、マジ切れのくだりを日本共産党はゲラで削除せずに戻してきただけでもすごいと思うよ」と書いているのは笑う。
 共産党系左翼のかたであれば、大塚が聞いていることを自分ならどう答えるかを、志位になりかわって考えてみるといい。左翼にとって、ものごとを魅力的に語ることと、原則的に語ることのバランスの難しさをよくしめしたインタビューといえる。
 大塚英志にして、市場経済と社会主義についてのイメージはこの程度しかないのかあ、とも感じる。
 それにしても、この号の表紙は恥ずかしくて買えません……(買ったけど)。

(角川書店/カドカワムック199/2004.4号/2004.5.13記)



王欣太『地獄の家』 ●

 友人から「『蒼天航路』の曹操の原型の一つ」と紹介され、借りて読みましたが、もしそうだとすれば、王欣太は、いつもこんなふうにしか「偉人」をかけないのか、と逆に失望しました。どこまでも超然としている主人公、それをとりまく狂気、ふりまわされる凡人。一種のパターンもしくは自己模倣ではありませんか。ああ、知らなければよかった……(世間の真実を教えてくれた友人に感謝しつつ)。

(講談社漫画文庫/全2巻/2004.5.11記)


とよ田みのる『ラブロマ』2巻 ●

 風邪のときに、布団にいっしょに入る。2コマ目で出ちゃうけどね。いや、テれて出ちゃうのがまたいいんだが。って、おれ何言ってんだ。「風邪布団」は「清純」な男子高校生のロマンだ! 正しい。あまりに正しいぞ、『ラブロマ』! (第1巻の感想はこちら

(講談社アフタヌーンコミックス/以後続刊/2004.4.25記)


犬上すくね『ういういDays』1巻 ●

 これですよ、これ! 犬上センセー、もうやだなあ、ちゃんと描けるじゃないですかあ。『ラバーズ7』で失望しておりましたが、これこそ『恋愛ディストーション』の今日的再建と申せましょう。正統派真性ドジっ子の彼女、成績がイくて臆病きわまるけどちょっとダイタンなことも時にはしちゃうぜ的な彼。実に正しい比率です。先生。
 相合い傘において、「ふわふわの髪の毛 細い首 時々ふれる小さな肩 大丈夫か? こんなきゃしゃなつくりで ああもう!! 女の子って何だかすごい」などと、男の側が(@.@)になっている絵は、もうたまりませんな。

(竹書房/バンブーコミックス/2004.4.7記)



犬上すくね『ラバーズ7』2巻 ●

 「かわいい」ということを「かわいい」と書いてみてもかわいくならない、というのは、たぶん漫画家であれば、ごく初期に教えられるはず。
 主人公格であるなつきに、ネコミミをつけても、かわいくはならないのです。

(小学館サンデーGXコミックス/2004.3.31記)


城山三郎『官僚たちの夏』 ○

 中学時代に読んで、官僚の「健全な」国家意志というものを強烈に印象づけられた。
 「あー、おれも官僚になって天下国家を動かそう!」と志すきっかけとなった経済小説の白眉。1960年代の通産官僚たちを描く。いやぁ、いまぼくはその夢がどこでどうまちがったのか、逆にその改変を企てる左翼の一分子に成り果てたんですけど。
 自主ゼミで『戦後日本の資金配分』をやっている。国家独占資本主義、すなわち共産主義への足場となるべく、経済のコントロールシステムを、「見学」しているようで、にゃかにゃか興味をそそられている。『官僚たちの夏』で主人公の通産官僚がめざしたシステム――「通産省の衣替えとでもいおうか。自由放任もあかん、統制経済も終り、そのいずれでもない第三の行政をはじめる。まあ、官民強調行政とでもいうかな」――は、『戦後日本の資金配分』のよって立つ立場である「市場拡張的見解」そのものである。
 この小説は、その国家独占資本主義の、まさに「現場中の現場」の空気をつかむうえでは格好の題材。
 いま、官僚システムはボロクソにいわれているわけで、じっさい、それくらい退廃しているとは思うけど、過去に遡ってみれば、左翼のぼくでさえ「敵ながらあっぱれ」と思うくらい、健全なプライドと能力をもっていた時期があったのだ。

(新潮文庫/2004.3.10記)


星里もちる『ルナハイツ』2巻 ●

 1巻の感想はこちら。3巻の短評はこちら
 2巻では、主人公が、不自然なケガをしたヒロインをおんぶして帰り、イチャつくシーンが登場します。
 この「おんぶ帰り」はつい最近、森真之介『HAPPY☆LESSON』1巻でも見ました(主人公が女性のクラス委員長を背負う)が、不可抗力で(主人公の意志ではなく、というところがポイント)女の子と体を密着させるラブコメの奥義。『HAPPY☆LESSON』でも、ヒロインは「民家の塀から落ちて気絶」という十分に不自然なケガをします。
 この「おんぶ帰り」は、主人公の意志的・主体的行動の欠如にもかかわらず、ヒロインとの親密度が急激にアップするという必殺技です。


(左:星里もちる『ルナハイツ』2巻、右:森真之介『HAPPY☆LESSON』1巻)

 もう、星里もちる、正真正銘のラブコメの王道を堂々とすすんでいます。
 気持ちのいいくらいのご都合主義。
 ラブコメ街道驀進の星里に迷いはありません。
 ぼくのなかで、「いや、そんな単純じゃねーだろ。星里は何か『アッ』と驚くようなどんでん返しを用意しているに違いない」という気持ちと、「星里はラブコメの正統派をまっすぐ歩こうとしているのだ。このままの調子でラストまで行くさ」という気持ち、あるいは「ひょっとして『これがラブコメの全パターンだよ』と示す気!?」といぶかる気持ちが、交錯しています。
 いわば、諸葛亮の策略に迷う曹操状態。「孔明のことだ。伏兵があるように見せかけて、この道をとらないようにしているのだろう。その手は食わぬ。われわれは華容道を行く」。
 そっちは関羽が待ち伏せてるんだってば。

(小学館ビッグコミックス/以後続刊/2004.3.3記)


小田扉『男ロワイヤル』 ●

 妙に印象にのこったのは、中野の「お色気」CSTV局「パラダイスTV」のキャットファイターいちごみるく選手。「添い寝固め」とか。そんな世界もあるんすか、と妙に。
 小田の漫画は、きちんと筋だてて、いわば「わかりやすく」加工されたときのほうが、面白い。それでは小田のよさが死んでいる、と感じるむきもあろうが。その点では、旧友のあいまいな会話だけから旧友の人間関係を推察し、家に帰るたびに図にしていくという「ともみの親友」なる短編がサイコー。普遍性の高い、ギャグのフォーマット。

(太田出版F×COMIC 2004.2.26記)


植芝理一『夢使い』6巻 ●

 はいはい、たしかにぼくは、ペドファイルへの傾斜を深めた植芝を一度は見捨てましたよ。しかし、表紙の塔子に、もうどうにも萌えて、買っちゃいましたよ。ええ。
 あぁ、ぼくは、髪の長い、知的な美少女に弱いなあ。女性を神聖化しているワタシ。
 植芝の漫画は、作者本人の萌えが激しく変遷し、植芝がその欲望に非常に忠実であるために、登場人物のキャラがめまぐるしく変わる。久しぶりに手にとった6巻でも、すでに塔子や燐子は大きくキャラが変わっている。
 あいかわらず、この民俗学知識の大味な料理ぶりと、独りよがりともいえる冒険小説的展開には、ついていけませーん。

(講談社アフタヌーンKC 2004.2.26記)


冬目景『LUNO』1 ●

 「絵一流、スジ二流」というぼくの冬目評価そのものの作品となっている。今後の展開しだいだが、困りますね、これでは。やっぱり凝縮力のある短編があってますよ、冬目先生。

(エニックス 2004.2.19記)


こがわみさき『セツナカナイカナ』●

 こういう絵柄が一定量で存在しているのかどうか知りませんが、犬上すくねをさらにシンプルにしたような絵柄と内容で、これなら犬上を読んでいた方がよほどよいと思いました。犬上を想定するから悪く見えるのかなあ。福島聡を、しょぼい黒田硫黄だと思ってしまうように。

(スクウェア・エニックス 2004.2.5記)


里中満智子『BOYS』 ●

 1982年に『月刊mimi』に連載された、高校生の恋愛を「解説」した漫画。ええ、もう「解説」です。物語じゃなくて、事例研究。性衝動と恋愛感情の対立とか、好きになるという気持ちの無根拠さとか、自己愛の投影としての恋愛とか、そういう命題がぜんぶ顔をだし、しかもきっちりと「解説」されているのです。
 しかし、80年代に高校生活を送った者といたしましては、実に「ちゃんとした解説」たりえていて、悪くないのですが。(つーか、本書はどこまでも70年代的で、ぼくの高校時代の感性はちっとも80年代的ではなかったということか)。いまの若い人たちが読んだらどう思うか。
 コマの後ろに、ローマ字で作者のつぶやきが書かれるという、70年代チックな悪戯も出てきて笑えます。

(全2巻/双葉文庫名作シリーズ 2004.2.5記)


作画/森真之介『HAPP☆LESSON ママ先生は最高!』●

 天涯孤独の男子高校生が5人の美人教師を「ママ」として暮らしはじめる。ってどんな話だ。
 典型的なラブコメの設定だが、主人公が天涯孤独であるということや、なぜ5人の教師がいっしょに住むことになったかということに、おどろくべきほど無頓着に話がスタートしていく。「そんなことはどうでもいいから、さ、萌え萌え」みたいな。
 星里もちるが徹底したご都合主義でラブコメ世界を入念にうちかためていくことの対極にある。この、世界の無根拠さよ。
 これを読むと、同じ電撃系でも『苺ましまろ』などがいかに高い水準の作品かがわかる。

(キャラクター原案:ささきむつみ、電撃G’sマガジン
メディアワークス/1〜2巻/以後続刊/メディアワークス 2004.1.29記)


「フィール・ヤング」2月号と各種の女性漫画誌 ●

 前にもいったけど、「オール読み切りスタイル」ってウソ書くんじゃないよ。ここまで堂々と書いていいのか。「スタイル」とかつけたからといって、免罪されんぞ。出版業界では「スタイル」とつけることで、「ホラ、ここに『スタイル』って書いてあるでしょう? 完全に読み切りじゃないんですよ」とか言い逃れできると思っているかもしれんけど、ありえねー。

 任意のどれもがこの呼び込み文句に反する。「新・花のあすか組」を「読み切り」だと強弁するのは、自衛隊を「軍隊ではない」というのよりもひどいかもしれない。きょう「フィール・ヤング」を買って、「新・花のあすか組」を開いた人がいたとしたら「千代田区エリアマスターが持ち上がり 十人衆の一角に入り込むチャンスが与えられた」「ありえねぇ」「抜け駆けもいいところだ」っていきなり目に飛び込んでくるんですよ。何のことかさっぱりですよ。

 しかも「はじめて読む人に」とつけてある解説もひどい。「都内の中学裏番組織(全中裏)の元十人衆の『左』の地位にいた九楽あすか。謎のマーキング、懲罰部隊の暗躍… 全ての発端は全中裏の内部抗争だった。そして今『左』の座を狙う各区エリアマスター達の思惑が交錯する…!」――さっぱりわかりません。「左」って、九楽あすかは、左翼だったんですか。これが読み切りですか。

(祥伝社 2004.1.24記)


塩野干支郎次『ネコサス:シックス』 ●

 ネコミミ、アンドロイド、囲い込み――萌え要素をフルに活用しながら、作品自体は1グラムも萌えるところがない、という異常な作品。ぼくは、アンソロジーコミックの世界がいったいどんなふうになっているのかほとんど知る余地もなく、本書もいったい何のパロディなのか、『ドラえもん』以外はほとんど判別不能であるが、そういうぼくでもここまで楽しめるということは、実はすぎょい作品なのかもしれませぬ。ネズミでもなく「マウス」でもなくキーボードを恐れるというアンドロイドのトラウマにケチをつけるという展開は秀逸。みんなも他人のトラウマにケチをつけよう。

(エンターブレイン マジキューコミックス 2004.1.20記)


「映像ザ・モーニング娘。2 シングルスMクリップス」 △

 左翼の友人の一人であり、モーヲタであり、最近は「キッズ」への萌え移行をはかっているneco氏からの強烈なプッシュによって観賞した1枚のDVDである。本日もいっしょに食事に出かけ、モー娘。という「普遍」、キッズという「個別」、というヘーゲル的区分の教示をたまわったところである。
 不思議なことに、ぼくにとっては、この「モー娘。」という存在は、意識や欲望のフックにほとんど一つもひっかかってこない。たとえば、これが「たのきん」の映像であったとしたら、たくさんの「萌え」がぼくのフックにひっかかってきたことであろう。「娘。」に萌えないし、もちろん欲望的なまなざしさえむける余地がない。DVDを見ながら不思議な感慨にとらわれる。
 neco氏は今日の食事において、キッズの拙い歌舞音曲を平安時代の「稚児舞」「子供歌舞伎」にたとえ、あるいはもともと宮廷の宴会芸であったにすぎない「雅楽」を楽しむ心性をみずからの「モーヲタ」ぶりにたとえる。
 このDVDの冒頭、「WISH]」のクリップにも下手な学芸会としか思えない「娘。」たちの演技が登場するのだが、それを宴会芸としての「雅楽」を楽しむことになぞらえれば、それ相応の楽しみ方というのが存在するのだとわかる。早い話、ぼくはその境地にまでいたっていないのだ。neco氏の解説を聞くほうがはるかに楽しい。
 関係ないが、「WISH」のクリップで加護らの瞳がハートマーク。のようにみえるのは、加工されているせいか、あるいは気のせいであろうか。ぼく、疲れてるんでしょうか。

(ZETIMA 2004.1.20記)


水野トビオ『まいど御愁SHOW様!!』1巻 ●

 葬儀屋の1話読みきり型物語。葬儀にドラマがありそうだが、少なくとも、いまのところは、なにを原動力にしていくドラマなのかいまいち見えん。ライバル葬儀社との争いはまったく葬儀屋である必然性はないし、「心のこもった葬儀」は数回使うと終わり。恋人も今のところあまり魅力的ではない。どうすんだ。

(講談社ヤンマガコミックス/1〜2巻/以後続刊 2004.1.15記)


ナンシー関『記憶スケッチアカデミー』 ○

 記憶力にたよって書いた「お題」を、ナンシーが笑いものにするわけだが、冒頭の「カエル」は死ぬほど笑える。
 この企画は、ナンシー関の筆力によってのみ成立していることがわかる。投稿型企画にしたために、投稿者がウケをねらっていって、回をおうごとに企画全体が次第に自滅していく。そういうメタな楽しみ方もできる。
 街頭でいきなりかかせた方がよかったのでは。

(角川文庫 2004.1.15記)


山岸凉子『テレプシコーラ 舞姫』5巻 ●

 空美がまったく出てこない。ということは、作者はこの物語をよほど長い話にしようとおもって、ぜいたくにページを使っているということだな。
 見どころは、六花が、舞台全体のピンチに抜てきされるシークエンス。六花の才能の開花はワタシのヨロコビなのです。ムフ。

(メディアファクトリー 2004.1.7記)


いしかわじゅん『漫画の時間』 ○

 がーん。ショック。何がって、ぼく自身のオリジナルだと思ってこのHPに書いていた発想は、ひょっとしてこの評論集から1〜2借りてきているのかも知れないということだ。
 この本を読んだのはずいぶん昔で、内容なんかはすっかり忘れた気でいた。
 ところが、最近読んで、色を失った。無意識のうちに下敷きにしてたりしたんですねー。こわいですねー。
 つーわけで、読んだ本の内容をおぼえていなくても、知らぬ間に血肉になっているのだから、みなさん、本を読んで内容を忘れても焦らなくてもいいですよというお話でした。

(新潮OH!文庫 2004.1.7記)