読んだ本、見た広告などの短評
2004下半期

できたらもう少し長めに書きたいものもありますが、とりあえず短評にしています。あとで長めに直すものもあるでしょう。
●=漫画、○=漫画以外の本、▲=広告、△=その他・分類困難
2003年の短評 2004年上半期 メニューへもどる


中野純子『ちさ×ポン』6 ●

 二人が初めてデートした砂浜で、満月の夜に初めて結ばれる……そういうバブルもどきなんだか、乙女なんだかわからないロマンスをヤンジャン男性読者は望んでいるのか。一瞬「シェルタリング・スカイ」のようなゲージュツ路線なのかとも疑ってみるが、ぼくの考えすぎのようだ。大都市近郊の人気海水浴場で夜セックスしていたら暴走族とかこないのか、とか、そういうツッコミにたいし「これは虚構である!」という反論は正しいに違いない。しかし、虚構が持つ醍醐味として、欲望の見事な成就であってほしいはずなのだが、これは一体誰の欲望なのか。答えて、純子タン。
 でも「中出し」。
 ポン太に「ヤバイ」とかいわせてエクスキューズをしているが、美しく睦まじい真のロマンスしたいのなら、中出しはどうなのか。うっかり中出し、の罪は重い。真剣に千砂を思っているかどうか、厳しく問われるところである。
 男性読者は「フーン、女がオッケーといったから中出しも許されるわけね」という都合のいいメッセージを受け取るだろう。
 と、ここまで考えると、そうか、実は男性にとって、男権主義的な中出しロマンスの表現であったのか、とハタと思い至るのであった。

※1〜5巻の感想はこちら
(集英社ヤングジャンプコミックス/以後続刊/2004.12.24感想記)


木尾士目『げんしけん』5 ●

 またしても盗撮で幕を開ける。

 病みつきになりそうな、「いたたまれなさ」は、ダサヲタ斑目がオサレな服を買いに行く第26話で爆発した。オレ的には。

 まずもって斑目が四角い細メガネに変えたエピソードによって、斑目の丸メガネは単なる記号ではなく、正真正銘の丸メガネだったのかと思い至る。丸メガネ。それはオレだ。記号だと安心していたのに、闇討ちのようにイキナリ後ろから現実に襲われる。ココからこの話は、ぼくにとって、斑目=ぼくの話と化す。
 かつ、ちょっといいなと思っている女性にアオられて服を買いに行き、まともに服が選べない、2階にあがるのがエベレスト登頂のごとくに感じられる、等々、文字どおり、ぼくは本を閉じ「うぉぉぉぉ」と叫んで駆け出したくなる衝動に駆られた。それはオレだ。あげくに、ヲタ的価値判断が自分の真価を生かす、というキレイな話でしめるあたりに、やはりクソリアリズムで責め立てて、最後はヲタの願望でオトすという木尾の悪辣なパターンを見る。そしてそれを喜ぶオレ。
 ぼく的にはその箇所だったけど、読んでいるヲタごとにそういう「いたたまれない」箇所が今回もあったはずだ。

 巻末の黒塗り漫画に興奮するのは、すでに小説では筒井康隆が短編小説でやった手法。「伏字のためよけい興奮した女房は、眼をうつろにし、自分の×××××××、××××××××××はじめていた」(筒井康隆「弁天さま」より)。抽象によって性的快感に達することこそ、高度な精神であるというフロイト=斑目理論の真骨頂。

※1〜2巻の感想はこちら
(講談社/アフタヌーンKC/2004.11.25感想記)


東村アキコ『白い約束』●

 この漫画については、ある種の楽しみがあった。なぜかこの前、ぼくが同級生の女性2名と旅行先の電車に5時間閉じ込められ、退屈した女性二人が、ぼくが偶然持っていたこの漫画を読んだからだ(買ったばかりだった)。二人の感想は「だから何なのよ、というかんじ」「あんまり面白くない」であった。
 ぼくはその時点でこの東村の短編集を読んでいなかったので、『きせかえユカちゃん』を描いた東村はいったいどういう短編を描いているのか、家に帰って読むのが楽しみだったからである。もしぼくが面白いと感ずれば、女性二人との感性の違いは決定的となる。

 結果は、この女性二人の勝利といってよい。えーと、そこそこに面白いとはおもうけど、「だから何なのよ」と確かに言いたくなる。あれほどオトナのギャグが描け、「ヤングユー」で味のある短編を描いているくせに、この『白い約束』は、まるきし『ラブ☆コン』『ハツカレ』並のお子ちゃま度である。

 3つの短編に出てくるオトコが3人とも似た感じで(いや、東村はどの作品にもこのタイプのオトコが出てくる。よほど萌え萌えなのであろう)、3人とも魅力に欠ける。主人公となっている女性のイキのよさを殺している。
 同級生どもに、「これが東村という漫画家か」と思われたのがくやしい。いや、別に東村に義理はないけど。

(集英社/りぼんマスコットコミックス クッキー/2004.11.24感想記)


置塩信雄『経済学と現代の諸問題』○

 「サミュエルソンは、新古典派の前提が成立するには、ケインズ政策がワークしなければならないと考えている。いわば、ケインズ政策を土台にして、そのうえで新古典派の成長論や一般均衡理論を論ずるという“二階建て”の構造になっているのです。……1930年代の恐慌や40年代の資本主義の激動期を経験せずに育った新古典派的な経済学者の中には“二階建て”の構造を意識せずに論文を書いたり、学生に講義をしている人が、かなりいます。こういう人々は、理論的な面ではむしろマネタリストと同陣営ではないかと思う」(p.128〜129)

 よく人力検索で「アメリカやイギリスは小さな政府になったから成功した」という回答を書いている人をみるが、社会保障公的支出ぶんは、NI比で米は日本の倍、英は日本の4倍である。
 そういうケインズ的なものにのっかって、新自由主義的な「今」がある。「小さな政府」って、ほんと、ただの宣伝文句、「虚偽意識」だよなあ。そのあたりを、しっかりした主流派=新古典派総合はちゃんとわかっていて、マネタリストを批判するって話。

(大月書店/2004.10.22感想記)


漆原友紀『フィラメント』●

 なぜこの人が『蟲師』を描く前に漫画をやめて田舎に帰ろうとしたかがわかる作品。だめだ。
 これを「独特の雰囲気」といって愛好する人がいるのがわからんでもないけど、ぼくは全然受け付けなかった。
 高校の漫研……ではなく、高校の文芸部の同人誌につける漫研の挿絵を見ているみたいでした。高校生が書くようなひとりよがりの詩のようだ。
 『蟲師』も面白いのではあるが、ちょっと油断すると、すぐマイ・ポエムの世界に入ってしまってどうも馴染めない。『蟲師』に文化庁メディア祭優秀賞を与えた里中満智子によれば、それこそが、「時間と空間の奥の深さを味わえる音楽が聞こえてきそうな世界」だというわけなのだろうが、ぼくにはとうていそう思えない。
 漆原の強みは絵だ。『蟲師』をぼくに買わせたのは表紙の絵だったように、通りすぎることのできない蠱惑的な絵柄である。でもストーリーと世界観が脆弱。漆原が自身の作品を「個人の内部にのみとどまるもの」とインタビューに答えているように、広がりをもとうという気がこの人には、ない。
 えーと、一度ギャグとかやってみて、「人を楽しませる」という作業を通過すると、大化けするかもしれません。

(講談社アフタヌーンコミックス/2004.10.21感想記)


二ノ宮知子『のだめカンタービレ』10巻●

 まちがえて9巻を買ってもうた。2冊目。社会的にはまったくの空費である。この本の紙に使われた木々の無念やいかに。
 週刊朝日(04.10.15号)にもとりあげられ、人気急上昇だ。その記事の中に、専門家も納得する形でクラシック作曲家の特徴をシロートの読者に紹介する、というむねの話があった。本巻では「ハイドンはな〜 明快だけど演奏は難しいし ごまかしきかないし はったりもきかないし……」という世間のハイドン解釈を千秋がくつがえす。
 しかし、おれ、そもそもハイドンが明快だというあたりがよくわからんのだ。ベートーベンより前の古典派のやつらはみんな明快に聞こえてしまふ…。
 のだめがフランス語を「プリごろ太」のアニメで覚え、それをハンパでなく徹底して何度も再生して観るという展開。「真のオタク」「日本が経済大国な理由もよくわかったワ」という、のだめの外国人同窓生たちの呆れ顔に、ぼくのつれあいが米国滞在中、仕事中毒となってそれを「エコノミック・アニマル」「ワーカ・ホリック」視していた米国人同僚たちがかぶる。二ノ宮の日本経済観が端的に出た瞬間でもある。
 それにしても「飲むチーズケーキ」(p.10)ってどこで買えるの……。

(講談社コミックスKiss/2004.10.5感想記)


とよ田みのる『ラブロマ』3巻●

 買っておいたのに5日も読まずにとっておいた。犬が、邪魔者がいないように犬小屋に入ってからホネをなめまわすみたいなもので、今日こそその日であったのだ! へっへっへっへ。

 星野が根岸さんに許可をもらって乳をさわり、感想言って殴られるという、セックス&バイオレンスな展開

 「たいしたことないですね」という星野の感想を聞いたぼくは、「まったくその通りだ!」と禿同したと同時に「そいつは絶対に記憶の偽造なんだぜ」という絶対的自己矛盾の心の叫びが聞こえた。やっぱり、あの頃、はじめてチチさわった瞬間というものは「わぁぁぁ、これが、これが、これが…」とかいった具合に、頭パニクってたに違いないっすよ。

1巻の感想/講談社アフタヌーンコミックス/2004.9.30感想記)


冬目景『黒鉄』●

 冬目の描いた女の子を何時間でも眺めていられるぼくは異常でしょうか?

 第四幕「籠め」で、売られてきたお清(さや)のトロそうな顔だちと、裏腹のあえかなる境遇。
 第六幕「二色の独楽」以降出てくる、女を捨てた「男」である丹(まこと)。
 第九幕の「罪人の仮面」で気立てのいい娘、水葉(みずは)。
 前後のスジや迅鉄のチャンバラなんざ、どうでもいいんだ、あっしゃあ。
 惚れ惚れと、惚れ惚れと、ただひたすらに、眺め続けておりまする。

 この物語は、冬目のプータロー観、自由観の一つの到達。居場所のない渡世人の厳しさこそ、冬目が否定しようという焦燥に駆られながら、愛して止まぬものだ。

(講談社アフタヌーンコミックス/2004.9.21感想記)



馬渕哲・南條恵『マンガでわかる良い店悪い店』△

 こんなの読むのかよ? とか言われそうだけど、けっこうこのたぐいの本って好きなんです。へへへ。別に営業でも小売でもないですけど、関係なくても楽しいし、左翼運動に使えないかなとか思って読むのですね。
 「店員がやる気を出すと客を逃がす」「客と店員は仲よくなれない」「客は想像を超えた理由でモノを買う」「店は商品ではなくアクションを売っている」「人(店員)を変えようとする接客教育は失敗する」……などの接客の常識をくつがえすような「法則」が79並ぶ。
 基本となる思想はシンプルで、「店員がやる気を出して、店の前で構えていたり、客に声をかけたり、『いらっしゃいませ』と元気に声をかける店は客がこない」というもの。客は買いに来るのではなく見に来るのだから。むろん、この方法自体が80年代末に提起されたもので、すでにこちらのほうが「常識」になっている店や業種も多い。それ以外にも、接客の常識が、ある条件の下で成立していることを示し、その条件が失われていれば成立しないことを説く。
 とくに、服を買う時は、もう接客されるとホントぼくの場合、実に強いストレスを生む。店員の目の前で試着しているときなど、もういけない。「似合うと思ってんのか、このターコ」「プ バカじゃねえの?」と店員が絶対に内心思っているに違いない、などという思いにとらわれる。で結局、買ってしまうのだが、その店にはできるだけ近寄らない。とくに「エディ・バ○アー」。

(日経ビジネス人文庫/2004.9.14感想記)



白倉伸一郎『ヒーローと正義』○

 『仮面ライダーアギト』などヒーロー特撮ものの制作を多数手がけたプロデューサーによる正義論。ぼくの頭が悪いせいでしょうが、全体として結論が今一つわかりませんでした。〈ステロタイプな正義論〉や〈そのアンチテーゼの陳腐さ〉を避けようとして結局いいたいことが複雑怪奇になってしまったのか、それとも、ぼくがアホなのか。
 悪書かというととんでもない。個々の部分をとってみると、役に立つ資料や考えのヒントがたくさんある。

「日本の法律に『人を殺してはいけない』などという規定はない。ただ刑法一九九条が、殺人に対する罰則を定めているだけである。『人を殺してはいけない』というのは、わたしたちの内なる倫理がそう定めているのであって、法律というルールで決まっているわけではない。……『どうして人を殺してはいけないの?』という質問を、もし倫理の問題としてあつかうなら、『人を殺すのはいけないことだ』と思うかどうかは、質問者個人の内的原理の問題なのだから、金八先生のひとりでも連れてきて、熱い涙を流してもらったほうが有効である。理屈をこねまわして論じたてることではない」

「少年犯罪は増加などしていない。増加どころか、あらゆる統計資料が一九六〇年代中盤を境に少年凶悪犯罪が激減したことを示している。……一九六〇年代から九〇年代にかけ、少年の犯罪率は人口対比で八分の一にまで低下して、その水準を維持しているという報告もある」

 こういうところだけ抜粋すると、「そんなわかりやすそうなとこばっかり見てんじゃねーよ!」と怒られそうだが、まあ、感想文にしあげるときは読み直しますので、ここはなにとぞ穏便に。

(子どもの未来社/寺子屋新書/2004.9.10感想記)


松山花子『やさしくしないで!』1巻●

 訴求してくる絵とそうでない絵とがあって、松山のこの絵は明らかにぼくに訴求してくる。カバーデザインとしても秀逸なのだろうと思う。タイトルを大書し、善良そうな好青年とハンカチをもった不機嫌そうな女子社員の大きなイラストは、もうこれだけで何事か起こしてくれそうな期待をもたせる。
 4コマで、わりとワンパターンなのだが、そのパターンは、「相手に気を遣っていったことの距離感が微妙に(あるいは大きく)ズレている」というもので、逆にこれだけ並べられると、ツボにハマった笑いに転化する。

 泣いている女子社員。
 「あれ! 矢口さんどうしたの!?」と主人公。
 問うた直後に課長と不倫をしていたという噂話を思い出す。
 「伊原くん… 私 実は――」
 「あっ…いいよ!」とせいいっぱい気を遣う主人公。
 そして大声で叫ぶ。
 「そんな話 聞きたくもない!!
 泣き叫ぶ女子社員。「どうせ汚れきった話よ〜〜〜!」

 主人公の「優しい言葉」は、どれもふつうに優しい言葉なのに、少し対人距離の目測を誤るだけでこうも見事に誤爆するのかと妙に感心。みんなそれで苦労してんです。

(竹書房BOMBOO COMICS/以後続刊/2004.9.9感想記)


よしながふみ『こどもの体温』●

 苦労して育てたわが子は、わりといい子に育ったが、ある日突然クラスの女の子を妊娠させたかもしれないと告げてくる。
 相手の女の子がどんな「すすんだ」子かと思えば、「色気もへったくれもない」まじめそうな子が出てきて、道すがら大人にスルドいことを言う。
 親の悪口を言い散らかすけど、そのままそれが愛情や依存の裏返しになっている。
 何の愛情もロマンもなくただなりゆきでセックスをして、産婦人科まで来て、ことの重大性に気づいて、蒼白になる。
 ――「大人びていて でも世間知らずで 秘密が多くて でも無責任  何だ 僕達が子供だった頃と同じじゃないか」。こどものリアル、すなわちこどもの体温が伝わってくる。この短編のどんな瑣事の一つも既視感を覚えるし、立派な親であればそれは日常よく知っていることだろう。
 まさによしながのこの作品の直後から、神戸児童殺傷事件、黒磯中ナイフ事件など「子どもがわからない」事件が連続する。すでに「援助交際」はマスコミの話題になっていた。いつの時代でも子どもを「異界」からきた化け物のように大人は嫌悪するけど、実は私たち、昔は子どもだったんですよぉ。ナイショね、これ。
 「私は子供が嫌いだ!……私は子供に生まれなくてよかったと、胸をなで下ろしています!」(by伊武雅刀「子供達を責めないで」、作詞は秋元康)

(新書館WINGS COMICS/2004.9.2感想記)



星里もちる『ルナハイツ』3巻●

 すまん、星里。
 やっぱりお前は「確信犯」的に(言葉の誤用としてのそれ)、ラブコメの要素を並べて遊んでいたんだな。3巻第1話「想い出にかわるまで」を読んでそう「確信」しました。
 ベンチが粉々に壊れるまでのエネルギーで元婚約者の新しい彼氏を殴るシーン。死ぬって、普通。「男らしく」殴り合ったあとはすっきり和解。登場人物すべてに、滂沱と頬を伝う涙。星里は完全に茶化している。茶化しているのでなければ、重さんが星飛雄馬の姉よろしく木の蔭から涙を流すコマで「杉並区保存樹木」という札を描きこむ必然性はない。
 やはり星里の漫画は真面目な人間ドラマとして読んではいけません。 1巻の感想 2巻の短評

(小学館ビックコミックス/以後続刊/2004.9.1感想記)



花見沢Q太郎『REC』1〜2巻●

 「声優との秘密の恋」と大書してあるオビをみて、つれあいが、“はー、あんたこういうものがイイわけ、あ、そー。ふ〜ん”と心底呆れ果てたような顔をしていた。
 ぼくは『壊れるほど抱きしめて』を「ゴミのような一冊」と切り捨てたが、おそらく女性のみなさんからしてみれば、花見沢Q太郎の無内容きわまる漫画群こそ「ゴミのような連作」と鼻白むであろう。
 スジも絵も壊滅的と思えるほどにひどいものなのに、ぼくは『痛快!すずらん通り』をふくめ、3冊も買ってしまった。おそらく「かわいい女の子とラブラブに暮らす」という、おバカなシチュエーションが読みたくて読みたくて。
 花見沢の描く女の子は、中高生がノートの端に落書きする絵のように、顔がいつも「御真影」=静的である。それが体に貼り付いているという感が否めない。しかし、作者は中高生よろしく、その授業中に心にわきあがる落書きのごとき萌え顔を描きたいのだ。読者はそれを見たいのだ。みごとな需給の一致。萌え絵のワルラス均衡とはこのことか。(誰もそんな概念出してないって)

(小学館サンデーGXコミックス/以後続刊/2004.8.31感想記)




逢坂みえこ『千石屋綺談』●

 関係ないけど、ある女性の誕生日に絵本、ゴーリー『不幸な子供』を送ったら、相手がその場で開封して読んでいるうちにみるみる顔が曇っていったのがわかった。その場にいた何人かから非難されました。すいません。
 さて、気を取り直して。
 老舗デパート「千石屋」での女性たちを描いたオムニバス。なかなかよい小品。やはり逢坂はオーソドックスに働く女性を描くのがよい。なんだかんだいって、『火消し屋小町』はNHKドラマになってしまった。『海猿』で職業漫画に味をしめたな、NHK。
 Section2「シルバー・イン・ヤングカジュアル」に出てくる主人公の店員・仁川さんっていいよなあ。知的なボブ。ってそんなことばっか言ってますね、ぼく。この前は髪が長いのがいいとか言っていたし。漫画の本質とは何も関係ないし。
 この話で老婦人が感じる嫁への愛憎は面白そうなテーマなんだけど、逢坂は全部言葉ですませてしまった感じがあり、そこは残念です。

(集英社クィーンズコミックス/2004.8.29感想記)



山岸凉子『テレプシコーラ〜舞姫』6巻●

 ずいぶん前に、この漫画の結末を、つれあいと予想しあったことがあったが、ぼくは六花が姉にはない独創性を身につけて次第に成長し、千花や空美と争うと予想した。これにたいし、つれあいは、六花が、振り付けなどのまったく別な方向で才能を発揮するようになり姉たちとは競合はしない、と予言した。
 第6巻を読むと、つれあいが正しかったという危険性が高まっている。くそう。

 六花が中学校のダンスクラブの振り付け役をおおせつかり、その物語は六花が部員たちの反発をくらうところから始まる。そのたびに反省し、工夫し、少しずつ心をつかんでいくという様子は、ドラマというものの醍醐味である。

 それにしても山岸の絵は変な絵だなあ。
 漫画とは絵ではないのだ、とつくづく思う漫画家の一人である(バレエの体線の描写の精確さは定評があるらしいが)。

(メディアファクトリーコミックス/2004.8.25感想記)



西炯子『STAYリバース 双子座の女』●

 なぜぼくらは、刈川エリを「いいなあ」と思うのでありましょうか。
 女装、というか女性になりたいという願望をもつ美形の双子の兄=坂本清雅(せいが)に、その願望を打ち明けられた刈川は、騒ぐでもなく、変に理解をしめすでもなく、あくまで超然と、あるいは淡々と接する。あの独特の醒めたような、半開きの瞼と、細い目で。
 そうかと思えば、その願望を打ち明けたとたんに赤くなって帰ろうとする清雅の行く手のドアをふさぎ、「帰らなくていいわ 今からここで話すことは 永久に 私とあなただけの秘密よ」と言う。こうしてほしい、と思う時に、必要な親密さを発揮するのだ。
 すばらしい距離感。人間関係の距離をとるのに疲れ果てた現代人にとって、刈川のような人間がそばにいれば、まさにそれは奇跡の人。観音菩薩もかくやと思うであろう。刈川の顔が仏様に見えるのは偶然ではないのダ。

(小学館 フラワーズコミックス/2004.8.24感想記)



西川魯介『野蛮の園』●

 はー、高専とか工業高校の青春ってこうだったのね。今ぼくは真実を知りました。『星のローカス』はウソだったんだって。
 あきれはてるほど下品なギャグを、高校生、そしておそらくは高専生の水準の下品さでまとめているところに、かけがえのない野性味がある。かけがえがないというだけで、だれもそんなもの保存したり貴重に感じたりはせんのだが。
 ぼくがわかったパロディは、『ゲンセンカン主人』と『海辺の情景』という“つげ義春”系だけでした。
 「おまけまんが」のラスト「そうとも憶えときな」は杉浦日向子『百物語』でしょうか…。

(白泉社 JETS COMICS/2004.8.23感想記)



こしのりょう『ナースあおい』1巻●

 ダメな病院をナースの目からえぐるという良心的な漫画。こうした志自体には拍手をおくりたい。

 が、『ブラックジャックによろしく』の亜流にしかみえないのは何故。主人公のあおいの目線が、ぼくらのところまで降りてこないのだ。人間ドラマにならず、ルポをケースごとに絵物語にしたような感じ。
 佐々木倫子『おたんこナース』と段違いの差があるが、それはテーマを深刻にしたせいではなく、取材した対象を咀嚼し、深めていく力が弱いせいだと思う。取材したものの垂れ流しに近い。たとえば「急患に対応できない無能な医者が当直に来ている」ということを、ただそのまま描いているだけ。

 いい試みなのでもう少しがんばってほしい。
 それにしてもCall.6「あってないような…」の扉絵のような下着での寝姿は、誰も期待してないので、そういう無意味な「努力」「サービス」は今後やらなくてよろしい。

(講談社モーニングコミックス/以後続刊/2004.8.6感想記)