読んだ本、みた広告などの短評 2006年下半期

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SABE『世界の孫』1

世界の孫 1 (1) 孫顔の女子中学生の話。「孫」。「そん」ではなく「まご」。「まご」だから、どんなわがままをしても許してしまいそうだ。それが「世界の」とつけばもう最強、というわけだ。いかなる傍若無人なふるまいも、心を癒してしまうのである。

 作者がテレビとかで「世界の孫正義」のテロップを見ていたら、「『まご』って読んだらおかしくね?」とか思いついて始めた。というのは嘘だが、タイトルと設定から逆算して着想のプロセスを考えてみたのだが、いかがでしょうか。

 つーわけだが、どうも年のせいか、このノリについていけない。引っ掛かる前に暴走しまくり。ぼくの場合、クスリともできなかった。

(講談社アフタヌーンKC/1巻/2006.12.22記)



『このマンガがすごい! 2007』オンナ版/オトコ版

このマンガがすごい! 2007・オンナ版 去年に引き続き宝島社のムック『このマンガがすごい!』の2007年度版で選評をさせていただきました(オンナ版、オトコ版どちらも)。

 店頭に並んでいたので、やがて家に届くことはわかっていたんですが、「土日楽しむためだけに」と買って家に帰ったら、まさにその日、宝島社から家に届いたのであります……くっ……! 
 オンナ版で選んだものは軒並み上位、オトコ版で選んだものは軒並み下位でした。こういうときはどちらがうれしいかというと、実はその中間。「面白いけど知られていない漫画を紹介する」という機能からすると、あまり上位すぎるとアレなんですが、かといって知らなさすぎると、ぼく的にはまたダメなんですね。個性と普遍性が交錯するのが中位なわけです。

このマンガがすごい! 2007・オトコ版 オトコ版の1位は意外や意外。いいところまではいくだろうと思っていましたが、1位とは。(ぼくは選ばなかったのですが)

 花沢健吾と浅野いにおのインタビューも掲載。本人の写真が出ていたけど、お前ら、自分の作品の登場人物に、フンイキ似すぎ!w


(宝島社/2006.12.10記)



若杉公徳『デトロイト・メタル・シティ』2

デトロイト・メタル・シティ 2 (2) 東京で〈カヒミカリィ〉のような〈オシャレなポップバンド〉をやりたかった根岸崇一(23)が、どこで道を間違えたのか〈悪魔系デスメタルバンド〉〈デトロイト・メタル・シティ〉(DMC)のボーカル〈クラウザー2世〉を、苦悩しながらやっているという話。

 2巻のオビで「シーンで一番ヤバイ奴は誰だ!!」というアオリがついてるけど、

●ライブハウスを放火したジャギ
●そこから女をつれ出し犯したクラウザー2世
●消火活動が終わるまでドラムを叩き続けたカミュ

の中でいえば、単なる過失のジャギ、善意が誤解されているだけのクラウザーにくらべれば、唯一マジのカミュが心底ヤバい。

(白泉社/ジェッツコミックス/1〜2巻/以後続刊/2006.11.9記)



西出博子・伊藤美樹『お仕事のマナーとコツ』

お仕事のマナーとコツ  3月から仕事が内勤的なものから、人と接する機会がふえたものにかわった。ネクタイなど締めている。しかし、いまさら新人研修でもない(つかそんなものないのだが)。ゆえにこういう本が骨身にしみるほど役立つ。

 電話で「お世話になっております」といわれたら何とこたえていいかよくわからなかった30半ばの男だった。「あ、ども」とか。これじゃあ、「礼儀知らずのいまどきの若いモン」そのもの。名刺を財布から出したり(ヨレヨレ)。顔から火が出る。

 基本的な会社人マナーだけでなく「打ち合わせをする」「会議」「クレームへの対応、謝罪」などという項目まであって、読み物としても面白い。初めて会う相手との打ち合わせではたとえば「私、カエルチョコ大好きなんです! 1日に6枚はかるく食べちゃうくらいですから」「今日は楽しみだったんです!」ときりだすそうな。「優しく微笑む口」「ポイントは笑顔」というアドバイスは核心をついておる。それがわかっていながら、今日の打ち合わせは、仲介者に紹介をうけるまでの待ち合いの間、10分もお互いに沈黙しちゃったよ!(男女ふたりきりで)

 なにより、「絵本」というだけあって、漫画つうかイラストが全編を覆い、9割方「手書き」的なのが読ませる。これがかたぐるしい活字だったら読まんかっただろう。ビラをつくるさいにも絶対参考になる。


(学習研究社/西出博子=監修、伊藤美樹=絵/暮らしの絵本/2006.11.2記)



いくえみ綾『バイ・アンド・バイ』

パイ・アンド・パイ  ファンタジーの力の一つとして、「非日常」を歩き回って「日常」に戻ってくることで何となく元気になっている自分がいる、なんていうことがある。宮崎駿のアニメをみてそういう思いを持ったことのある人はいるんじゃないか。

 表題作の短編は、「毎日は ふつうに楽しく ふつうに退屈」という女子高生が主人公で、それがちょっとしたアクシデントによって、「日常」のなかにある「非日常」に、たっぷり一日まきこまれて帰ってくるというお話。そしてある種のファンタジーがそうであるように、主人公が戻ってきた「日常」はどこかしら新たな幸福感にあふれている。
 ただ、作品としてはもうひとつ。いくえみは、最近「志は高いが結果がついてこない」というのが多いな。

 次の短編、「おむかいのさちこちゃん」は中1の少女と男子浪人生の奇妙な交流を描いたもので、なぜかぼくは性的な空気を勝手にまとって読んでしまいました。つか、いくえみ、ねらってるだろう。それとも、ぼくがロリコンなんでしょうか。

(集英社/マーガレットコミックス/2006.11.1記)



陽気婢『眠れる惑星』2

眠れる惑星 2 (2) 1巻で絶賛した傾向をさらに加速。

 主人公の男子高校生・淳平は、大学とおぼしき研究所に16〜33歳までの若い女性十数人+憧れの同級生・エリコとともに生活することになり、「人類を救うために」日々精子を提供し続ける任務を課せられるwww しかもエリコと同じ部屋に寝起きする。労働生産物は世界のどこかから調達され、エネルギーは眠りながら誰かが動かしてくれているというのだ! 

 なにも働かず、若い女性のハーレムを形成し、精子を提供することだけが任務って……あげくに永遠の眠りにつかぬよう、淳平との性交を欲して我先にと若い女性がむらがるのだ! ちょwwwwwおまwwwww  

 世界中の人が眠っている間にエリコが何をしたいかということの答えが1巻の終わりに書いてある。核兵器をなくすことだ。2巻でもそれはくり返される。そして、淳平が他の女性を目覚めさせるためにセックスすることを、同じ論理をもって赦すのである。「人類のためにセックス」するわけだ! 核兵器廃絶とセックスが一気に等価におかれる。ああ、これぞまさに「ラブ&ピース」!

 巻末のエピソード、二宮に「絞り出される」淳平というシチュエーションがツボすぎ。

(小学館/サンデーGXコミックス/以後続刊/2006.10.28記)



藤子・F・不二雄『みきおとミキオ』

みきおとミキオ 21世紀、2074年に、1974年の「みきお」と全く同じ顔、身体、家族、友人をもった「ミキオ」がいて、偶然洞窟のなかのタイムトンネルで行き来できるようになり、毎日、おたがいの日常をとりかえっこする話。おお、子ども時代にゾクゾクと夢想したような話。

 月にお泊まり旅行に子どもだけで出かけて、隕石の事故でコンピュータが故障。最後の軌道計算、「2467×12=」ができずに、20世紀から来たみきお以外の子どもたちがみんな絶望するという話がある。21世紀はコンピュータが発達しすぎて自分で計算する力が退化してしまっているのだ。20世紀からきたみきおがスラスラと解いて、無事軌道へ復帰。月面で「天才少年」として報道陣にかこまれる、なんていう展開が、もうぼくのツボだ。
 落語に通じるような可笑しみがある。

 それにしても、そのコンピュータの軌道計算が、テープ状のもので出てくるあたりが、さすが1974年のSFである。水中公園で記念写真をとって紙に焼いて売るとか、立体8ミリの記録ソフトがフィルムだとか、もね(笑)。百科事典の項目が小さい「カセット」になっているというのも時代を感じさせる。いまならデジタルだからだ。

 いや、そもそも、「入手したいものが、個別に各家庭や個人のところにある」という技術思想そのものがふるい。インターネットという、共通のリソースにみんなでアクセスするという技術思想の革新は、さすがにこの子どもSFにはない。
 デパートから「万能型自動はん売機」がミキオの家に来て、カタログで番号を入れると代金とひきかえに欲しいものが出てくるのは、いまでいえばインターネットであるが、販売機にすべてつまっているという思想と、迅速に外から送られてくるというのは、まさに技術的思想の違いである。

 かといって、古臭いSFではない。つれあいも「1974年のSFなのになんでこんなに新鮮なの!」と驚く。技術思想ではなく、ムダを徹底してそぎ落とす、「F」のシャープな作劇がすぐれているのだ。

 『ドラえもん』の「しずかちゃん」にあたる「マリちゃん」。なにくれとなくみきお(ミキオ)を世話し、何も事情をきかずに看病してほしいというみきお(ミキオ)の懇願に、その約束を果たす侠気(?)には、マリちゃんのみきお(ミキオ)への「愛」を感じる。「A」とちがって、「F」にはこういうそこはかとないエロスがある。

(小学館コロコロ文庫/2006.9.29記)



稚野鳥子『東京アリス』1

東京アリス 1 (1)  レコード会社つうか音楽レーベルにつとめる買い物好きのOLの物語。またしてもキレる、クールな上司が登場。少女漫画の、魅力不明のクール系ヒーローのOL漫画版そのもので、『クローバー』と同じ展開。「アイスマン奥薗 表情がほとんど変わらない わたしの上司 その冷徹な容赦のない手腕で 仕事は結構やり手」「でも平気で女の子を裏切るともっぱらの噂」。ああもうこのパターン、飽きもせず、よくやりまんな!

 仕事で遅くなり終電を逃した主人公・ふうは、駅で偶然見つけた上司・奥薗の家に〈泊めてくださいっ〉と頼み込む。もちろんエロいことは何一つないどころか〈君は俺の趣味じゃないから安心しろよ〉と言い放って奥薗は別室で寝る。翌朝、奥薗の彼女が不意にやってきてドシュラバとなるわけだが。
 〈ゆうべ終電がなくなって泊めたんだよ〉とクールに告げる奥薗。〈泊めた!? なにそれ信じらんないっ〉とシャネルのカンボンラインのバッグで殴り掛かる奥薗彼女。なんかヒス女みたいに描かれているが、怒るのは当たり前である。ふう&奥薗、断然お前らが悪い。実際にナニもしていなかったとしても、社会的にみればヤッているのとまったく同じである。

 翌朝奥薗は、ふうをいたわるという体裁で、なぐられたふうの頬にエレベーターのなかで手を当てる――にもかかわらず、奥薗はイノセントな顔をしていやがる。なんだよこいつは。テキストだけ追えば、ただの誑し・エロ上司である。

 恋愛以外では絶対に動揺しない即自的・自己中心的な世界観と、無魅力なクール男性上司。稚野鳥子節大爆発である。

(講談社コミックスキス/1巻/2006.9.22記)



大島永遠『同棲レシピ』1

同棲レシピ 1  大学生・平野剛士が年下の高校生・藤原鈴音と同棲する話。
 「来ちゃった」といって始まるシーン、ヤクザの娘なので手が出せず剛士は「生殺し」状態に遭う……などベタすぎる設定が山のように。

 剃刀の剃り跡を虐待痕と勘違いするとか、寝相を悪くしないために体を縛るように要求することをSMと勘違いするとか、落語の「付き馬」のような勘違いネタの大攻勢。あるいはお気軽なツッコミの連続。

 安易さもここまでくれば、いっそ清清しい。もっとも頭を軽量にして読める漫画。年輩の人が「漫画」と聞いてイメージしてしまう安易さをすべて体現してる、っつうか、「電車で漫画を読む嘆かわしい時代」などといって新聞に投書されかねない「漫画」といいますか、その「くだらなさ」「軽さ」は、ある意味、漫画の原点かもしれぬ。あの、ホント、なにか「くだらなさ」を革命的につきつめたとか、芸術的な新境地とか、そういうすごさではなく、ただ安易なだけですから! あまりの安易さに腹が立つ人は読まない方がよい。

 大島永遠はもともとエロ漫画家で、その時代あまり強い特徴があるわけではなく、ぼく的にいえば全然パッとしなかった。『女子高生』で大きく変貌し、「おバカ」テイストで一気に作品をアニメ化する人気を得た。本作もこの延長線上にある(現在、二階堂みつきとタッグを組んで新生「大島永遠」となった)。

 ちなみに、この漫画で、洗濯機のフタは閉めると湿気がこもるという生活の知恵をぼくは得た!

(スクウェア・エスニック/ヤングガンガンコミックス/1巻/2006.9.12記)



東村アキコ『ひまわりっ 健一レジェンド』2

ひまわりっ~健一レジェンド~ 2 (2) 『きせかえユカちゃん』にテイストが似てきた。「ユカ」がおらず、「健一」がいることが、些細ではあるが重大な違いである。そして、そんなことは気にせずに描いてほしい。「別の作品とかぶってしまう」とか「新しい境地が…」とか、作者はそんな雑音に惑わされるな! 面白ければなんでもいいのだ!!(『吼えろペン』ふうに)

 「ああ あの太ってるけどカワイイ娘(コ)ね あ ごめん 間違った カワイイけど太ってる娘ね」「前後 逆になるだけで ずいぶん印象がかわりますね……」について、長時間トイレで考える。

 会社のイメージポスターの絵を「西岸良平」風にするというのは、ウケた。

 ところで、この巻を読んでいて無性にネコにマタタビを与えたくなる。「ネコにマタタビ」はものすごい古典的な事実なんだけど、実際に見ると衝撃を受ける。なんであんなに異常な状態になってしまうのか。ぼくは快楽に弱いので、こんなに恍惚になれるならぼくも欲しいとか思ってしまう。ちなみにここを読むと、ネコにマタタビが効くのは短時間だそうである。したがって、本巻の第16回のオチは苦しい。

(講談社モーニングKC/1〜2巻/2006.9.9記)



日高トモキチ『みぞれの教室』

みぞれの教室  この漫画の最大の欠点は、オビが非常によくないことです。
 「私たちはこの漫画を自信を持ってお薦めいたします」。
 で、あかほりさとる、伊吹秀明、唐沢俊一、西原理恵子、さそうあきら、関善之、堀井憲一郎、みずしな孝之、モリナガ・ヨウという錚々たる面々が並ぶ。

 そこまで言われたら買わないわけにはいかないじゃないですか。
 なのに、なんですかこれは。このありきたりさは。
 謎の美少女が転校してきて、誰も知らないところで何だか自分に接近してきて、そしてそいつの正体は……という話で、まあスジがありきたりでも、ディティールや絵がアレならまったくオッケーなんですが、どちらも「悪くないけどありきたり」。

 麻雀漫画誌などが活躍場所で、いろいろ描ける漫画家のようです。事実、カラーの口絵のスクール水着を脱ぐ美少女の描写は、それなりの雰囲気があります。しかし、カラー以外のところは絵のテンションが若干低下し、あまりに「フツー」です。ダメな絵ではなく及第点ではありますが、まさに統計的多数として「フツー」。

 すべてが平均点なので、トータルでみると、すんげー凡庸な作品になってしまっています。
 なぜ推薦した諸子が「自信」を持ってしまったのか、謎であります。オビがあれほど過剰でなければもう少し気持ち穏やかに読めたかもしれません。

(角川書店/ドラゴンコミックス/2006.8.20記)



南Q太『スクナヒコナ』4

 これにて完結。

スクナヒコナ 4 (4)  事故で死んだ恋人・賀次の死を受容できなかった紺が、新しい恋人の子どもを身ごもり、それが賀次の再生だと信じることで、死を受容していく――とかなんとか書くとカッコよすぎる。ちがうな。そう書くことに違和感ありすぎ。
 主人公の紺は、自分の感情の制御のために、ただ、まわりの男を利用しているだけのように見えてしまう。出産の立ち会いに、親じゃなくて自分に好意のあるひとをわざわざ呼ぶってどーゆーこと? 新しい恋人・富尾にたいする「かけがえのなさ」を感じる気持ちでさえ、「もう1人になりたくない……」という動機からだ。「優しくないよ私 自分のことばっかりだもん」という紺の告白は、真実を伝えている。(物語設定上では紺には一切の非難される根拠はない。そういう自己弁護的なつくりがまたいやらしい)。

 しかし、そのような不快感ふくめてリアル。こういう、大人しそうで本質的にはオトコをぶんぶん振り回している女性は絶対に実在します! 富尾の雰囲気が少しぼくに似ていて、紺にいいように翻弄されているようで、ちょっとやだ。「あの……富尾さん 好きです」とか、ぼく的にヤヴァイのでやめてほしい!

(祥伝社/1巻の短評はこちら/2006.8.18記)



阿部川キネコ『ミス&ミセス』

ミス&ミセス  売れっ子イラストレーターのミコと子持主婦のキコが、結婚という一方の環境変化を経ても変わらない関係を保ち続ける日常を4コマで描く。

辣韮の皮―萌えろ!杜の宮高校漫画研究部 (1)  『辣韮の皮』を知るものからすると、のけぞるようなテイスト。
 「色んなタイプの4コマ漫画を器用貧乏に描いています」というカエシの自己紹介のとおりなのだろうが、たとえば安野モヨコが『働きマン』を描こうが『シュガシュガルーン』を描こうがやはり安野モヨコだろうと思うのに、阿部川の場合は、まるで別人。
 毒のあるタッチでオタクの生態を笑いものにする『辣韮』と、どこまでもほのぼのを基調とする『ミス』は違いすぎる。なんだこの『るきさん』期の高野文子っぽい絵柄の洗練は。
 ミコがしばしば「毒」を発動するが、あくまで「ほのぼのファミリー4コマ」の枠内での「毒」であって、整然と管理された「毒」である。それはもはや毒ではない。

 ただし、子持の既婚者と未婚者が気持ちよく付き合い続けているというストーリーには関心がある。男の場合、はっきりとした断絶ができること(疎遠になるっつーか)が多いからだ。女性の場合も断絶するんだろうけど、もう少しこうした関係が生き残りやすいのだろう。たとえば『きみはペット』なんかでも子持既婚と未婚の友情という設定が出てくるではないか。

(双葉社アクションコミックス/2006.8.9記)



田中ユタカ『愛しのかな』1

愛しのかな 1 (1) 若くてかわいいユーレイと毎日セックスするという話。他に言い様がないので……。

 田中が昔描いていた漫画は正真正銘、優柔不断で甲斐性のない男やさしい男たちの荒唐無稽なオナニー妄想だった。いや、今の方がテキスト上は、ユーレイだなんて、よりいっそう荒唐無稽度と妄想度が高まっているように見えるのだが、さにあらず。変な言い回しだが、妄想にリアリティがある。つか、話や設定の足腰がかなり定まってきたというのだろうか。

 同級生でも同僚でも幼馴染みでもない。働きにもいかないし、就学義務もないし、しかし、決して年をとらず、食事と交情だけは実体のある異性。現世とは完全に切断されながら心身の欲望だけは引き受けてくれる、完璧な理想体。体を通り抜けたり抜けなかったりするのだが、それがセックスの最中は、奇妙な一体感(一部が体に入り込んでしまう)を生み出す設定となる。文字通り「ひとつになりたい」だ。

 苦渋に満ちた労働で得られる最小限の生活原資。ひと目につかない生い茂った植物に囲まれた岡の上の住居。そこで来る日も来る日も二人ですごしてヤルこたぁ一つ。ユーレイであることさえ除けば、なんと堅牢な現実設定だろうか!

 前に、「男はポルノで女から性的搾取ばかりしていて絶望したので死にたくなった」とぼくに言った女性が、唯一許せた「エッチ漫画」が田中ユタカだった。なるほど田中の漫画は昔も今も徹底した和姦とコミュニケーションの教科書のように見える。けど、ここにあるのはただ自分独りの妄想だけなんですよ! 他者はいないんです。

(竹書房バンブーコミックスDS/1巻/以後続刊/2006.8.7記)



吉田基已『水の色 銀の月』2

水の色銀の月 2 (2) なぜ2巻だけかというと、1巻はすでに感想を書いているからである(タイトルは違うが内容はほとんど同じだと思い買わなかった)。

 1巻についてぼくは「美人が淋しさをかかえて人恋しくてたまらないのだ、というのは、叙情ではなくて、欲望的なファンタジー」「『(美人の)女たちの淋しさをわかってやることができるのは、ぼくだけなんだよ』というのは、最高の欲望的ファンタジーだ」と書いた。

 2巻は、ヒット作『恋風』を経ての作品である。
 出てくる女性に、「寂しさ」というか「つらさ」というか「やさぐれた」感じを受けなくなったよなあ。そうなると、その寂しさやつらさをぼくだけが引き受けてあげるよっていう気持ちが弱くなっちまうんだよ。読者のぼくとしては。
 1巻の華海のセックスの描写は好きだったし、この巻でも出てくるんだけど、1巻のそれとはやっぱり調子が違う。気持ちが届かない寂しさをぶつけるようにセックスをするという華海はもうどこにもいない。とても「甘い」セックスだ。佐和子もシャープさが失われ、年下の恋愛対象となることで、「包容」「あたたかさ」が前面に出てきた。

 『恋風』以来、吉田の描く女性にはくちびるの上に「―」という記号が入るようになったよな。くちびるが厚い感じ、すなわち人柄の「あたたかさ」を感じる。柴門ふみが二度と『女ともだち』のエッジの効いた描写ができないように、吉田ももはや『水と銀』のあの「寂しさ」は描けないのかもしれない。

※『水と銀』1巻の感想はこちら 『恋風』にかかわる感想はこちら

(講談社モーニングKC/1〜2巻/以後続刊/2006.7.26記)



羽海野チカ『ハチミツとクローバー』9

ハチミツとクローバー 9 (9) ぼくは『ハチクロ』について、「空虚な物語」だと書いた
 内実、すなわち「内面」は実はそれほどないのに、情景やセリフを組み合わせることで人工的に感動をつくり出してしまうという、サブカルチャーのさまざまな要素を自由に駆使できる羽海野の技術だと。
 その意味で、手塚以来の「内面の物語」とは区別されている。

 ところが、9巻になって、アートや創作にかかわる人間の「才能」という問題を前景化し、はぐを事故に遭遇させて、靱帯損傷・芸術家生命の危機というドシリアスな展開になる。物語は、はぐのリハビリの苦闘とその苦痛をおしてなお絵を描こうとする強靱な意欲へと集中させられていく。

 まさにこれは、手塚以来の「内面」の物語であるようにみえる。
 はぐは、9巻において、文字通り、傷つき、苦悩する心身をもつキャラクターである。そして、はっきりとぼくは「紙やすりかタイルかさえ区別のつかない」はぐに起きた運命について、吸引され、注目している。これは正統な恋愛&「根性」漫画ではないかと。

 しかし……。
 いったん作品を離れてみると、このはぐのエピソードがやはりあまりに唐突、そしてそれの前触れとなるはぐの才能をめぐる考察も、やっぱり突然だなあという気がする。
 それだけじゃない。
 森田の父親をめぐる物語も、「経営のことなど毫もかまわぬ、技術バカの中小企業経営者」という造形が、はじめは冗談なのかと思っていたが(テレビリモコンに足をつけたり)、これも一気にシリアス化していって、ついには森田兄弟のトラウマの根拠にさえなっていく。

 つまり9巻は「内面」の物語がてんこもりになったのだが、そのどれもが急ごしらえで、人工的だという印象を、やや距離をおいて眺めてみると感じられるのだ。サブカルチャーが育んできた感動要素を組み合わせて人工的に感動を創出するという羽海野の手法は、9巻で放棄されたどころか、頂点に達した。

※1〜5巻の感想はこちら 8巻の感想はこちら

(集英社クイーンズコミックス/1〜9巻/以後続刊/2006.7.20記)



鈴木みそ『銭』4

銭 四巻 仕事で「声優」を使ったことがありました。
 「俳協」という団体からカタログをもらい、朗読の入ったCDが入っているのでそれを聞いて、俳優(声優)さんを選ぶのです。麻生美代子もいました(磯野フネの声)。やはり値段のランクが高かったですね。あ、お願いしたのは別の人でしたが。ギャラは、こちらにしては痛かったですが、声優の生活を支えることを考えると、やはり安かったと記憶しています。
 非常にまじめな文章を読んでもらう仕事でしたが、アニメ声とかでやったらユニークだったのになあ、と後で思いました(そういえば、以前から京王線のホームのアナウンスはやけにアニメアニメしているなあと思っていたら、友人情報で、わりと名の知れた声優だったのがわかったということがありました〔声はこちら=音が出るので御注意〕)。たしかに『銭』でいうとおり、セリフ量とギャラは無関係なので、ぼくは何べんもリテイクしましたし、いろんなバージョンを読んでもらったりしました(人使いが荒くてすいません)。ちなみに、『銭』でいわれている「日本俳優連盟」(p.106)は「俳協」ではなく、「日本俳優連合」のことでしょう。

 やはり、本巻で圧倒的に面白かったのは「声優の値段」シリーズでした。
 はじめの方を読んでいると、もともと需要が極小なのに、供給量がばく大という構図なのかなと思っていたのですが、後半を読んでいくと、電車のアナウンスではありませんが、仕事さえ選ばねば一定のニーズが存在し、「実力があれば食べていくのに困らない世界」(p.94)だとわかります。

 体をつかって仕事をとる、いわゆる「まくら営業」をテーマにしますが、作者はそれを否定しつつも、「体を張って仕事が欲しいというほどの根性」(p.140)「気持ちは伝わってきた そこまでしても声の仕事がしたいって」(p.120)と、どこかでその「根性」を称揚しています。倫理的な正邪で漫画の価値は推し量れないわけでしょうが、そういう理屈を目の当たりにすると、やはり、ぼくとしては不快でした。しかし、そういう異論反論を抱くことをふくめ、漫画としては、目の離せない魅力があり、すぐれた作品だといえます。

 このシリーズのラストの結論、「質のいい情報 それがネットワークから利益をひきだしたのね」は、この話のむすびとしてはいささか強引だと思いました。

※1〜2巻の感想はこちら

(エンターブレイン ビームコミックス/1〜4巻/以後続刊/2006.7.4記)