03年短評 04年上半期 04年下半期 05年上半期 05年下半期 06年上半期 06年下半期 07年上半期 メニューへもどる 相原実貴『Honey Hunt』 そういえば、相原の『ホットギミック』から入門して、『先生のお気に入り!』を手にとってしまった人が、こんなHなものを描いているのかとショック受けていた、そんなAmazonのカスタマーズレビューがあったなあ(笑)。 本作は大女優の母親を見返すために、芸能界で生きていくことを決意した女子高生の物語。『ガラスの仮面』や『はるか17』のように「女優」としての成長物語にするのか、そこでの浮いた恋愛話みたいなのを描きたいのか、あるいは母子相克の話にしたいのか、今ひとつわからん。いろいろエピソードがあるんだけど、主人公が「うどんっ娘プロジェクト」のオーディションに受かる過程で変わっていく話が、やっぱりこちらとしては読んでいて一番惹かれるわけですわ。女優としての才能の原石が埋まっているという黄金パターンで話を深化させていくことを希望するね。 主人公・小野塚ゆらが「地味でフツー」(キャラクター紹介)「地味〜な女の子」(裏表紙)という設定で、1巻でも級友からもものすごい「地味」扱い受けているはずなのに、2巻に来たら「基本的に充分美少女な顔してんのに」とか監督が言い出すのはいかがなものか。まあアレだ。「眼鏡外すと美少女」と同じタイプの設定と思うことにしようではないか。 冒頭で述べたことにもかかわるんだけど、相原の描く女性の顔って、エロくてかわいいので好き。とくに困った顔が。なので「実は美少女」という設定は、相原の絵ならぼく的にはおkなんだが、せめて『はるか17』くらいのビフォア・アフターの差をつけてほしかった。 ところで2巻では、明らかに泉ピン子だとおぼしき女優「小泉リン子」が登場。しかもいじめ役。『はるか17』でも「泉川ヒヨ子」という明らかに泉をモデルにした風貌の女優が出てきて、やはりいじめ役。なに、泉ってここまで常識として描いていいほどのいじめ屋なの? (小学館Chees!フラワーコミックス/1〜2巻/以後続刊/2007.12.28記) 山田可南『恋愛日記』 祥伝社から出ているが、もともとはコアマガジンが出している「漫画ばんがいち」というエロ漫画誌に掲載されていたもの。1作8ページのまさにコミック日記。 エロ漫画誌なので掲載誌の他の作品と同様、毎回セックスシーンはあるのだが、本作に特徴的なことは、日記という体裁を生かして、「女性の側から見たセックスや性欲」を短く切り取っていることだ。それによって、男オタクであるぼくは「セックスや性欲にかんする女性の本音を垣間見る」という欲望を満足させることができる。 あくまでその「本音」は擬制、すなわち男の欲望をこめた「女の本音」なんだろうけど、こちらとしてもだまされがいのある作り込みだと思う。楽しむ。 そして、このぼくの欲望は、虚構と現実を等価に置くいつもの有り様とは明確に違って、多分に「現実の代償」的なものだ。ぼくの周りのリアル女性たちはこういうものを無論さらけださないし、さらけだしていただく必要もない。 しかし、そういう駄話をしてみたいという欲求はある。この漫画はきわめてぼくのその欲望に合致しているのだ。 正常位の方がぬくもりを感じられるとか言ってるやつはバカじゃねーの? とか、お別れの「記念セックス」が死ぬほど気持ちよかったとか、コタツでするセックスは幸せだとか、徹夜作業でお互いテンパってるときのセックスがいいとか、そういう話である。 ところでこの本、時系列で作品が並んでいるはずなのに、絵柄が異様に不安定なのはなぜだろう。ま、別にいいけど。 (祥伝社/2007.12.27記) 『このマンガがすごい! 2008』 「電脳コイル」最終回は小学生キスシーン無し! ヤサコの「それって…初恋?」があったから、まあよしとしようではないか。 閑話休題。 『このマンガがすごい!』の季節である。今年はオトコ版・オンナ版に分けず、1冊にまとめたようである。2冊も需要がないことや、区分けが難しくなっているせいではないかと感じた(ただし、この本の中では整然と分かれている)。ぼくも今回アンケートで参加させてもらったのだが、あげた作品のうち2つほどがどちらに分類するか迷い、編集者に問い合わせをする状態だった。 オトコ版の1位は、まあ高順位はいくだろうなと思っていたが、1位とは思わなかった。昨年の『デトロイト・メタル・シティ』と同じ驚きである(昨年ほどの驚きではないが)。 オンナ版の1位は予想どおりであった。もちろんぼくは投票しなかったが。選者たちの評をみてもやはり納得がいかない。しかし、本書に作者インタビューがあって、この作品が読者にどこで受けているかを語っていたのは参考になった。 つれあいが不思議がっていたことは、『となりの801ちゃん』を挙げた人は多く、比較的上位にくいこみ、ミニ特集的にも扱われているのに対し、同じようにブログ発で売れに売れた『ぼく、オタリーマン。』は影も形もなく、まったく話題になっていないことだった。 これは少年漫画がここに入ってこないことと似た事情だろうか。しかし少年漫画問題はすっぱりと「年代」という基準で解決することができるけども、『オタリーマン』の場合、年代も同じ、「ネット」「オタク」という親和性もあるというはずなのに、きれいさっぱりないというあたりにたしかに不思議さを感じる。いったいどこに支持層がいたんだろうか? (宝島社/2007.12.2記) 青野春秋『俺はまだ本気出してないだけ』1 40歳にして勤め先をやめて漫画家をめざす話。内容はまあタイトルから想像されるとおりである。 最後の「特別編」に載っている人生時計のたとえで、主人公が「今の俺はたけのこなのよ」と言った後、自分でツッコミを入れるセリフが死ぬほど笑えた。登場する女性がそのセリフを聞いて吹いたのとまったく同様に吹いた。 こういうものは『最強伝説黒沢』の初期みたいにひたすらダメでイタいおっさんを描くというパターンがあると思うし、家族の側もたとえば『ダメおやじ』みたいにトコトン嗜虐的になるというパターンもありうると思うのだが、本作はそのあたりも全然徹底していない。 そうするとありがちな漫画になってしまうのをおそれたかのように、ハンパである。 周囲の人物が主人公に対して適度に厳しく、適度にヌルいのが、虚構らしくなくてちょっとつらい。なぜつらいかというと、変にリアルっぽさが抜けないから。主人公をいじめぬけば、ひどくリアルになるか、虚構として安心して読めるか、どちらかになるだろう。 自分がフルボッコにされて女を助けたあと、まるで助けたことのご褒美をもらえるかのように主人公が女にたいして唐突すぎるほど唐突に「……キスしようか?」と言うが、あっさり拒絶されて赤くなってタバコをスパスパしているのも可笑しい。フーゾクで「この女は俺が救う」的にホレこむメンタリティに似ている。お前みたい。 漫画をもちこんだ先の編集者の、非のうちどころのない「激励型批判」がイヤだ。自分もどこかでこんな評価されていそうで。 主人公の娘(高校生)を、真似して描いてみる。描けそうだ。 かわいくてとてもいいコなのに、留学資金を自分で稼ぐために、ファッションヘルスでバイトをしていたことが、主人公がたまたまその店に行ったことでわかってしまうのだが、そのあたりが、何の情緒的味付け(大げさに驚くとか、泣くとか)もなく描かれるあたりが、この漫画の過剰さを排したトーンを象徴している。読んでいるぼくはさりげなく衝撃を受けてしまう。そして主人公の情けなさが逆に身にしみてしまうのだ。 このコは、巻末の一言も、さりげなくキツい。別にキツそうなことは言っていないのに。 ぼくにとってはわかりやすく共感したり身につまされたりするものではないけども、随所にじわじわと効いてくるものがある漫画だ。 (小学館IKKI COMIX/1巻(以後続刊)/2007.11.13記) 都留泰作『ナチュン』 2巻まで出ていて、ここまで読んだ限りでは何ともいえん。しかし期待感はある。同じように期待感だけあってまだ判断がつかないものに山名沢湖『つぶらら』がある。関係ないけど。 だって最初の人工知能についての設定以外、ずーっと沖縄の離島での生活が描かれているだけなんだもん。 そういえばARTIFACT@ハテナ系も1巻段階で評価に困っておったな。2巻でも同じである。伊藤剛もウェブ連載で紹介していたのだが、いまひとつ評価基準が不明であった。 なのに、なんでぼくが読んでいるかって? うーん。 たぶんねー、若い女性が二人出てくるんだけど(どちらもアマゾネス系)、主人公がそいつらのどっちかといつヤルのかなーと思いながら見てるだけなんじゃないかなーと自分では思ってるんだけど、ちがう? ちがう? 海辺で2人でデートしたり、拉致する時になんか悶えるシーンとか。 ぼくとしては、作品のなかでずっと性的なにおいが漂っていて、それを主に手がかりにして読んでいる感じがするわけなのである。あとは離島の閉鎖的もしくは独特な雰囲気を楽しんでいる。人工知能とかマフィアとか超どうでもいい。だからオープニングの設定でひきずりこまれるなんていうのはまったく無し。あやうくオープニングで挫折するところだった(笑)。 (講談社アフタヌーンKC/1〜2巻(以後続刊)/2007.11.12記) 和田尚子『片道切符』1 文庫で1巻しかまだ読んでません。それで無謀にも感想を書きます。すいません。(と責任リミッター解除!) さて、1994年から連載された本作。すげーな、これ。何がすげェって、「少女漫画のすべて」ではなく「一般人が少女漫画と聞いて思い浮かべるすべて」がつまっている。 高校から大学にかけてのある女の子(天ちゃん)の片思いの話。「好きです」という気持ちは伝えている。しかも高校でけっこう相手の男の子にヘマをやって悪印象をもたれているのに(実はそうでもないという設定ではあるが)、卒業して別々の大学にいってもなおもアタックを続けるのだ。 しかも第三者的にみて、この男の子の方は、脈があるような反応をしているように思えない。なのに挑み続けている。こう書くとものすごい一途でアグレッシブな女性のようだが、漫画を読んでいる間中、天ちゃんという女性はただのウジウジした女性にしか見えないのである。しかし、客観的にやっていることをつないでみるとものすごい積極性と系統性を持っているのだ。 ここで体現されているものは「ひたすら一途に片思いをすれば道は開ける」というイデオロギーである。法然の「一枚起請文」の一文、「念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」を思い出す。「ただ一向に片思いすべし」。「ただ恋愛成就のためには、片思いして、うたがいなくカップルになるぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず」。 ウジウジするすべての少女漫画読者を、念仏によって救済するがごとく「一途に片思いすればすべてが救われる」と説いているかのようであり、この漫画の強みはまさにそこにあろう。 それ以外の非リアルさに驚く。 たとえば主人公・天ちゃんは「T大」にいく受験秀才なのに、およそ「T大」的メンタリティが良くも悪くも感じられない。「T大」ってもっとプライドでがんじがらめになっていて、それが作品の面白さを生むと思うんだが、これ、ものすごくフツーの女の子じゃん。 あるいは主人公が一途に追いかける男の子の魅力のなさはすごい。いや、男のぼくから見て。 ぶっきらぼうでクールというありがちな少女漫画のヒーロー像であり、別にこの漫画に限らず男性主人公像に首をかしげることも多いのだが、この漫画だとぶっきらぼうすぎるんだよ! なんだよこの男。こいつと普通にコミュニケーションがとれませんが何か? なぜこんな男を一途に思い続けるのかさっぱりわからん。 (集英社文庫/全6巻/2007.10.26記) 小山田容子『ワーキングピュア』1 (講談社コミックスKiss/以後続刊/2007.10.22記) あずまきよひこ『よつばと!』7 そしてしまうーが自分のあだ名の由来を紹介し、よつばが笑い、風香が「おかしいねー変だねー」と受けるあたり。極めつけはしまうーが自分のあだ名の由来を創作ダンスにして踊りだすあたりも、これまた日常にありそうで、しかし漫画では絶対に描きそうもない感触がぼくを狂わせる。ぼくの頭の中でしまうーの「自己紹介再現」&創作ダンスがこわれたレコードのように回っている。 (メディアワークス/電撃コミックス/以後続刊/2007.10.5記) 佐原ミズ『バス走る』 『センチメントの季節』−(エロ)、とか規定するとファンから怒られるかな。『ほしのこえ』の漫画版描いた人なんでわかると思うけど、非常に美しい絵を描く。逆にいうと、この世の中は美しいものだけで出来ていると錯覚せしめる。少女はいつも美ししく、「さえないサラリーマンオヤジ」でさえ相当に美しい。 そうだ。冒頭の短編「空曲がり停留所」に出てくる、マンション販売の営業成績の悪い、さえない青年サラリーマン・木村でさえ、ぼくの美化自画像として憧れるほどである。 なんということのない会話をかわすだけだけど、路線バスで出会って女子高生と仲良くなるなんて、ありえないほどにうらやましいじゃないか。「明日の君が… どうか笑っていますように」というクサすぎるセリフも、佐原の美しい絵の中なら、ある種の耽溺の気持ちをもって受容することができる。 ぼくも仕事で空いた路線バスに毎日乗って、女子高生と願い事についての会話なんて交わしてみたい。純粋にそう願うね。 ただ美しいのではない。欲望が美しく描かれているのだ。それも痕跡すらとどめず。 (新潮社/2007.9.25記)
シギサワカヤ『九月病』上下 『パール判事』感想 ちょといい話 中島岳志『パール判事』の感想を書いてけっこう反響があったのだが、当然それが気に食わないという人もいる。たとえばこちらのブログ(「きち@石根」)である。 パール判事の息子、プロサント・パールが映画「プライド」に怒ったエピソードを中島が紹介しているのだが、それは単に父が主役と聞いたのに話が違う、くらいのことなのだ----こういうむねのことを同ブログでは述べているのである。ぼくの引用文で中島の評価がされては、中島も迷惑だろうから、中島の名誉のために一言言っておこう。 中島『パール判事』の該当箇所では、映画の主役をめぐるいきさつの経緯をきちんと書いている。同ブログは、わざわざ翻訳してもらったという「インディアン・エクスプレス」の記事を翻訳で紹介しているが、中島が自著で紹介した経緯をそう大きく出ない。その経緯をふまえたうえで中島はプロサントの怒りの持つ意味(単に「話が違うじゃん」程度のことではなく)を解釈しているのである。該当箇所の中島の全文はこちら(ブログ「考察NIPPON」)で見られる。中島の立論部分への評価は自由だが、彼が自著の中で、映画をめぐる経緯をふまえていることを紹介しないのはいかにも不自然だ。なぜなら、そのことをふまえているかどうかがまさに焦点なのだから。 さらに同ブログは、ぼくが「パールの息子であるプロサント・パール。東条英機をはじめとする日本の戦争指導者を美化する映画『プライド』が彼の『心を傷つけ、憤らせている』とインドの新聞『インディアン・エクスプレス』は報じた」と書いたことをわざわざ色をつけて引用する(原文の強調は青字)。この強調と「インディアン・エクスプレス」の記事翻訳を対照させることで、あたかも中島が記事にないことを同紙の言葉として引用しているかのように演出し「全く意味・背景、違うじゃない?」と誘導している。 ところが、この「インディアン・エクスプレス」の記事翻訳は記事冒頭部の「心を傷つけ、憤らせている」という部分がまるまる削除されているのである。単なる短縮ですませられる問題ではなく、これでは焦点の問題についてまるで違った印象になってしまう。 さらに同ブログはプロサントの「手紙」を載せているのだが、これがブログ主の推論なのか、本物なのか判然としない。本物ならぜひ出典が知りたいし、仮にブログ主の「空想」であるとすれば、文脈上プロサントの怒りの質を読者に印象操作するために使われていると言わざるを得ない。 松井石根(東京裁判で南京事件の責任者とされた将校)の陣中日記を改ざんした田中正明大先生の精神はここに生きていた! これは推察にすぎないが、「きち@石根」という人は、中島の原本を見ずにぼくの感想文だけを見て書いた可能性が高い。読んでいたとしたら、ネットを見ている奴らはどうせ中島の原典は読めまいとふんで曲解をした、と考えるのが素直な思考の流れというものである。 ちなみにこの「インディアン・エクスプレス」の翻訳は誤訳が多く、ちんぷんかんぷんの部分が少なくない。この翻訳はブログ主の翻訳ではないというが、そのまま載せているので同罪である。たとえば、翻訳全体の随所で「彼」が指し示すものがパール判事なのか息子のプロサントなのかが渾然としているため文脈がたえず混乱するのだ。 あるいは、「インディアン・エクスプレス」紙の当該記事本文にはこんな一文もある。 The grateful Japanese did offer help. For a series ofpublications incorporating his judgment, he was offered “any sum”. これに対して、かのブログは、この一文についてこんな訳をつけている。 「感謝する日本人は、助けようとしなかった。彼の判断をまとめた一連の出版物に、彼は『いくらか』オファーされた」(07年8月28日現在の訳文)。 意味がまるで逆、ないしは、すっとこどっこいである。英語能力とかいう以前に、まるで予習をやってこずに英語の授業でいきなりあてられた中学生のあわてた訳文のようなこの日本語を読んでも意味がとれないのである。おそらくブログ主はここで何が言われているのかさえもわかっていない、わからなくてもどうでもよい、もしくは関心がないのだろう。 この人はパールの生涯にまったく無関心であることが見て取れる。 パール判決をひたすら持論の補強に使うことに熱心で、パールの生涯や思想に無関心であることは、同ブログの同エントリの最後をみてもわかる。 この人は、パール「判事」よりもパール「博士」の方がしっくりくる、というむねを述べている。なぜなら、「パール博士は単なる判事ではなく、その後に国連国際法委員会委員長に就任されたように、国際法の権威」(同ブログより)だから、だそうである。 牛村圭・国際日本文化研究センター助教授は田中の『日本無罪論』について、「題名や後からついた尾ひれが独り歩きし、読まない人による“伝言ゲーム”が続いている。たとえばパルは東京裁判当時は国際法の専門家ではなかったのに、国際法の権威だったと奉るようなことだ」(朝日06年7月12日付)とまるで誰かのために警告を発している。 東京裁判時点でのパールの判決(正確には意見書である)の価値が焦点なのだから、「裁判後」に国際法の権威になったことは日本でのパール判決受容の問題においてはあまり意味がなく、この点については「判事」とする方がより本質的なのである。推察であるが、田中もそれゆえに題名を「博士」から「判事」に改めたのであろう。(もちろんパールは1930年代中葉に国際法の研究を始めていたが、「権威」とは到底呼べなかった。なぜそのパールが東京裁判に出るにいたったかといういきさつは、中島の本を実際にあたるといいだろう!) 「あえて『判事』表記を強調するのはパール判決のもつ意味のニュアンスをわずかでも変えてしまうかもしれない」と同ブログはのたまう。いやまったくそのとおりである。De te fabula narratur!(お前のことを言っているのだぞ!/ホラティウス『風刺詩』) (2007.8.28記) 武富智『この恋は実らない』1 松田奈緒子『悪いのは誰』 マザコンというか父への思慕を抑圧し母に従属する晴は公務員。その婚約者であるメーキャップアーティストのちさ。公務員という職場を「ヌルい」もの、夢が死んでいく安定した場所としてとらえる一方で、ちさが働くメーキャップという世界での成長、上昇志向、嫉妬、いじめなどを読者の身に迫るようにうまく描いている。 そこに、ひとの男を奪るクセのあるメーキャップ界のカリスマが登場。二人の関係を破滅へと導いていく。 いまいったとおり、肌実感のある職場を描いているうちは、ぐいぐいと引き込まれていく。『山おんな壁おんな』とか『Real Clothes』を読んでいるときのような緊張感や快楽がある。晴の同僚が「映画スター」になるために役所をやめようと迷う真情を吐露するさいにのべる、「このままだと人生棒に振りそうだし やめても棒に振りそうだし」というセリフは、まことに身につまされるリアルがある。 なのに、父親や母親に対する葛藤がからんでサスペンスタッチになっていく後半は、ぼく的にはついていけなくなった。選んでくるエピソードは後半にいっても印象的なのがわりと多いと思うんだけど、テンポが早すぎて雑な印象をうける。個々がいいのに全体が悪いという、珍しい漫画だ。ただし、ひとによっては高い満足を得られるかもしれない。 松田の代表作『レタスバーガープリーズ.OK,OK!』を読んだときも1話目がすごくよかったのに、2話、3話となるにつれて失速していってしまった。 今一つ、期待をかけきれない漫画家である。 |
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