03年短評 04年上半期 04年下半期 05年上半期 05年下半期 06年上半期 06年下半期 07年上半期 07年下半期 08年上半期 08年下半期 メニューへもどる サトーユキエ『子供だって大人になる』 ジャケ買いである。開いてみると、期待に違わない。こういうふうに形容すると本人は不本意であろうが、宇仁田ゆみの画風に、主人公の直だけ、冬目景『イエスタデイをうたって』のハルがまざっている、という感じで、それゆえにぼくの好みであった。もっとも巻末に3年前(2006年)の作品が載っていて、今よりもはるかにオサレなのであるが。 折しも雑誌「経済」5月号の拙稿で、ライターの速水健朗が朝日新聞で語っていたことについてふれたが、そのことがここでも思い出された。速水は最近の携帯小説には東京志向がなく、地元志向が顕著であることを次のように特徴づけていた。「登場人物たちに東京へのあこがれはなく、就職や進学でも上京しようとはしない。携帯メールで頻繁に連絡を取り合い、親密な地元圏を作り上げている」(朝日新聞08年12月20日付)。 この作品の主要登場人物4人のうち2人は上京している。さらに残った一人も地元から脱出したかったとされている。だから速水の言ったことがそのまま当てはまるわけではない。 主人公の直は東京の会社で、同僚や上司に、そして何より自分にいらだっている。自分の報われなさにいらだっている。ここで描かれている東京生活は徹頭徹尾空疎で苦痛なものだ。 直は自分の思いびとに自分の気持ちを伝えられず、逃げるように地元を出て来た、とされる。しかし、この作品を読んでいる間、ぼくは作者と直がいかに地元の人間関係を愛し、郷愁のような濃密な思いを抱いているかをずっと味わっていた。地元は直にとっては思い出したくもない地獄のような場所ではなく、実に甘美な感傷に満たされた土地なのだ。 その〈ジモト〉から再びエネルギーを注入されるのであれば、あの空疎で苦痛な東京生活をもう一度送る決意ができるほどに、そして好きだった人の幸せをどこにいても祈れるほどに、直にとって〈ジモト〉の人間関係とは強靭な根拠地になるのかと思う。「おまえ、すごく地元が好きなのね」と思わず声をかけたくなる。 俺もね。好きだよ、ジモト。 (集英社/りぼんマスコットコミックス クッキー/2008.4.7記) 平尾アウリ『まんがの作り方』1 13歳のころデビューしたがその後鳴かず飛ばずで最近は漫画を描いていなかった主人公と、売れっ子漫画家という身分を隠している高校生の後輩の話。いわゆる「百合」です。 こんなふうに無邪気で一途に恋心をむかせるなんて、ぼくからしてみるとあまりにも大胆な行為すぎます。それができりゃあ苦労はないわ、っていう感じ。さらに、その恋心を知りながら、ちゅーもセックスもしない先輩もぼく的にはありえません(物語としてありえないのではなくて自分は我慢できません、という意味)。ゆえに、自分と重なるところは微塵もありませんでした。 ぼくにとって萌えない内容なのに、萌える絵でカバーしています。河下水希の描く女子に似ていて、瞳に特定の感情が搭載されません。逆にいえば何でも仮託できてしまうといいますか。 ちなみに、味付け海苔でトーン代用することはないから!(油性ペンで描いて投稿、というのは逢坂みえこがやったことがあるらしい) ※2巻の感想はこちら (徳間書店/リュウコミックス/以後続刊/2008.4.6記) 鈴屋あやめ『いったり・きたり』1 山手線の駅をめぐる、オムニバス形式の恋愛物語。 顔や体がまったく動いていないように見えるこの感じ……どこかで見たことがあるなあと思っていたら、清原なつのだった。清原を読んだときのグラフィックの印象に似ているのである。だからどうしたというわけではない。 内容は清原には似ていない。エッセイコミックのように小さいコマにたくさんの情報をつめこんでいるのだが、それがあまりイイ方向で作用してないと思うのだが。最初の1〜2話を読んでいるとテンポが独りよがりでとても読みにくかったのだが、がまんして最後までつきあっているとそれなりに味があるようにも思えてきた。 (講談社/2008.4.4記) 桜小路かのこ『BLACK BIRD』1・2 女子高生が幼少のころに許嫁になった天狗に再会するという話。小学館漫画賞を受賞したというので早速1・2巻を読む。6巻まで出ているものを2巻までしか読んでないのに決めつけるなといわれるかも知れないが、これがなぜ漫画賞なのかという気持ちでいっぱいである。 いや「ベツコミ」系の御都合主義的展開は嫌いじゃないですよ。前々から表明しておりますが。 たぶん美形&かわいい系のキャラクターが次々と繰り出される展開にあざとさを感じてしまうのだな。若手芸人のテンポの速いギャグに最近ついていけなくなった、みたいな感じ。エロシーンも比喩が多く、困ったなあ……。 (講談社/2008.2.25記) 久世番子『私の血はインクでできているのよ』 著者の「まんが道」……というよりも「若さゆえの過ち」集とでもいったほうがよさそうなもので、作中でも若い頃の自分にたいする射殺許可命令を待っている著者がしばしば登場する。 実は最近、知り合いの娘(中学生女子)のブログを偶然にも発見してしまったのですが、ごろごろ転がりたくなる、(ある意味)シャープな感性がぼくを切り刻みます。 2行とおかずに「(わら」という自嘲的な表現が頻出するかと思えば、翌日のエントリーでは急にポエミーになってみたり。いや、自分も昔の日記とか読むとまったく人のことはいえないのですがね。 ぼくも昔は横山光輝の漫画を真似してクラスの人間を登場人物にした地元三国志を何冊も描いていたのですが、「世の中でこんなことしているのはオレくらいだろーなー」と当時は思っていました。 しかし、近年漫画家のこうした「マイ・まんが道」が明らかになるにつれ、そんなのはまったく序の口にすぎないことがわかりました。 ちなみに、生徒手帳には、自分の顔写真のところにフィリックス・ガムのパチもん的なフィリックスを貼っていました! 当時は「ウケる! スゴい!」と思っていたのですが、本書で光明真言と聞いてやっぱり自分はダメだとか思いました。 (講談社/2008.2.17記) 武嶌波『素っ頓狂な花』 81年生まれというのに、デビュー時の絵柄が古臭いというか、「80年代の、とがった漫画家の絵柄」みたい。好きだけどね。 2006年に描かれた短編「placenta」は、東京から神戸に転校してきた高校生の女の子の話。友だちを失いたくないために体を許してしまったことが後々裏切られることに。その体験が尾を引き、新しい転校先でなじめない主人公を、クラスの代表のような形で御影という男子が訪問するのだ。 御影と主人公が部屋でセックスを始めようとして、生理が始まってしまうために行為が中断され、それゆえにお互いに優しい話ができるようになるっていう顛末を読んでいて、ぼくのマスターベーションにおける妄想のストーリーそのものが自己規制的に発展していって妄想の中のセックスが中断してしまうときのシチュエーションにすごくよく似ていると感じ入った次第。すいません、この短編のテーマとはまったく別の話です。なぜかぼくは妄想の中でも鬼畜のようなことができずに、「いい人」としての自己評価を上げたストーリーでの和姦を欲望してしまうのだが、それが高じるとセックスせずまさにこの短編みたいになってしまうことがあるのだ。 なぜ作品評ではなくお前のオナニーの話を聞かねばならぬのだとお怒りの貴兄にはただ謝罪するばかりです。 気を取り直して。ぼくはここに出てくる「女の(子の)本当の気持ち」的な部分にはあまり関心がなく、むしろ出てくる男性の造形がすべて「草食系男子」的なやさしさを持っていることに惹かれる。つまり自分の美化像として読んでいるのだ。 デビュー作「雪は舞い…」に出てくる主人公のお父さんでさえ、自分と娘のことを想像してしまい、ぼくは自分の美化像としてこの作品を読んだのである。そういう点からすると、自分の部屋でセックスではなくてフェラチオをしてもらっている男子高校生も、女子高生に憧れられるメガネ先生も、ちょっと疲れてさばけたお姉さんとセックスしているメガネ先生も、みんなぼくの欲望なのである。 (小学館/IKKIコミックス/2008.2.12記) 田中ユタカ『もと子先生の恋人』 漫画家(女性)と編集者(男性)の恋愛。漫画家のファンであることと、作品への愛と、仕事仲間としての連帯感と、そして恋愛とセックスが何の躊躇もなく一体化を遂げている、幸福感に満ち満ちた作品。 エロ漫画家の、というべきかエロ漫画出身の、というべきかわからないが、田中ユタカが描いているせいもあるが、そういうだらしないグダグダ、ズブズブの(本人たちはいたって真剣でまじめだが)シチュエーションが、甘ったるくていい感じがする。 しかしなあ。エロ漫画の中でなら田中のこのピュアなセリフ群って映えるんだが、エロがない(あるいはメインではない)こういう漫画の中では気恥ずかしさがものすごく前面に出てしまうのはどうしてだろう。むずむずするよ。『愛人AI-REN』を読んだときもそれが耐えきれないほどのレベルに達していた。 結局作品としていいのか悪いのかどっちなんだよ、と言われるかもしれないが、そういうアンビバレントな作品なのだ。 (白泉社/2008.2.7記) |
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