いわしげ孝『単身花日』



 『ぼっけもん』はあれだけ気恥ずかしい要素をつめこんだ青春の物語なのだが、それでもやはり自分にとっての「20代前半〜中葉的青春」を美化ないしはデフォルメしたものだから、ぼくの心を深々とえぐる。前回書いたとおり、30代半ばの今読んでも「自分はなぜこの物語の一員ではないのか」というつらさでいっぱいになってしまう。

 ところがである。

 この要素を20代から引き揚げて、30代の半ば、まさにぼくのリアル年齢にもってきただけで、おどろくべき世迷い言に転化してしまうのはいったいどういうわけなのか。

単身花日 1 (1) この作品、『単身花日』は、決して「下手」ではない。読ませる。そして、部分的には心に響くものを持っている。しかしその核心――「初恋の残照をもう一度輝かせる」という部分は、ひどく気持ちの悪いものになってしまっているのだ。

 主人公の男性・桜木舜は37歳。東京にある住宅メーカーに勤め、妻と小学生の娘がいる。桜木はある日、小学生から中学生まで住んだことのある鹿児島へ単身赴任するのである。
 そして、ハンカチをある女の子からもらったというよく思い出せない記憶について冒頭に描き、それが鹿児島での初恋の体験だったということをやがて思い出すのである。

 いわば、主人公は「妻子ある家庭」(しかも桜木はその妻子に強い愛情をもっている)と「まっとうな仕事」という二つの堅実な現実のなかですでに生活しているのだが、その与件から出発して、「初恋の思い出」という非現実が、単身赴任という契機によって現実のなかに突如投入されるのである。

 物語は、地元で初恋の人だった桐野花に出会い、次第に「初恋の思い出」に現実生活においてのめりこみをはじめていってしまうというものだ。

 桜木のデフォルトは、年齢といい、境遇といい、ぼく自身のそれに非常によく似ており、正直自分の物語のようである。連載誌が『ぼっけもん』が載っていた「スピリッツ」ではなく「ビッグコミック」だというのも、まるで20代のぼくが『ぼっけもん』を読んでいたことからいまこうして『単身花日』を読んでいるということへのスライドにそのままかぶっている。

 これほど「ぴったり」した設定ゆえに、そう、それゆえに「これはまるで自分の物語ではないか」という感情をまず最初にぼく自身にいだかせてしまうのだろうと思う。

 だからこそ、ぼくにとってこの作品はダメなのである。

 桜木と一体になって「初恋の思い出」に心を揺らせばいいじゃん、と思うかもしれないが、そうはならないのだ。
 むしろこの作品の外側(2メートル上空ぐらいの位置)にいて、自分自身がいかに恥ずかしいことをやってしまっているかを眺めているような気分にさせられてしまうのである。

 おいおい、妻子も仕事もあるっちゅう「現実」のなかにいるのに、なに地元のショッピングセンターで初恋の同級生に会ってトキメキなおしてるんだよ! とか。

 だいたい、この桜木の妻子、とくにぼく的には妻であるが、その妻が「よすぎる」んだよ。
 桜木と妻はすでに小学生の娘がいるのに、いまだに「舜君」「ゆりちゃん」と呼び合うほどの仲のよさだし(もっとも今こういうカップルはふえているが)、夫の決断は尊重するし、だいいち美人でセックスをたくさんしてくれるし!

 不倫の自己弁護のパトスを見事に描いた(笑)こやまゆかりの『スイート10』でもやはり、夫や家庭に不満はない、それどころか「理想的」すぎる夫のように描かれる。「それでもなおそれを越えて燃え盛る恋情がある」ということを強調する演出なのだ。

 本作に出てくる初恋のころの花火の思い出にしても、ハンカチの思い出にしても、『ぼっけもん』であれば青春の輝けるエピソードとして読めるのに、本作のような環境に投げ込まれた途端にそれらは一つひとつ、ごろごろと転げ回りたくなるようなキザさ、気恥ずかしさになって返ってきてしまう。
 すべては現実を投げ捨てて、不倫にひた走るのではないかというみっともなさと結びついているからである。「おまえ、いくつだよ」というツッコミが頭をもたげてしまう。

 いわしげ孝がもし作品づくりのヘタな男であれば、もっとぼくは距離がとれたかもしれない。しかし、たとえば桐野と桜木が昔二人が学んだ校舎で夏の午後に、二人だけで会話を交わすシーンがある。

「桜木君、人生時計って知っとる?」
「人生時計?」
「年齢を3で割った数字が、その人の時刻なんじゃと。
 同僚に教えてもらった。」
「私達の時刻はお昼の12時半くらい。
 もう午後なんじゃね。」

 とかいうセリフに突然ぼくがドキリとしてしまうような「うまさ」があるのだ。そうかもうぼくたちは午後なのか……と急にしみじみしているぼくがいるのだ。つまりこんなふうな場面づくりひとつで、ぼくなどはある瞬間、ぐーっと作品世界に吸入されてしまうのである。

 そういう「うまさ」が、ぼくにこの作品にたいする距離をとらせてくれないのである。
 ゆえに、現実生活のすぐ脇で初恋という可燃材料を火にくべようとしている桜木の行動がものすごく「気持ちの悪い」ものとしてぼくに迫ってきてしまうのである。

 そして、この桐野の造形。

 髪を掻き揚げて耳を出す「色っぽい」しぐさ。
 「私ね、こないだ桜木君に会ってから、気持ちがずっと中学生モードなんじゃあ。だから、ついはしゃいでしまう。」などといって、口の前で手をあわせるように微笑むしぐさ。
 後ろから目隠しをするなどという行動。

 すべてがコケティッシュのかたまりのようなこの言動。うむ、リアルでやられたらどうなるかわからないというこわさはあるけども、「こういう動作一つひとつにからめとられている30代半ばの自分」というものにどうしても思いがいってしまって、ここにも気持ちの悪さが襲ってきてしまうのである。

 つれあいに読ませたところ、「いやぁ……これはひょっとして2巻で大どんでん返しがあるんじゃないの? この桐野さんがものすごい悪女だったとか。石原慎太郎の愛人だったとか」などと。つまりこのまま妄想全開みたいにはいかないのではないかという予想だが、仮にそうだとしても1巻を読んでいっこうにその気配がない。2巻でなにか用意しているにしても1巻であきれて読者が離れていってしまうかもしれないことを考えると、遅すぎるとぼくは思うね。

↑図1:『ぼっけもん』11巻p.151(小学館、旧版)
↑図2:『単身花日』1巻p.181(小学館)
 いわしげは、『花マル伝』の途中あたりから、表情の描き方が変わった。とりわけ「瞳」の描き方が。
 『ぼっけもん』後期に確立された少年漫画のような瞳、すなわち黒いベタではなく(図1)、目全体を覆うような瞳が描かれるようになり、しかもその瞳は単純な黒ベタではなく斜線を入れた、ほんのわずかなグラデーションがかかったものになった(図2)。

 よりリアルタッチになった、というふうにもいえるのだが、つまりはいわしげが少年漫画の手法と思想を捨てたことを意味する。ぼくはこの変化に違和感をもった。
 少年漫画のように直情径行さが後退し、表情や感情がぼやけて読めなくなったのである
 それはちょうど『ぼっけもん』のようなストレートさが消え、『単身花日』においては本当のこと(現実生活)を誤魔化しているのではないかというぼくの「読み」の気持ちに奇妙に重なってしまっているのである。

 しかも、女の方だけセーラー服にさせて夜の街を駆け出させるって……おまいら、現実と隣りあわせにした妄想もたいがいにしなさい! このくだりを読んでますます自分がそれをやっている/やらせている姿が想像されてしまい、「あちゃー」などと恥ずかしさで転げまわるしかないのである。







『単身花日 桜木舜の単身赴任・鹿児島』
小学館ビッグコミックス
1巻(以後続刊)
2007.5.17感想記
この感想への意見はこちら
メニューへ戻る