歴教協編『抵抗をどう教えるか』


 ぼくが出席してる自主ゼミで、ゼミが終わって会食をしている最中に、「フランスはなんであんなに共産党が大きい(大きかった)のですか」という質問が、左翼のぼくによせられました。
 フランスにもフランス共産党にもくわしくないのですが、「ぼくもよく知らないのですが。ただ、レジスタンスを中心的にたたかったというので、国民の信頼は絶大だったということはあるらしいですよ」と答えておきました。質問した人は、釈然としない様子でしたけど。

 その答えということではないのですが、本書を読むと、少なくともフランスでは共産党の存在なくしてレジスタンスというものがありえず、しかもそれが非常に広汎に国民に根をはって展開されていたということがわかります。

 本書冒頭にある「レジスタンスの形成と展開」という愛知淑徳短大の遠藤雄久氏のなかで、たとえば次のような一文があります。

「レジスタンスの運動はすべて地下での活動ですから、共産党の39年以来の地下活動の経験が貴重でした。共産党の人びとは、北部では最大の組織であった『国民戦線』の中核となり、南部でも先の『レジスタンス運動連合』に加盟する3つの組織のもっとも活動的なメンバーとして……あらゆるレジスタンスの行動の先頭に立って闘いました。したがってレジスタンスの闘いの犠牲者の多くが共産党員でした。ドイツ軍もヴィシー政府もレジスタンスの活動はすべて共産党の仕業だと宣伝しましたから、彼らの活動はますます困難になりましたが、この宣伝は一方で、国民の共感、信頼、尊敬を共産党に集めることにもなったのです」

 じっさい、犠牲となった共産党員たちの名前を冠した駅、通りがフランス各地に存在します。

 ナチは、レジスタンスにドイツ兵が一人殺されるごとに、すでに逮捕監禁している共産党員やそのシンパを50人、100人処刑するという報復に出ました。そしてその顔写真を街頭にさらしたのです。
 それは、おそらくフランス人たちに、ナチと命をかけてたたかっているのが何者であるかをはっきりとしめしたことだろうと思います。そこからフランス共産党への戦後の共感が生まれても不思議はなかろうと思います。

 フランス共産党はナチの占領によって指導部が壊滅していたのですが、多くの党員は「党の指令ではなく、個人の意思と信念に従って各地のレジスタンス組織に参加して活動しました」。
 ぼくは個人の力の限界を認め組織というものの力を信じる以上、「党の指令」というものがその間に介在したかしないかを問題にすることは馬鹿げた話だと考えますが(ここで遠藤氏は「党の指令」を書いているのはそれとは別の趣旨ですが)、組織が壊滅したあとに、そこに自立した諸個人が残ったというフランス左翼の質の高さに驚かされます。
 そして、ヴィシー政権の反共宣伝が、共産党を孤立させる方向ではなく逆に「共感、信頼、尊敬」として作用してしまうところも面白いと感じます。
 本書を読むと、いろんなレジスタンス組織がやられても、また別の組織が不死鳥のように生まれてくるという様子がよくわかります。民衆自身がレジスタンスに参加し、それを広汎にささえていました。となり同士にすむ家族が、解放前までまったく知らずに別々のレジスタンス組織にくわわっていたということもあります。 とくに、ドイツ軍のトラックキーを捨ててしまったり、にせの住所を登録するなどといった、“ささやかな”レジスタンスの存在は、無数の抵抗がフランス国土を被っていたことを物語るものだろうと思います。こうしたことは、反共主義を無力化させてしまう力が、左翼の中ではなく、社会の中に存在しているし、そこにしか存在しない、ということをよく物語るエピソードでもあります。


 本書のユニークさは、フランス共産党機関紙「ユマニテ」に連載された「知られざるレジスタンスの人びと」を、いわば“本中本”としてとりこんでいることです。

 なかでも心をうつのは、やはりレジスタンスに加わったために処刑された人たちの遺書でしょう。



 1942年5月30日、6時45分
 なつかしいお母さん、お父さん
 おふたりとも長いあいだ私の便りを待っておられたことでしょう。しかし、このような手紙を受けとろうとは予期されなかったにちがいありません。ご両親に悲しい思いをおかけすまいと、私も願っていたのですが……。
 私は、最後までおふたりに恥じることなく、また愛する祖国に価すべく生き抜きました。どうぞこれを信じてください。
 いうなれば、私は戦争のさなかで命を落とすこともありえたでしょう。あるいは、今夜にも爆撃でやられる可能性も考えられましょう。そして、このような必然性のなかから、ひとつの意義のある死を選んだことは悔いありません。ちょうどこの時期に、すべての国で数千人の兵士たちが毎日のように死んでいます。この人たちを巻きこんでいる大風が、私をも運び去ろうとしているのです。思えば、すでに2カ月来、私は今日の日を予期しておりました。ですから、この日にそなえて心の準備をととのえる余裕があったのです。神を信じない私は、自分の死を宗教と結びつけて瞑想にふけるようなことはいたしません。私は、いまの身分を、いわば地に落ちて祖国の土壌を培う木の葉のように感じているのです。
 土壌の質は、そこに散り敷く葉の善し悪しで決まります。いま、私はフランスの若い世代の人びとの上に想いを馳せています。そして、私のすべての願いをその上にかけているのです。
 なつかしいご両親さま。私はおそらくシュレーヌ刑務所(シャトー・ブリアン)に連れていかれるでしょう。もしおふたりが希望なされば、私の遺体をモンマルトル刑務所に転送させることができるでしょう。おふたりにこのような悲しみをおかけする私を許してください。この3カ月来、私はご両親の胸のうちを思いつづけました。喜びよりは苦しみをおかけすることの多かった私は、いままたおふたりをあとに残して立ち去ろうとしています。ともあれ、これまで生きがいある生涯を送ってきたことを思い返して、私はいま満足を感じているのです。
 つぎに、最後のお願いがあります。私の愛する女性にひとこと書き残します。遠からず彼女に会われる機会があると思いますが、その折には、おふたりの愛情で暖かく包んでやってください。これが私の心からのお願いです。また、打ちひしがれた彼女の両親にも心をかけてあげてください。
 この最後の数日間に、私はいろいろな空想を巡らせました。かりに私が釈放されたとしたら、家族でテーブルを囲み、おいしい料理に舌鼓を打つことでしょう。私がいなくても、これを実現してください。けれど、追悼の宴ではなくて、私たちがこれまで生きてきた日々の思い出の集まりにしてください。
 1冊の書物もないこの2カ月の独房生活のなかで、空想の旅行をし、いろいろな経験をこころみ、また食事をも楽しみました。そのうえ、小説を書く計画さえもたてました。
 そして、ご両親と兄弟たちへの、つきぬ想いを抱きつづけます。
 お父さん、お母さん、忍耐と勇気をもってください。心からそれをお願いします。

ジャック・デクール



 彼が処刑されたのは31才。ほぼ、ぼくと同じ年齢です。

 文中に、「祖国の土壌を培う木の葉」という言葉をみつけ、『きけわだつみのこえ』にある木村久夫の遺書――BC級戦犯としてシンガポールで処刑――を思い出しました。

「大きな歴史の転換の下には、私のような蔭の犠牲がいかに多くあったかを過去の歴史に照らして知るとき、全く無意味のように見える私の死も、大きな世界歴史の命ずるところと感知するのである」「日本がこれまであえてして来た数限りない無理非道を考える時、彼らの怒るのは全く当然なのである。今私は世界全人類の気晴らしの一つとして死んでいくのである。これで世界人類の気持ちが少しでも静まればよい。それは将来の日本に幸福の種を遺すことなのである」。

 ここには、ジャック・デクールの遺書のような輝きがありません。
 苦悩と諦念だけがあります。
 国家によって侵略戦争に動員されその結果として強制された「死」と、社会の人々に支えられその自由のために生涯をささげることになった「生」との、鮮明な対比があります。

 自分の一生というものを何に捧げるのか、なんのために燃焼させるのか、ということがここでは問われるのです。そのことをもっとも端的にあらわす詩が、本書にはさまれています。



      蜜蜂

                    ジャン・ポーラン

  よくこんなふうに言う人がいるのを私は知っている――
  「ほんの些細なことのためにあの人は死んじまったのさ
  さほどぱっとしない非合法の新聞だねにわずかな情報をかき集めるために
  なにも死ぬほどのことはなかったろうに……」と

  こんなことを言う人たちに私は言いたいことがある――
  「いや、この人たちこそがほんのささやかなその日その日のできごとを愛し
  生命に深い執着をもっていたのだ」と

  お前は、その掌のなかに
  蜜蜂を
  息絶えるまでに締めつけることができるのだ
  だが、蜜蜂は
  お前を刺さぬまま息絶えることはないだろう

  「たいしたことじゃないさ」とお前は言うかもしれない
  そう、たいしたことじゃないだろう
  けれど、もし蜜蜂がお前を刺さなかったら
  蜜蜂は
  もうずっと以前にこの世から姿を消していただろう


 外交官の「公務死」がありその「遺志」が自衛隊派兵であると読み替えられるいま、そして自衛隊がイラクに出かけそこで戦死者が出るかもしれないといういまだからこそ、なんのために自分が命や人生をささげるということが問われてしまうのです。


『抵抗をどう教えるか 第二次世界大戦下のフランスのレジスタンスと日本の反戦運動』
歴史教育者協議会編/トレ・ツヤ子翻訳協力
教育史料出版会
2003.12.22記

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