山岸凉子『天人唐草』


ネタバレがあります。



 怖い、というのが定評のこの作品だが、「面白い」が第一印象。まったく他人事状態。ぼくって、いやなやつ。

 主人公(岡村響子)は、厳格で古風な(封建的な)父親のもとで育てられ、ひかえめで大人しい「女の子」であるよう厳しくしつけられる。とりわけ「性に関することは時代遅れなくらいに厳しかった」。
 少女だった主人公が「イヌフグリ」(「犬の陰嚢」の意味)の花をみつけ、友だちに名前を聞く。しかし、なぜか「きゃー やだ!」と付け加える友だち。響子はなにが「やだ」なのか不思議でならない。食卓で両親に「イヌフグリってどういう意味?」と聞くと、母親は「天人唐草」という別名を教えようとするが、響子は納得せず、しつこく聞いてしまう。あげくに、父親から「響子! いい加減にしないか 女の子がそんな言葉を口に出すもんじゃない!」と怒鳴られる。この世の終わりのような衝撃をうける響子。

 響子は父を誇らしく思う一方で、その父からことあるごとに提示される女性像に支配されていく。思春期から成人になるまでに、響子は、植え付けられた女性像と現実との乖離に苦しみ続けるのだ。

 親の教えた価値観が呪縛や抑圧となるということそのものは、他人事ではない。
 清原なつのの作品への感想にも書いたのだが、とりわけ女性が受ける性の抑圧は、女性自身が社会のなかへ進出していくときに摩擦や軋轢、葛藤を内面に生み出す。

 ところが、この作品は、そのことを一つのモチーフとしながらも、なぜだか意地悪く主人公の人生の「外側」にぼくらは立っていることができる。

 「極端」だからだ。

 「どうしようもない友人や上司」の話をサカナにして「楽しく」酒が飲めるのは、その「どうしもようもないほどにダメダメな友人の生活や人生」と、自分の人生は決して重なることはない、という安堵感が前提になっているためである。
 「そんなに極端なことは、おれはしないだろう」というエクスセプト・ミーイズム。
 必ずしもその人生を、外にいる人は「笑って」見ているわけではないが、あくまで「他人事」である。まるで芝居をみているような「観客の興奮」があることは否めないだろう。

 響子は発狂するまでの30年の人生において、さまざまな岐路があったはずである。
 世の中の多くの人は、膨大に用意されたその岐路によって、どれか一つ「脱出」の選択肢を選び取って、親のゆがんだ抑圧や支配から解放されていく。たとえそれが激しい摩擦や葛藤を生み出すものではあっても。
 響子がその迷路から脱出する最大のチャンスは、職場の同僚である佐藤から指摘を受けたときだった。

「うまくやれないってことがなんでそんなに大変なことなんだい? 『なんでもうまくやれるすばらしい女だ!』とあんたいわれたいんだよね だれかに… 『だれかにそう見てもらいたい』それが“みえ”なんだよ  他人の目を…他人の評価を気にし過ぎるんだよ」

 山岸は、この佐藤の言葉に、ト書きをつける。

「それはまさに彼女にとって大事な一瞬だった」

 しかし、その後、父の言葉によって、この佐藤の指摘の効果は半減してしまい、響子はその問題をつきつめる機会を永遠に失ったのである。
 読者は、やきもきする。ドリフの「志村、後ろ後ろ!」状態
 それは決意されあれば、意志さえあればとびこえられる「小さな」障害のように見えるのだ。
 だが、響子は「目の前の小さな障害をどうしても超えられないでいた」。

 山岸は響子をこの迷路から絶対に出させない
 なんとも残酷なことである。
 決定的に残酷なのは、ラストの二つの事件であろう。
 山岸は、まず父親を亡くならせる。
 急いで駆けつけた響子が会ったのは、父親の愛人だった。母親がいた頃から父はその女性を愛人として囲っていたのである。「今 目の前にいるその女性は父が響子にこうあってはいけないといい続けた女性そのものだった」。父親が望んだ女性像は、父親が否定していたはずの女性像であり、響子は人生の基盤を失う。
 そして、うちひしがれた、弱くみずぼらしそうな響子を電車で見た見知らぬ男に、響子は強姦されてしまうのである。

 ひどすぎ。
 山岸糾弾!(ウソ)

 響子を奈落に突き落とす、けれん味のある派手な悲劇に仕上げているのは、まぎれもなく山岸凉子その人である。響子の人生に、共感する瞬間がないとはいわないが、これはそうやって自分の人生を重ねるようなドラマではない。
 作者によって創られた良質の“芝居”である。

 まるでソポクレスの『オイディプス王』のように、ラストにむかってすべてが必然のように流れていく。主人公はそこから出られないのだ。



朝日ソノラマ サンコミックス(現在絶版)
※現在、文春文庫―ビジュアル版から『天人唐草―自選作品集』として発売。
2004.10.18感想記
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