松井芳郎『テロ、戦争、自衛』




イラク戦争ではなくアフガン攻撃こそ考えておくべき問題

 アメリカという国家は、イラク戦争にかぎらず、国際法からみて「侵略」としかいいようのない先制攻撃戦争を戦後たくさんおこなってきた。それらが世界のルールからみてどのような位置にあるのかを推し量ることは、それほどむずかしい作業ではない。

 むしろ、「この戦争は正義の戦争である」という旗印の真贋が問われるのは、アフガン戦争のようなケースだろう。
 9.11の同時多発テロをきっかけに、アメリカを中心とする多国籍軍がアフガニスタンを攻撃し、いまなお戦闘がつづいている、あの戦争である。

 この戦争(武力行使)は、次のような大義名分をもった。

1)テロにたいする自衛の戦争
2)国連が認めた武力行使

 逆に言うと、イラク戦争はこのふたつの要件をどちらも欠いていた戦争であった。



コトをわけて論じていく明晰さ

 本書はサブタイトルに「米国等のアフガニスタン攻撃を考える」とあるように、この事件を研究ケースにして、問題の腑分けをおこなっていく。そう、まさに法学者らしい「腑分け」だ。「分別」という言葉があるように、コトを分けて論じていくだけで、問題はすっかり明らかになってしまう。

 全体は5つの章にわかれている。

1 国際社会はテロに対してどのように対処してきたか
2 テロに対して自衛権は発動できるか
3 安保理事会はアフガニスタンに対してどのような態度をとってきたか
4 被疑者をどのように裁判し処罰するのか
5 対アフガニスタン攻撃は世界秩序をどこに導くか――結びに代えて

 冒頭のぼくの問題関心とのからみでいえば、核心は「2」にある。
 この章は6つの節にわかれている。

(1)テロが国内法上の犯罪であることの意味
(2)テロリストを「かくまう」国に対する自衛権行使
(3)国の領域使用の管理責任
(4)対アフガニスタン攻撃は(2)の前提条件を満たすか?
(5)国連憲章第五一条の「武力攻撃が発生した場合」という要件
(6)慣習法上の自衛権



テロは国内犯罪――国際犯罪ではない

 (1)は、実は前章でくわしく解説されていることを前提にしているのだが、テロは本来の意味での「国際犯罪」ではなく、「条約が定める国内法上の犯罪」(p.11)なのである。これが国際社会での現段階での合意である。
 したがって、「現代国際法では国際関係における武力行使が禁止されており、この禁止に違反する違法な武力攻撃に対抗するためだけに自衛権の行使が合法とされる、つまり自衛権は違法性阻却事由ですから、そもそも国際法主体ではない、言い換えれば国際義務の違反を犯しようがないテロ集団の攻撃に対して、自衛権を持ち出すのは場違いなのです」(p.21〜22)。
 テロとたたかうために、国内で軍隊を動かすのもけっこうだが「自衛権」を持ち出す必要はない、と松井はのべる。

 (2)は、もう忘れてしまった人もいるかもしれないのでおさらいしておくが、アメリカは「オサマ・ビンラディンをかくまっている」という理由でアフガニスタン政府=タリバンを攻撃したのである。
 ここで松井は3つに場合わけをしている。

(A)テロ集団がその国の命令や支配のもとに行動している場合……この場合はその国の行為になる。しかし、要件があるのだ。これは国際司法裁判所が「ニカラグアのコントラ(反左翼政権ゲリラ)にたいするアメリカの援助」のケースについておこなっている判断があると、松井は指摘する。つまり一般的な援助だけでダメで、かなり直接にその国がテロ集団を指揮・命令していないとそうはいえない、と判断したという。
(B)テロ集団の行為をその国が認知し採用した場合……これもその国の行為になる。国際司法裁判所はテヘラン事件でこの考えをとった。米国人を人質にした事件で、イラン政府は犯人たちの行動を認めて、行動させた、つうわけである。
(C)テロ集団の行為に国が実質的関与を行う場合……「実質的関与」つうのがわかりにくいが、「正規軍による武力攻撃に匹敵するような重大性を有する武力行為を他国に対して行う、そのような武装集団」(p.28)の行動のようである。ただし、兵站や武器支援などはふくまれない。

 この3つなら、ただのテロではなく、国家がおこなう武力行使とみてもいいというわけである。で、それにたいする「自衛権発動」も射程に入ってくる。

 (3)は上の3つのケースよりももうちょいゆるやかなケースである。
 つまり「いや、テロリストをかくまってそいつらの武力を使って攻撃してやれなんて考えないけども、テロリストたちがその国の国土を自由勝手に使ってテロリストの楽園みたいになっている」というケースについてである。
 これについては国連総会決議「友好関係宣言」(1970)で、そういうことには使わせてはいけない、と定められている。同時に、じゃあ、管理責任をはたさなかったらどうなるかというので、相手が管理ルールを守ってないんだから、こっちもルールを犯して武力をつかっても「武力行使の違法性は阻却される」、という考えをしりぞけている。これは「対抗措置」「復仇」と呼ばれる行為である。
 この場合、武力での「対抗措置」はとってはいけないとされているのだ。

 (4)では(2)にもどって、(2)で考えたような3つのケースにアフガンはあてはまるかどうかを考える。
 (A)ビンラディンとアルカイダは真犯人か……そりゃ真犯人だろうと思う人も多いだろうし、ぼくもほぼそうであろうと思うのだが、根拠となる「証拠」としてかためられていない、というふうに松井はいうわけである。
 (B)テロはアフガン国家の行為といえるか……これも根拠となる「証拠」としては形をなしていない、というのが松井の主張である。
 「というわけで、そもそもタリバーン支配のアフガニスタン国家に対して自衛権を発動するための前提条件が欠けていると思われます」(p.34)。
 しかし、松井は、仮にこの条件がクリアされたとしてもまだ自衛権発動の要件はそろわない、という。なぜか。それを(5)で解きあかす。



自衛権行使しえない松井があげる4つの理由

 (5)で、自衛権行使たる武力行使はおこなえないとする理由を松井は4つあげる。

(イ)国連は集団安全保障の精神をもっている。安保理が動くまでのあいだ、例外的に認められるのが個別国家の自衛権だが、安保理はなんもしていない。
(ロ)武力行使以外の「代替的措置」をとることがまだいろいろできたはずではないか。3章でみるような経済制裁とか。
(ハ)自衛権つうのは、「わ、いま敵が攻めてきている! 防がなきゃ!」という「緊急性」をもって発動されるのだが、たしかにビルに飛行機はつっこんだもののもう攻撃はおわって4週間もたっていた。
(ニ)「先制的自衛だ」という議論にまで米国がつっこんでいったらどうなるか。つまり「第二第三のテロ攻撃を許さないためなのだ」。しかし、憲章51条は実にはっきりしていて「武力攻撃が発生した場合if an armed attack occurs」と規定しており、これもしりぞけられるのである。
 なお、この件は「ミサイルに点火したら相手の基地を攻撃してもいい」云々という議論との関係もあるので、松井がここでどう論じているかをくわしくみておくのも悪くないだろう。

「百歩譲って、武力攻撃が実際に発生しなくてもその恐れが客観的に証明されれば自衛権の発動ができるという議論は可能かもしれません。……自国に向けた武力攻撃の差し迫った危険性が客観的に証明されれば、国境を越えて爆弾が落ちてくるまで待たなくても自衛権の発動はできるという理解は不可能ではないでしょう」(p.41〜42)。

「しかし、すでにテロ攻撃が行われたという事実は一般的には再度の攻撃の危険性を予測させるものではありますが、米英の書簡も、より詳細な英国政府の報告書も、九月一一日のようなテロ攻撃が再び行われるという差し迫った危険を客観的に証明しているとは、とうていいえないのです」(p.42)


 ここまで見てきて、現行の国連憲章的法秩序のもとでは、自衛権戦争を証明だてることは無理だということになり、あとは「慣習法上の自衛権」という論理が残される。これが(6)である。これについては省略する。


 さて、以上は、「1)テロにたいする自衛の戦争」という口実を分析したものである。
 もうひとつの口実、「2)国連が認めた武力行使」という点はどうだろうか。



「国連の許可は得た」という議論を検討する

 これをくわしく検討しているのが第3章「安保理事会はアフガニスタンに対してどのような態度をとってきたのか」で、そのうちの第2節「安保理事会決議は武力行使を認めたのか?――九月一一日以後の諸決議」がそれにあたる。「少なくとも安保理事会の許可があれば武力が使えるという意見は、現在では相当の支持を受けています」(p.55)。

 松井の結論は、次のようなものである。

「安保理事会は今回のテロ攻撃に対して自衛権を発動することを認めたのだという見解は、決議一三六八と一三七三の前文が個別的・集団的自衛権を確認していることを根拠にします。しかし、法的拘束力のない前文で、しかも憲章が明文で認めていることを一般的に再確認したことをもって、本件のテロ攻撃に対して自衛権の行使を具体的に承認したものと解釈するのは困難だと思われます」(p.57)

 松井は、ドイツのマックス・プランク研究所の研究員カルステン・スターンの見解を紹介する。
 すなわち、

イ)武力攻撃があったとは決議は言っていない
ロ)自衛権を行使する国も責任者も明示していない
ハ)タリバンの行動が武力攻撃に当るとは言っていない
ニ)今回のテロ攻撃はアフガン領域から直接おこなわれたものではない

 ゆえに、米国などに武力行使を認めた決議ではない、としている。

 松井は次の項でその見解を具体的に解析していくのだが、決議本文が近くにないので、何を言っているのかわからない。ここまできて台無しだと思うが、このスターンの結論だけでも根幹はつかめる。

 けっきょく、松井は米国などのアフガン攻撃は国際法上の根拠がないと結論づけている。



国際法が予定している世界は明快である

 こうやってみてくると、現在の国際法というのは、その論理だけみれば非常に明快で、何がいいのか、何がいけないのかということが武力行使に関する限り、かなりハッキリとしてくる。松井の論理の明解さは、彼の能力もあるが、あつかっている対象(国際法)そのものが明快なのだ
 ぼくらが日常口の端にのぼらせるような俗な戦争観とはまったくちがった世界をもっていることがわかる。

 軍事力信仰派は、たとえば石原慎太郎のように、“法で定めれば台風がよけてくれるわけじゃないように、戦争だって「攻めてこないで」といったって攻めてくるやつは来るんだ。国際法なんか信用ならん”といっている。
 人災である戦争を自然現象の台風に喩えたところが石原の浅はかさであるが、それはさておき、国際法がしばしば侵犯されているという現実はたしかに存在するわけである。たとえば何よりもアメリカがそうである。

 しかし、おおむね国際社会、とくに国家間では武力行使にかんするかぎり、このルールが守られているという現実もまた他方にある。
 この薄いパンフレットを読むと、そのルールの世界がどのような論理で構築されているのかという一端がみえてくる。厳格で明快なルールが存在し、それにそった国際的な努力も多く払われていることを考える時、日本はそのルールの強化と現実化にこそ奉仕しなければならず、まちがってもそれにそむく某国の先制攻撃戦略にうかうかとくっついていくようなことがあってはならないということがわかるだろう。

 薄いパンフレットであるが、ある種の「世界」をのぞかせてくれる。