| C.タウンゼンド『テロリズム』 「テロに屈せず派兵する」――この小泉首相のレトリックに対抗して、ぼくは「テロに屈せず、断固派兵を中止する」という意見を、あるML(メーリングリスト)になげた。その投稿の中で、「テロの根絶」についてもふれた。 ところが、そのMLでは、基本的な部分では賛成(テロは許されない)をしながらも、違和感を表明する投稿があいついだ。 ぼくは、くり返し、アメリカの侵略戦争と不法占領がすべての根源であり、この解決こそがもっとも効果的なテロ対策であり、それをぬきの「テロ対策」など欺瞞でしかないことを表明した。 にもかかわらず、違和感の表明はつづいた。(くわしい議論はこのページの末尾) たぶん、「テロの根絶」というスローガンが、あまりに「反テロ」をかかげるアメリカ側に親和的のように感じられたのだろう。 あるいは、あまりに無邪気なスローガンのように聞こえるのだろう。「テロは悪いからやっつけろ!」式に。これは基本的に軍事的方法はとらないとのべても、そう聞こえるらしい。 あるいはまた、「テロ」という呼称がラベリングであり、正当な抵抗運動もこのように呼ばれて弾圧されてきたことを頭の隅にいれている人々にとっては、これまたぼくの言い分がナイーブすぎるように思われたにちがいない。ぼくは自分なりにテロの定義をしたつもりだが、くり返しテロの定義を迫られた。 なかには、テロリスト組織が政治部門をもって、民衆に根をはっていることを強調する人もいた。 ここには、運動の側が克服しなければならないメンタリティーの問題が如実に現れている。 C.タウンゼンドのこの入門の1冊は、ページの大半は、テロリズムの歴史を俯瞰するもので(タウンゼンドはイギリスの歴史学の教授である)あり、じっさいのところ、ぼくはそれにはあまり大きな興味をしめせなかった(学者的でわかりにくい)。 200ページほどある本書で、ぼくが実践的に役立ったのは冒頭数ページの、「テロリズムの定義」についてのタウンゼンドの簡潔な表明である。解説で訳者の宮坂直史も「テロリズム研究者にとって、テロリズムをいかに定義付けて、他の暴力(戦争、紛争、叛乱、抵抗、犯罪)と峻別し、その自律的な概念を構築するかは腕の見せ所である」としているが、タウンゼンドは「武装した者による非武装の者への暴力」だとのべる。 これは、日常いわれるところの「一般市民や文民へのテロ」「無差別テロ」というふうにいえる。 ぼくにたいしてMLで表明された違和感の一つは、この「テロリズムの定義」をめぐる問題からきている。定義をしつように要求してくる人は、国際政治の舞台でテロ/テロリズムをめぐる定義が長年にわたって混乱してコンセンサスがとれないことをよく知っているのだと思う。とりわけ、抵抗運動、軍事闘争とテロとの境がはっきりせず、それがたとえばアラブとアメリカとの対立点のひとつにもなっている。 だが、軍人や軍属への攻撃は、その是非はまったく別にして、ぼくはテロ/テロリズムにはふくまれないと思う。少なくとも、イラクのように、いまだ戦争状態にある国で、軍人への攻撃は単純に「テロ」「テロリズム」だとはいうことはできない。 しかし、非武装の文民や一般人にたいしては、それは明らかに「テロリズム」だといえるし、そのことはどのようなことがあっても許容されない、根絶されるべき「犯罪」である(テロリズムは戦争行為ではなく犯罪行為であると考える)。 この点にかんして、ぼくの投稿にたいする批判者の一人は、敵対国の一般人や、政府人(文民)は、たとえ非武装であっても、占領への加担者ではないか、という論点をもちだす。 タウンゼンドは、この問題について、「非戦闘員は必ずしも『無関係の人(イノセント)』ではない」とのべて、ナチスとドイツ市民の関係についてふれる。しかし、タウンゼンドは、テロの効果の問題から話をすすめていって、やはり軍人への攻撃とは区別されるとして、「標的になる者は客観的な意味においてイノセントではないだろうが、現実的には無防備(これを「ソフト・ターゲット」という)にちがいない」とのべる。そこから「テロリズムの本質は、武装した者による非武装の者への暴力の行使である」という規定にすすむのだ。 無差別におこなわれるテロリズムにたいして、対抗運動の側は一点のくもりもなく、「ノー」をいわねばならない。そして、その「根絶」をめざさねばならない。ぼくの参加しているMLの参加者の一部には、正直、このことへの躊躇が存在するように思う。これは対抗運動にとって、致命的で破滅的な傷となるだろう。 そしてこのメンタリティー(テロリズムへの薄らとしたシンパシー)は、たとえばパレスチナのように、日本人である自分自身はその現場にいないことの「良心の呵責」をもって、合理化されてしまうことがままある。「苛酷な現場にいない者が、それ以外に訴える者を持たない現場の人々に、『テロ根絶』などといってはいけない」などという論理で。 こうした言葉はアラブの事態にたいして発せられる場合、ある種のオリエンタリズムといえるであろう。 E.W.サイードは、つぎのように言う。 「たとえわたしたちが植民地入植者に略奪され非人道的な集団懲罰を受けているとしても、わたしたちの中の何人が、自爆作戦はすべて不道徳であり間違っていると非難したであろうか? わたしたちはもうこれ以上、自分たちになされた不正義を盾にとってその裏に隠れていることはできない……一瞬なりとも、無差別な殺戮をいとわぬような人々の戦闘行為(狂気の沙汰である)を容赦したり、支持するようなことがあってはならない。この点においては、これ以上曖昧さを許す余地はいささかもない」 (サイード『戦争とプロパガンダ』)
MLでの議論をくわしく知りたい人のために http://www.freeml.com/message/chance-forum@freeml.com/0016868 チャールズ・タウンゼンド著『1冊でわかる テロリズム』 |
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