伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』




テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ 本書は、漫画表現論、あるいは漫画表現史の方法論であり、なおかつ、それ自体が一種の漫画表現史になっている(後述)。



内容の乱暴な要約――漫画のモダン=手塚にしばられるな


 本書の内容を乱暴にまとめると次のようになる。
  1. 90年代後半に「漫画がつまらなくなった」という言説が漫画評論家などのあいだでふえはじめる。しかし、それはそう言う評論家たちが、漫画に「人間」や「内面」や「物語」といった「モダン」なもの、もっといえば近代的なリアリズムを基準にみようとするからで、そうしたモダンなものがない漫画、ポストモダンな漫画が読めなくなったせいだ。
  2. もともと漫画は、独特の存在感のある線の束で表現されるもの(キャラ)をもち、それが近代的な「内面」や「物語」をかかえこんであたかも実在の身心をもつかのような人間としてうけとられるようになった(キャラクター)。しかし80年代後半以降、「内面」や「物語」から遊離した「キャラ」は自律化した。「大きな物語」という近代の世界像が終わり、データベースにもとづく世界像に移ったことに照応している。
  3. 「キャラ」は近代の端緒だが、「キャラクター」の成立によって漫画のモダンは本格的にはじまる。それは手塚治虫をひとつの画期としている。手塚漫画は、「キャラ」(つまり線画的で記号的)でありながら、死にゆく身体と傷つく心を宿したリアリズムの「キャラクター」を描くことで、「キャラ」性が(存在しつづけているのに)隠されてしまった。
  4. ゆえに手塚を「漫画の起源」として見い出そうとする態度は、漫画のモダンにしばられていくことになる。つまりキャラクターの「内面」や「物語」や「人間」を論じることに終始し、そこから出られない。これが漫画の表現史をかきえなかった根源にある。そこから解放されることで開かれた表現史は可能になる。


 そして、これと一体ではあるが、やや独立したテーマとして、漫画を映画のメタファーで論じる態度がとりあげられる。

  1. 手塚登場の衝撃を「映画的」だったとする評論がある。じっさい、漫画はカメラの存在を意識し、「映画的」リアリズムを導入し、発展させてきたが、漫画は「映画的」なものではおさまらないギミックをもっている。映画のカメラのフレームにあたるものが漫画ではページかコマかはっきりしない、という不安定なものにさらされている(フレームの不確定性)。漫画における「映画的」リアリズムは、線画である「キャラ」がもつリアリティを隠すとともに、このフレームの不確定性をも隠してしまった。そのことに気づかない評論家は、「映画的」なものを漫画にあてはめようとして、しばしば右往左往している。ここでも漫画は、自律した表現としてとらえられてこなかった。

 この(a)の問題は伊藤の立論にとって大事な幹であるが、いまいったとおり、もっとも太い幹からを考えるうえでは、少し脇においておいていいだろうと思う。




キャラとキャラクターの区別


 (A)〜(D)のなかで、本書を読んでいない人にわかりにくいのは、「キャラ」「キャラクター」であろう。そして、これが伊藤の立論の核心であるとぼくは思う。
 伊藤は「キャラ」と「キャラクター」を区別する。
 「キャラ」はただの「絵」ではない。線画などで描かれ、固有の名前をもち、「人格・のようなもの」として生命感・存在感をいだかせるものだという。
 そして、「キャラクター」のほうは、「キャラ」の存在感を基盤にして、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその人生や生活を想起させるものである。そして「キャラ」を「プロトキャラクター態」、つまりキャラクターになる前のものという扱いをする。
 伊藤はこういうふうに直截に(あるいは短絡に)言ってないかもしれないが、キャラがキャラクターになる場合、少なくとも80年代後半までは、それは背後に人生や人格や物語を背負わされ、「生身の身体と内面をもった人間」として変化させられるということを意味した。それは近代的リアリズムの線にそって、キャラがキャラクターになるということである。
 
 伊藤は、『NANA』を例にあげ、この作品が「キャラは弱いがキャラクターは立っている」と評価をうけている話を紹介する。そして、『NANA』にたいしては、キャラクター=登場人物を実在の人物のように扱い、それを評論するという、評論家の態度をあげる。

 キャラはある意味でプロトキャラクター態であるが、同時に、テクストから自律し、また複数のテクストを横断できるほどの「強さ」をもっているとする。これはすでにキャラクターとして立てられた後でも、キャラは充分自律しうることを意味する。
 そこでぼくらが思い出すのは、「パロディ同人誌」などの二次創作や、80年代以降の、キャラと戯れる態度である。ここではすでに近代的なリアリズムの方法は通用しない。データベースにもとづいて至極小さな物語を各人がつむいでいくという世界像にぴったりだ。

 あともう少しだけ伊藤の引用をして、ぼくの感想に移りたい。



“80年代漫画の近代的リアリズムは一定の達成をみた”


 伊藤は次のようにのべている。

「そこで目を八〇年代以降に戻せば、人々は、マンガの『読み』の快楽において『キャラ』のレヴェルを中心に自足できる群と、テクストの背後に『人間』を見てしまう、つまり『キャラクター』としてしかマンガを読めない群とに分かれることが見てとれる。……中略……おそらく、『キャラ』のレヴェルの読みが可能な前者の群は、『キャラクター』としての読みも可能としており、テクストの種類や機会に合わせて自在にスイッチングを行っているように見える。一方後者の群は、『キャラ』のレヴェルの読み、すなわちテクストの背後に『人間』を見ないという読みはまったくできない(か、していたとしても強く抑圧し、意識化しない)ようである」(p.118)

「マンガの近代的リアリズムの『獲得』は、劇画―青年・少年マンガ、少女マンガの両者とともに、おおむね八〇年代後半までにはぞれぞれ一定の『達成』を見てしまった後に、その蓄積のうえに描かれることになる。それはあたかも開拓すべき余地がなくなった『かのように』見える事態である。……中略……しかし、事態はそう単純ではない。マンガ表現は決して近代的リアリズムだけで成立しているものではないし、またこの『達成』以後、マンガにとって強く影響を及ぼすものの在り処が、それまでの文学や映画から、キャラクター表現全体、とりわけマンガそれ自体へとシフトしていったのである。つまり、『マンガはつまらなくなった』言説や気分とは、ひじょうに素朴で無自覚な近代中心主義に根ざすものに他ならないのである。もっといえば、近代的リアリズムの枠にうまくはまらない、『別の』リアリズムを持つはずのマンガに、形の違う枠をはめ続けてきた結果である。さらに、これら近代的リアリズムの獲得が一定の『達成』を見た後、いったんは隠蔽した『キャラの持つリアリティ』が再び大きく浮上してくるのは、やはり必然といっていい」(p.236)



夏目たちの方法を批判的に継承


 伊藤は「あとがき」で、本書を書くにあたり3つのブレイクスルーがあったとしているが、そのなかでもぼくがポイントとしてみたのは、前述のとおり「キャラ」と「キャラクター」の区別である。その理由は、これが伊藤が漫画と漫画批評の「近代」を批判する(モメントに落とす)理論的なテコになっているとぼくが考えたからである。


 この問題は、これまで漫画批評のなかではもっと別な形で提出されていた。
 たとえば、夏目房之介は次のように書いている。

マンガはなぜ面白いのか―その表現と文法「マンガというのは、それを読んで受け取る話(ストーリー性)だけで成り立っているのではないのです。もしそうなら、作品のお話のもつテーマや意味を語ればマンガを語ったことになります。実際多くのマンガ評論がテーマだけを論じがちですが、私にいわせればそれはマンガを批評したことになりません。マンガのストーリーを、ある作家固有の作品として成り立たせているのは、一つには絵の描線の質なのです」(夏目『マンガはなぜ面白いのか』p.28〜29)

 これは、ストーリーやテーマだけでなく、漫画固有の表現をえぐらなければ漫画の面白さはわかりませんよ、という主張であり、問題は「モダン/ポストモダン」という形では提出されていない
 だが、ストーリーやテーマという問題は、登場人物の「内面」や「人間性」といった問題と深く結びついている。あるいはとても親和的な問題といってもよい(テーマやストーリーで語る、というのは文学の方法と親和的ともいえる)。夏目が相手をしていた「テーマだけを論じがちなマンガ評論」とは、伊藤が指摘した漫画・漫画批評の「モダン」の最も先鋭的な部分であったといえる。

 しかし、問題は夏目が想定したような場所では終わらなかった。ここからは伊藤のいっていることではなく、ぼくの推測になるけども、夏目のとりだした漫画表現論も、読んでいくと、描線やコマがどのように近代的リアリズムの効果をあげるに資しているか、あるいは内面をどう表現しているか、という「モダン」に終始している。
 他方で、竹内オサムのような評論家が、映画を参照した形で漫画を論じている。

 伊藤の念頭には、夏目をして、依然として表現論が「モダン」を離れられないということ、そして映画の方法で語られる漫画は、「マンガが自律した表現としてとらえられてこなかったことと等しい」(p.248)という事態を意味していること、などがあったのではないか。

 伊藤は、「本書では、主に夏目らの『表現論』の延長にある方法を考えている」(p.12)とのべ、自分はシステム論的(これはぼくにはよくわからない)に語るのだ、といっているが、夏目などの方法を受け継ぎつつ、その枠を大きくこえるには、夏目でさえとらわれている「手塚という漫画の近代」をのりこえる必要があったと感じたのであろう。




壮大な理論体系として登場した


 この結果、伊藤が提出したものは、手塚をマンガの本格的近代として描くとともに、その端緒である先行的な漫画群(大城のぼるなど)、「切断線」としての「ぼのぼの」、そして、「ポストモダン」の状況のなかでの現在の漫画群(「鋼の錬金術師」「GUNSLINGER GIRL」「のらみみ」)、「ポストモダン」のなかで「モダン」をひきつぐ漫画群(「PLUTO」)などを論じ、その間に、劇画・少女漫画・大友克洋らを射程に入れてしまう。ぼくが冒頭に、本書が一種の「表現史」になっているといったのはこの意味であり、あらゆるものをモメントに落として壮大な体系のなかに組み込んでしまうというあざやかさは、見事である。

 たとえそれがいまだどれほど荒削りなものであろうと(たとえば「切断線」は本当に「ぼのぼの」なのか、とか)、本書は理論としての使命をよく果たしている。伊藤がしめした理論そのものの妥当性は今後検証されなくてはならないのだが、伊藤は、ある世界観の批判をするときに、ただの「いちゃもんつけ」におわらせず、別の壮大な体系をしめし、相手をそのなかのモメントに落とし込んでしまうという真の意味での「批判」の姿勢を示した。これぞ理論、ザ・理論である

「体系を持たぬ哲学的思惟はなんら学問的ものではありえない。非体系的な哲学的思惟は、それ自身としてみれば、むしろ主観的な考え方にすぎないのみならず、その内容から言えば偶然的である。いかなる内容にせよ、全体のモメントとしてのみ価値を持つのであって、全体をはなれては根拠のない前提か、でなければ主観的な確信にすぎない」(ヘーゲル『小論理学』上p84〜85岩波)



漫画のモダンは終わっていない


 いまのところぼくがいえることは2つである。

 ひとつは、「マンガのモダン」の「終わり」とはとうていいえないことである。

 伊藤は必ずしも明示的にそのようにはどこでもいっていないはずではあるが、あえてそのことをクギをさしておきたい。
 かつて左翼の業界では「前衛党神話」というものがあったとされ、ある時期「前衛党」があらゆる知的権威の頂点に立っているという状況が終わったといわれ「前衛党神話の解体」と叫ばれたものだが、その謂いと同様に、一元的状況ではなくなった、ということを意味するなら、たしかに80年代以降「テヅカ・イズ・デッド」な状況ではある。つまり近代的リアリズムの枠では収まらない「まんが・アニメ的リアリズム」(p.273)とでもいうべき新しい状況が広がった。手塚の「あまりの巨大さが、『戦後マンガ史』をすべて回収してしまうかのような」(p.248)状況は、終わったといってよい。
 しかし、漫画のモダンは太く続いている、というのがぼくの見解である。近代的リアリズムの枠で活写される漫画群は日々大量に生み出され、人々に読まれている。
 手塚をなつかしみ、「漫画は面白くなくなった」という評論家の存在についていえば、一つは手塚のあまりの巨大さであり、もう一つはただのジジイ化である。左翼業界でいえば、マルクスという巨峰が存在し、その影響が長く続き、現在でも「生きている」とするのはぼくも同意するが、そこから退嬰的な態度に陥りマルクスから一歩も出ない、昔の運動や理論をなつかしむという人種によく似ている。それだけのことである。

 なぜわざわざこのことをいうかといえば、たとえば朝日新聞に載った中条省平の本書の評で、「近代的な自己表現としての物語の終わり」ととらえ、「萌えを誘発するキャラがマンガ固有の魅力だとするならば、私はこの魅力とともにマンガの未来に行くことはできないな、と」さびしがるむきがあるように、「マンガのモダン」の「終わり」だととらえる見解は必ずうまれるからである。

 また、伊藤が参照している東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社)でも、一般社会では、近代のなかに徐々にポストモダン的な状況が現れ、1989年にポストモダン社会に移行するとされているからである(引用図参照、同書p.105より)。

 こうした見解は、ポストモダン的な状況の部分だけを不当に拡大視して、その部分だけを切り取った世界像にしていることによって生じるとぼくは考える。東の同書を読んでも、ネットやメディア周辺の消費行動の話だけが目立ち、ぼくが日々接しているような人々の「モダン」な日常は、どこにもない。「モダン」が太く現実世界の基底を支え続け、その上澄みで「ポストモダン」な状況が起きているということにあまりに配慮がない。
 ちなみに、東が89年という「ベルリンの壁崩壊」や東欧の変革を「大きな物語の終焉」=「ポストモダン」の時代としているのは、もともと「大きな物語の終焉」というモデルが、実際には対抗的世界観であった「社会主義」の崩壊に大きなインパクトを受けているものだと考える(もちろん、こうした発想はもっと以前からあったものだが、ソ連型「社会主義」の信頼が凋落していくのと歩を合わせて大きくなっていき、89年はそのカタストロフィーであったにすぎないが)。つまり対抗運動のなかでの絶望感や諦念が屈折したにすぎないと思っている。
 一般社会でも、漫画においても、「モダン」はまったく終焉しておらず、日常の太い基幹部分で今日もまた作動しつづけているのである。

 ちょっと話がそれたけど、つまり、近代的リアリズムの漫画はこれからも大手をふっていくし、手塚的なものも生産・再生産され続けるだろうということである。ポストモダンな漫画はあくまで「部分」だしこれからも「部分」でありつづける。なぜなら、資本制が克服されぬかぎり、近代は続くからであり、近代が続くならその中では人間は「葛藤=ドラマ」を紡ぎ続けざるをえないからである。




伊藤の理論を使い、『テレプシコーラ』を解析


 本書(伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』)を読んで感じたふたつめは、伊藤がつむいだ「表現史」の枠組みをそのまま使うかどうかは別として、少なくとも伊藤がここで使った「キャラ/キャラクター」という理論装置は面白い、使える、と思ったことである。
 これについては、ちょっとイタズラ的に「理論実験」をしてみることにしたい。

 山岸凉子の「絵がうまいかヘタか」は、かつてNHK「BSマンガ夜話」で議論になり、いしかわじゅんなどが「ヘタだよ」と一刀両断したことがある。
 ぼくも「ヘタ」だと思う。
 ところが、ぼくのつれあいなどは「山岸凉子はうまい。あんたはまったく漫画を見る目がない」と激しく批判する。

 夏目房之介は、『マンガはなぜ面白いか』のなかで、山岸凉子の『日出処の天子』を論じ、主人公の廐戸皇子の表情について、「いくつか選んで並べてみると、これが同じ人物かと思うほど異なる表情をもっています。[図2―3]群は若い頃の顔ですが、ニュートラルで美しいが何を考えているかわからなあい不気味な無表情と、不動明王か興福寺の阿修羅像のような忿怒の表情があります。……中略……ここでも眉と目の湾曲が描きわけられて表情の差をつくっています。上向きに湾曲する線でにこやかな無表情を、下向きに湾曲する線で高揚を表現しています。細くこまかい線分の位置関係で微妙な印象をつくっているのがわかります。また口と鼻の距離がほんの少し違っているのも、不気味な表情の質の違いをつくっています。……中略……こうした微妙な表情の描きわけが、廐戸の人物造形としてこの作品の物語の面白さを支えているわけで、たんに話が面白いといってすむものではないということです。山岸凉子という作家の絵の個性は、こうした微妙に描き込まれた細いきちんとした線に宿っているわけで、その描線の質が作品の話、テーマを表現しているわけです」(p.31〜32)とのべている。

 つまり、山岸は、絵画的にはヘタであると思うのだが、内面や心理を表情にのせて記号化する高度な技術をもっており、まさに生きて動いているような「キャラクター」として立ちまくる術をよく知っているのである(キャラとキャラクターの区別についてはここ参照)。「内面」を搭載できる力量をもっていることによって、「うまい漫画の絵」に変貌するのである。山岸のうまい/ヘタの極端な評価の揺れはここに由来している。
 さらに描線とは別に、山岸のストーリー展開やコマづくりなどは、どんなスットコドッコイの絵の登場人物であっても、立たせることができる。夏目は別のところで、山岸が描く脇役のあまりの「いい加減」な造形をからかったことがあるが、にもかかわらずキャラクターがちゃんと立つ。立ちまくるである。

↑怒る千花。内面を搭載するにふさわしい山岸の描線だ(山岸凉子『舞姫 テレプシコーラ』7巻、メディアファクトリー、p.185)
↑まだキャラ=前キャラクター態の本間部長。トレパンはトーンが貼っていない。上の千花のタッチとまるで違う(前掲書p.27)
↑他のモブからは抜きん出た本間。トレパンにはトーンが。しかし、主人公である六花(手前)ほどには色がついていない。(前掲書p.62)
↑思索する本間。キャラクターとしての内面を備え出す。キャラクターのさなぎといったところか(前掲書p.77)
↑キャラクターに昇格した本間。六花とほぼ同じだ(前掲書p.90)
 ところが最近、山岸の漫画には明らかにアシスタントが描いたと思われるキャラが頻繁に登場する。バレエ漫画『舞姫 テレプシコーラ』の7巻で主人公の一人、六花が学校のダンス部の振り付けを指導するハメになるというシーンがあるのだが、ここでダンス部の面々を、どういうわけか山岸はすべてアシスタントに描かせている。
 絵の違いがあまりにもありすぎるので、画面から激しい違和感が漂ってくる。

 はじめは、部員たちはただ不平をいうだけの「群衆」にすぎず、名前すらなかった。いわば「捨てキャラ」であり「モブ」である。
 にもかからわず、これらの部員たちは、漫画的描線のコードでしっかりと描き込まれることにより、最初から「生命感・存在感」をもつようになってしまう。

 とくに、いつも不平の急先鋒である部長は、「本間」という固有名を持たされ、セリフをしゃべることになり、主人公の六花と対峙することにより、強い「存在感」をもつようになってしまう。山岸的ストーリーとコマのなかにからめられていくことは、必然的に強烈な力でキャラクターを立てられていく運命にあるということである。

 さらに、作者である山岸がこの本間のパンツにトーンを貼って他の群衆(部員)と差別化をはかるようになる(7巻p.45から転換)にいたって、事態はいよいよ深刻となる。
 山岸的なストーリー展開とコマのなかで、本間は「実在する心身をもつ人間」へと急速に立ち上がってこようとする。にもかかわらず、山岸は、本間を「捨てキャラ」=キャラ扱いするという措置を脱し切れないのである(山岸の捨てキャラ扱いは極端で、7巻でも部員の一人を「S」などと呼び、「S抜きでやるしかないよ」などというセリフにいたっては何のことかわからないほどである)。顔の表情の線はあいまいでありつづけ、自己主張をしてもらっては困る、とでもいいたげである。にもかかわらず、本間は六花を困らせたりうれしがらせたりする重要な役どころへと昇進していくので、いよいよそのアンバランスは激しくなっていく。

 ここには、「キャラ」が「キャラクター」に変化する生々しい瞬間が、「瞬間」でなく、長い滞留時間として存在してしまっている。モロボシ・ダンがウルトラアイをかけてウルトラセブンに変わる、その途中の状態で止まってしまったようなものである(あの、ブタの鼻みたいにみえる段階)。ふつうはこのプロセスは、シームレスに無意識のうちにおこなわれるのだが、山岸はアシスタントを使うことによって、実に面白い「生成の瞬間」を露呈させてしまったわけである。

 ことほどさように、伊藤の「キャラ/キャラクター」区別は、漫画の読解のスキルとしては非常に役立つと思う。





 なお、末尾ながら、伊藤の本書の誤字等をあげておきたい。

……(ここの項目は伊藤剛ブログにて訂正の表明があったので、06.1.13に消去した)…………




『テヅカ・イズ・デッド 開かれたマンガ表現論へ』NTT出版
※画像は引用の原則をふまえてあります
2005.12.7感想記(06.1.13補足)
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