朝日新聞社会部『東京地名考』



 東京は移り変わりの早い街だから、地名に刻み込まれた原風景は、あっという間になくなってしまっている。
 それだけに、地名の由来、それを通じて街の歴史をかんたんにでも知るだけで、眼前にひろがる今の東京とは、まったくちがった風景を思い起こすことができる。

 この『東京地名考』は上下2巻の文庫本であるが、そのために実に役立つ。
 一町名ごとに数百字のエッセイとも解説ともつかぬ短文を載せているが、どの文章も印象的だ。

 たとえば、新宿の歌舞伎町の項を見よう。


 今日の大繁華街への歩みは、焼け野原から始まった。いち早く、計画的に。

 鈴木喜兵衛という人物がいた。当時のこの地、淀橋区角筈一丁目北町会の会長で敗戦四日目から地域の復興計画に着手する。二カ月後には、地主・借地人・旧居住者や戦災者による復興協力会を組織する。「最初に区画を整理して……皆さんと協力して道義的繁華街の建設を致したいと念願して居る次第であります」(総会で)

 都とも相談して、芸能広場を中心に劇場や映画館、ホテルなどを配した構想を作る。占領下にあって存続が心配された古典芸能を守るため、演劇関係者が発起人となり歌舞伎劇場・菊座の建設も計画された。折から、新興文化地域にふさわしい町名を、との声が起こり、都の石川栄耀都市計画課長が提案した歌舞伎町に決まった。昭和二十三年のことで、『語呂もよし感じもよく、この町の建設目的にもピッタリとして居るので」と、鈴木はその著『歌舞伎町』(昭和三十年)で回想している。

 ただし、菊座は敗戦直後の悪条件のため、実現せずじまいで今日に至る。


 二十五年の産業文化博覧会で歌舞伎町の名を高め、二十七年の西武線延長(高田馬場から)で地の利を増し、三十二年ごろには新宿随一の繁華街となった。あとは、ご存じの通り。コマ劇場一帯は、明治期に元大村藩(長崎)主邸で、大正九年から府立第五高等女学校があった所だが、もう想像もできまい。夢は実現したともいえるが、鈴木のめざしたのは道義的繁華街だった。

 
 文化と道義の繁華街の建設を行政ぐるみでのりだしたのがこの地名の由来だというわけで、なんとも皮肉な話である。この短い文章から、鈴木という人間の戦後復興にかける清新な息吹と、猥雑なエネルギーが生々しく伝わってくる。
 この情報をもって、ふたたび歌舞伎町の現実を眺めた時、これまでとはちがった歌舞伎町観を読者は持つことができるのではないだろうか。

 23区だけでなく、多摩の町名もたくさん書いてある。
 多摩の代表的都市である立川の「曙町」をみてみよう。

 昭和十七年に成立した町名だが、それ以前は中ノ原、中古新田、下古新田、下武蔵野だった。新しく町名をつけるにあたって、当初、飛行場が近くにあったため羽衣町にして、現在の羽衣町を東の方だから曙町にしようとの案だったという。しかし、軍部から羽衣町について「軟弱な名前で、飛行機が墜落しそうでダメ」と苦情が出され、急いで二つの町名を入れかえたと伝えられる。

 ここから、立川は昭和の初期までは完全な農村で、街自体がそれほど古くないことが瞬時にわかる。史実かどうか別にしても、この街にとって軍部というものが大きな影響をもっていたことも知れるエピソードである。

 このように、どのエピソードをとっても興味深い。それが東京の地名について500ほど紹介されている。
 ぼくは、東京に住んでもう13年になるが、行ったことのない土地も多い。
 だから、仕事などで「どこそこへ行け」などといわれると、この本をひっぱりだして、地名の由来をみたりする。仕事にストレートに役立つわけではないが、街のまったく別の姿や顔がみえてきたりして思わぬヒントになったりすることもある。

 浅田次郎の「角筈にて」という小説(少し前にドラマ化)があったが、これは新宿の、なくなってしまった地名である。東京の地名の一定部分が、昭和37年(1962年)の「住所表示に関する法律」や都市化によって消えてしまった。角筈の場合、浄水場の移転や中央公園、新都心の建設で消滅してしまったのである。本書にはこのようにしてなくなってしまった旧町名もたくさん載っている。

 上下あわせて800ページもある大部の本だが、ぜんぶ一度に読む必要はなく、まさに辞典のようにして思いついた場所や出かける場所をときおりながめるようにして使えばよい。

 「なぜ代々木というのか」「なぜ自由が丘とよぶのか」などと思いをめぐらせながら街を歩くと、帰ってきてこの本を開くのが楽しみになる。




朝日新聞社会部『東京地名考』
朝日文庫 上・下巻
2005.6.8感想記
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