4巻についての感想はこちら ![]() プーのリクオと、高校を中退したハル、リクオの片思いのシナコとのだらだらした恋愛・交流。 これほど絵がうまいのに! 二流、ということは、そこそこよくできているのだが、まさに「そこそこ」なのだ。 それは「二流」としかいいようのないものだ。 冬目は、つぎのような「情感を生み出す情景」に頼り過ぎている。2例あげよう。 (例1)片思いをしている人は、死んだ人を思いつづけているので、それはいつまでも美しい。 冬目はここからほとんど一歩も動かない。遺品を整理して物思いにふけるシナコを、いかにも「物思いにふけっています」としてしか描かないのだ。死者への思い出にしても、学校で消しゴムを貸してくれた思い出とか、なんのひねりもない。そしてリクオはその死者の神聖さへ挑戦するでもなく、「死者の無敵さ」は物語の前面には出てこない中途半端な扱いをうけているのだ。 同じような「情景」を基盤にしている『めぞん一刻』(高橋留美子)とくらべてみればはっきりする。作者は死者である「惣一郎」の顔を意図的に黒く塗りつぶし、「現実からの批評をいっさい許さない美化されたもの」という徹底した記号化をはかる。惣一郎の日記を読むうちに「彼女からこのようなものが届いた。不可解なり」という一文をみつけ、「未亡人」である響子が悩む話など、まるまる惣一郎のエピソードに話をあてたりする回もあり、それだけにエピソードはよく練られたものが多い。そして、主人公・五代と響子がその死者の幻影に挑戦し、それを克服していくという正面のテーマにまで高めており、作者はこの「情感を生み出す情景」にいささかも甘えていない。
これにたいして、吉野の例をあげてみよう。やはり同じように、子どもが、別離した父親の家をこっそりとかいま見に出かける。そこでやはり父親が築いた新しい家庭を見てしまうのである。ここまでは冬目と同じだ。ところが、その子どもの名前は、自分とまったく同じだったという挿話を入れている。父親が自分をおきざりにしてまで手に入れたかった幸福が、まるで自分たちの家族のコピーのようなものだったことに主人公は衝撃をうける。自分たちとは違う幸福を追って父が自分たちを捨ててくれた方のが、まだ「しあわせ」だった。自分たちをコピーしたような家族のなかで幸せそうに暮らす父を見て、主人公の胸には「自分たちは何のために捨てられたのか」という思いが迫る――衝撃の深さが、冬目の造形したそれとは段違いであることがわかるだろう。 冬目のえがいたハルの母親は「たくましく」描かれていて、夫との別離に傷を負っていないように見える。対して、吉野の作品では、主人公が小さい頃、母子家庭の悲しい自己防衛のために「目立たないように」生きるよう母親からいつも諭されている。そのために、主人公は「大きくなったらめだたないひとになりたいです」という作文を授業参観で読んでしまうのだ。 冬目と吉野の差は歴然としている。 冬目はなにも考えていない。描きたい情景だけがあって、それをだらだらと描いているにすぎないのだ。それでは作家としては早晩、伸び悩むだろう。 冬目は遅筆のようだが、作品がなかなかすすまないのは、ゆきづまっているせいかもしれない。
これ書いたあと、やはり冬目は女だという情報が。うそだー。 採点62点/100 |
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