冬目景『僕らの変拍子』


 なんか、アクセス解析つけたんですけど、それみると、当研究所の冬目景の感想のページから、研究所のサイトのメニュー画面に来ている人が、けっこういるんですねえ。ほかの感想ページからはこういう現象はおきていないんですよ。はい。

 察するに、冬目ファン、というのは、両生類が水辺にずっと住みつづけて餌を探しているように、ネットに住み着いて、批評しているサイトやページを探してまわっているんでしょうか。
 前に、わたしのコメントが2chの冬目のスレで批判されておりまして、「こいつ冬目が男だと思ってやがるよ」というオチをつけられておりました。すみませんねえ。

 いや、冬目って、漫画家をざっくり3等分くらいすると、まちがいなく「好き」な作家に入るんですよ。言っておきますが。ね。
 ワタクシ的には、冬目の「絵」なんです。もう、ドンピシャ。よくぞここまでぼくのツボに正しい比率でおさめてくれたね、というくらいキテるんです。「シリアスさを含有できる萌え絵」を築いたという意味では、記念碑的な漫画家だと。

 しかし、スジに惹かれる、というファンのみなさんの意見には、なかなか賛同でけんわけですなあ、これが。ま、そのことはもうくり返しますまい。

 もともと冬目に惹かれたのは、本屋に平積みされた『僕らの変拍子』『ZERO』のインパクトでした(しかもバーズコミック版)。
 前の感想でぼくは「冬目は情感を生み出す情景に頼り過ぎている」という批判をおこないましたが、これが短編という長さだと、逆に、簡潔ないい味になります。だから最初に、初期短編集『僕らの変拍子』を読んだのは正解でしたね。

 なかでも印象深いのは「銀色自転車」という短編でしょう。(ネタバレあります)

 ガッコを卒業したあと、大学の友人たち男女数名であつまるところに、プーである主人公(男)が登場。みんなは社会人の道まっしぐらだ。主人公は、恋人になりかけた女を、自転車にニケツして帰る。そのときのやりとりをつづっている。女は、男の在学中や今の素行のだらしなさを、非難しつづける。
 女は就職し、やがて結婚することになっている。
 男はプー。女にたいしてどんな感情をもっているのかは、一見するとわからない。
 男は、工事現場のバイトで殴られたりしながら、うだつのあがらぬ日々をおくる。
 女が叫んだ、自分のうだつのあがらなさを責めることばが男の脳裏にうかんでくる。
 やがて、そのことばのなかから、自転車の後ろにのせてほしい、といって微笑んでいた女の顔が、浮かび上がってくる。ここは圧巻。
 ラストは、女の家に、自転車のホイールが送られてきて、それをみて女がどんな顔をしてどんな台詞をはくのかは、お楽しみ。


 この作品は「これから二度と交わることもなく、確認されることもない、恋愛」ということが、一見すると、ぼくらに激しく切ない気持ちをおこさせているように思えますねえ。
 しかし、まあ、むろんいま言ったようなこともあるわけなんですけど、もっと大事なことは、これが「プー」の物語であるということなんです。「プー」。この「銀色自転車」には、『イエスタデイをうたって』のなかでも使われております、男女の人間関係――「プー」対「社会人」の原型が顔を出しています。

 読み手に切ない気持ちをおこさせているのは、実は、主人公がどこまでも世の中から、仲間から「おいていかれた」存在だからなんだと思います。「プー」。
 冬目自身がどうなのかは知りませんけど、冬目の描く作品のなかにあるのは、この「おいてけぼり」をくっていることへの激しい焦燥と、高校時代というものへの後ろ向きな懐古――たとえていえば、宮崎勤(駿、じゃないっすよ)が祖父と遊んだ時代をなつかしがった「甘い世界」――、この空気が濃厚にあるんですね。「退行」という意識のありようがありますけど、現実の困難の前に、ずるずると自分の昔の「甘い世界」へもどっていって、その思い出を舐め回したい、という欲望です。

 これ、非難してるんじゃないですよ。
 冬目の初期の短編では、この欲望がきちんと作品になって昇華されておる、と思っているんです。

 そういえば、アレですよね、時代劇モノの『黒鉄』で、冬目って「渡世人」を描いてるわけで、あれって、プーですよね。カタギじゃない人間つーか。庇護も保障もない身分、しかし自由の身。あそこで、「金や権力」のために子どもを人質に使う諒次郎が出てくるじゃないですか。そいでもって、迅鉄は「俺も……故郷を捨てた。だができる事なら捨てたくなかった……。あの小さな田舎町で地味に暮らす。そんな当たり前の幸せが俺は欲しかった。俺はそれを忘れない。忘れたら、おめえと同じそっち側の人間になっちまう」(第六幕第四景)とかいうでしょう。
 「カタギ」っていう生き方にたいしては、そいつがやがては「金や権力」につながっちゃう「生き難さ」を感じているんじゃないかと思いますよね。プーを選ぶということはできれば避けたい。でも、カタギになるってことは冬目にとって選びたくないんですよね。「そっち側」なんですよ。ぼくなんか、この『黒鉄』あたりには、冬目の非カタギとしての一種の誇りやプライドも感じるわけですよ、ええ。実はしっかり選択しているんだと思います。

 でもやっぱり、プーであることに焦燥を感じるのも事実なんでしょうねえ。
 そういうアンビバレントな気持ちが、冬目には良く出ている。

 『僕らの変拍子』を読むと、どれもが懐古的で、記憶の甘ったるい部分をひきずりだされてくるような気持ちがするわけですね。対照的に、現実のとりこされぶり、「おれはいま何やってんだ」という焦りが、この「銀色自転車」全体に貫徹されておるのです。ええ。
 その焦りのなかでこそ、恋人になりきれなかった女と交わした気持ちこそが、なんだかものすごく「甘ったるい」もののように、あるいは現実の苛酷さとは関係のないようなピュアなもののように思えて、ふわりと浮き上がってくるんだと、ぼかー思いますね。冬目は、恋愛になりきらない話ばかり描いておりますが、たんなる「寸止め」効果だけじゃなくて、冬目的にはそこにこそ「純粋=真実」があるという思い込みがあるんでしょうか。いや、知りませんけど。

 『イエスタデイ』では、長篇になり、さらに、ハルというキャラが入ることで、逆にこのテーマが散漫になっているという印象を受けるのですね。

 『羊のうた』なんかも、社会と隔絶された姉弟が、その甘い世界にひきこもろうとする話といえなくもないですわ。それが破滅的な行為であると冬目は感づいているからこそ、ああいう結末にしたんだとは思いますが。

 ちなみに、ぼくは、そういうの好きだなあ。
 焦り、「甘い世界」、後ろ向きの懐古、ははは、それぼくじゃないですか。






コミック・バーズ
2004.1.21記
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