宇仁田ゆみ『トリバコハウス』1巻


 商業誌における宇仁田ゆみの作品を、『楽楽』(短編集)以来、すべて読むことができたが、その全基調をつらぬくものは、革命的なほどの健全さである。

 むろん、高く評価したい。ブラボー!

 デビュー短編集『楽楽』は、性教育、というか、セクシュアリティにかんするコミュニケーションの教科書としてそのまま使いたくなるほどの健全さだ。

●フタマタは絶対にしない。
(きちんと別れをつけてから、新しく好きになった人とセックスする)

●明確な意思表示をして男にスキンをつけさせる。

●いやなセックスは徹底して「いや」なふうに描く。
(性暴力体験のある女性が、セックスにたいして、目を見開き、鼻水を出して、心底恐怖する。それを認識した男性がセックスをやめ反省する)

●セックスの画一性や没コミュニケーションへの批判。
(セックスで声を出さない女性を気にする男の話。男は耳栓をしてセックスをしてみると、声以外のセックスの楽しさがわかり、女性も気持ちをきちんと伝えてなかったことへの反省をする)


 『楽楽』はまさに宇仁田的哲学がナマのまま転がしてあるのだが、すべて宇仁田の作品は、この健全さを強固な基礎においている。
 それが宇仁田の場合には、女性が自立して生きていく力強さとして表現される。
 まったく小気味よい。

 新作『トリバコハウス』は、年上の男性に就職から家賃まで世話になっていた女性が、職場の貧乏専門学校生集団たちとつきあうなかで変化していく話だ。

 そして、ここでも、決してフタマタをしない
 主人公のミキは、前の男性ときちんと訣別する。そして、訣別した日でさえ、ミキの好きになった男性は、「今日はなんか違う気がする」「今そっちいくとなんか違う意味になる気ィがするし」といって、セックスしない。1晩たってから、ようやく二人は、実に幸せそうなセックスをする。

 「二人の人を同時に好きになった。だから自分の気持ちに素直でいたい」――フタマタや不倫は、しばしば、こう反吐がでるような物言いで合理化される。そして、「欲望に忠実であることは気持ちに正直なことだ」というイデオロギーによって、それは補完されるだろう。

 宇仁田は、そこに流れている不誠実を看破し、明るく批判する。

 漫画の世界では、この宇仁田のかかげている旗は圧倒的な少数派である。欲望や不誠実を肯定するだらしなさに安住する作品は洪水のようにあり、それこそがまさにサブカルのサブカルたるゆえんである。そういう作品群をぼくも「楽しんで」読んでいるわけだが。

 宇仁田の作品がすぐれているのは、その基礎に正しき倫理をすえながら、十分サブカルたりえていることだ。わくわくし、どきどきするものを読みたい、という気持ちに十全にこたえている。
 倫理的には正しいが、あるいは社会的には正統派であるが、できるだけその本は開きたくはない、という漫画作品というものがある。言い方を変えると、疲れているときには読みたくない作品、というものがある。それはそれで立派に存在価値があるのだが。
 だが、宇仁田の漫画は、いつでもぼくは開きたいと思う。
 というか、できるかぎり読みたいと乞い願っている。ミキが元の彼氏に支配されている様子、そこから自立していく様子、ミキと新しい彼氏(鎌谷)の関係、を、もう、何時間でも読んでいたい。
 そして、自分は鎌谷のようなカッコよさはないだろうなあ、どちらかというとミキの同僚の男(口だけ味方ぶる。セクハラ男)に近いんじゃないかなあ、などと反省もしつつ。




祥伝社 以後続刊
2004.4.10記
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