甘詰留太『年上ノ彼女』をダシにした一論



 どうも、叱られたようである。
 doolittleさんのサイト「アンビエンス」にて。
 ぼくが書いた『恋風』の感想への批判だ。

 勝手に要約するに、2005年1月27日日記でのdoolittleさんの立論は、次のようなものである。


(イ)江戸時代は肉欲だけ求めた時代で、明治の人もそれをひきついだ。
(ロ)そこ(明治時代=近代)に、肉欲を悪とする社会的規制が登場。その社会的規制ゆえに、二人が密かに会うという恋愛は秘め事となる。
(ハ)秘め事となった二人の逢瀬は、恋愛の精神性を高める契機となり、それが近代的自我の発祥である。
(ニ)このようにして近代的自我のもとで高められた恋愛の精神性を、いっそう強固にするものとしてセックスは存在する。セックスは、社会が規制を設け賤視するような汚らわしいものではない。セックスは獣欲ではなく愛情表現となる。
(ホ)透谷の恋愛至上主義とはこのような精神の高みであり、両者(セックスと恋愛)の新しい次元での統一だ。透谷は現実のセックスのありようを獣欲と批判したが、彼の理想においてはセックスとはもっと気高いものとして恋愛に統一されている。
(ヘ) 透谷は理想的な恋愛をかかげることによって、現実を批判したのだ。
(ト)ちなみに現代の現実社会は、この社会的規制がゆるみまくって、恋愛は密かな逢瀬ではなくなり、したがってその至高性も精神性も地に墜ちている。

 で、doolittleさんの紙屋研究所批判は次のようなものではないかと、これまた勝手に要約してみる。


(チ)紙屋研究所は「透谷は獣欲と恋愛の分裂と対立を感じており、恋愛の至上性を説いて、獣欲を否定した」と考えているようである。
(リ)そして、紙屋研究所は「ヲタもまた獣欲と恋愛を対立させ、それを分裂させたままにしている」と考えているようである。
(ヌ)紙屋研究所がしている、(チ)と(リ)のような「透谷&ヲタ」理解は、(ホ)のような透谷の主張(恋愛とセックスの高い次元での統一)をまるで理解しておらぬ、けしからんものである。
(ル)お前も「とらいあんぐるハート」をやってみれば、ヲタ世界においても、いかにセックスが恋愛の貴重な表現として統一されているかわかるだろう。

 さらに、同月30日の日記でも手厳しく批判されております。

(ヲ)紙屋研究所は、「透谷の『空想と現実の戦争でまけた将軍がたてこもって防戦する城が恋愛だ』という発言は、『現実では恋ができない代償としてヲタが、二次元恋愛をしている』という事態に通ずる」と考えているようだ。
(ワ)しかし、現実の代償として二次元で恋愛するヲタなど少数で、ヲタは代償ではなく、その二次元の少女そのものに愛着をもつのである。




 やー、困ったな。
 この人の主張は、そのまんま、ぼくが予想したヲタの精神構造そのものなのである。おそらくぼくの文章力がなかったせいで、そうは受け取ってもらえない、いやむしろ正反対のものとして受け取られてしまったようだが。

 ぼくは、『恋風』の感想で次のように書いた。

その両者(獣欲と恋愛)の統一は、いうまでもなく「もっとも純粋で強い愛情にもとづいた美しい恋愛の結晶としてセックスをする」というものだ。まさに、吉田が『恋風』において描こうとしたものは、欲望と純愛を両立させるという近代の日本の精神史においてくり返し問われてきた古典的なテーマである。

 このように観念的に統一させてしまうのが、まさにヲタである、とぼくは言いたかったわけだ。

 doolittleさんが、愛情表現としてのセックスを説く(ホ)を主張すること、およびその一形態であろう「とらいあんぐるハート」を勧める(ル)を主張することは、まさしくぼくが想定したヲタのメンタリティである。ストライクど真ん中。キター!と書きたい。

 たぶん、ぼくが「ヲタクが純愛と欲望の分裂のまっただ中を生きている」「透谷は『獣欲』と『精神的恋愛』を対立させ、前者の単独での価値を否定し、後者による前者の支配をもくろんだ」と書いたのをみて、doolittleさんは、「こいつは、ヲタと透谷が、獣欲と恋愛を対立させていると思っているのだ」と考えたに違いにない。そして、松田道雄の「汚い性と美しい恋愛」の言説などをぼくが紹介したものだから、いっそうその確信を強めたのだろうと思う。
 ああ、まさに、わが筆力のなさがなせる業。

 ぼくの真意は、こうである。
 透谷とヲタは、純愛と欲望がそれぞれもっている豊かさや複雑さをすっぱりと捨象してしまい、そのように現実の豊かさから遮断された観念的な「純愛」と「欲望」の二項を設定する。
 そして、現実と切断されてごろりと転がされた「純愛」と「欲望」はバラバラな二項として、まずヲタと透谷の前にある。
 そして、バラバラな二項を、きわめて観念的に――ヘーゲル的にいえば「外的に」――統一する。
 その観念的な統一の結果が、「もっとも純粋で強い愛情にもとづいた美しい恋愛の結晶としてセックスをする」というものだ、とぼくは言いたかったのである。
 現実の「愛情」と「獣欲」は渾然一体としてあるのに、そのリアルさがない(それがいいことか悪いことかは別として。ともかくリアルなそれとは違う、という話)。統一はされているものの、非常に観念的に統一されているのだ。
 現実の豊かさをすべて切り捨てたバラバラな「愛情」と「獣欲」が、観念的で、外的で、理屈っぽい統一をしているのが、透谷とヲタの統一なのだ。それゆえに、ヲタクと透谷は、統一を果したと見えるでさえも、究極的には純愛と欲望の分裂のなかを生きているのである――これがぼくの真意である。


 そうした「もっとも純粋で強い愛情にもとづいた美しい恋愛の結晶としてセックスをする」というヲタの観念的統一のひとつの表現として、甘詰留太『年上ノ彼女』はある。

 大学の児童文学同好会に属する主人公・伊藤努が、大学の新歓でつかまえたのは、小学生と見まごうばかりの容姿をそなえた、25歳の小山内揚羽。揚羽は、努がしばしば夢精してしまうほどの興奮する夢に出てくる「蔵の中で自分を弄ぶ少女」にウリ二つだった。
 筆者の甘詰留太は、揚羽のキスや愛撫を、粘液を中心とした描写で、徹底的に欲望的に描く。
 しかし、努は不能であるために、決して「成就」することはない。
 実は、旧家の嫁であり「未亡人」であった揚羽は、けっきょくその家へ舞い戻り、その家での思い出に生きようとする。
 努がそれを追いかけ、揚羽を引き戻そうとする。
 揚羽は、旧家の風呂場の窓から、努に自分の気持ちをこう告げる。

「努くんの事は好きっ!!!
 …今でも…好き
 …こうして手をつないでいるだけで
 ホントは私はまだ学生で…
 私もフツーの恋愛ができるって思える…
 私… 大人なの…
 努くんが知らない――
 捨てられないものが… いっぱいあるの…」

 引き裂かれる二人。
 警官に引き戻されながら、努は叫ぶ。

「アゲハッ!! 聞いてくれっ!!
 ずっと言えなかったけど
 オレも!!
 オレにとってキミは!
 オレは!
 オレはアゲハをっ!!

 オレはアゲハがっ!!
 好きだっ!!!」

 やがて、外で待ちつづける努を家の中にいれた揚羽と努は「愛情の結晶」としてのセックスをする。それはいったん中断してそのあと、都会に帰る旅館でついに結ばれるセックスを二人はするのであるが、そこで揚羽はセックスをしながら、こんなピロートークをする。

「私も…わかるよ
 今…私の中で
 努くんが気持ちよかった事
 私がっ!! 努くんを気持ちよくできた事
 …泣いちゃう位 うれしい。
 努くんにあえてうれしい。
 恋人になって
 こうして二人肌合わせられた事が……

 うれしいの…」

 ここには、doolittleさんの、「近代的なセックスと恋愛は共にその人に近づきたい、その人を愛したい、という至極当然な人間らしい感情の現れなのであり、至高性への憧れなのである」というセックス・恋愛観が屹立している。
 そこいらに転がるエロ漫画が、ただ男性の一物をつっこんで、属性を加味した女性にアンアンいわせて事足れりとしているのと違い、甘詰留太は、『年上ノ彼女』において、寝具と体のシワ、そして粘液を駆使して、セックスの過程を細かく裁断しながらねっとりと描くがゆえに、非常に欲望的な描写に仕上げている。そしてそれは愛情の最高の表現として描かれるわけで、ヲタのハートをわしづかみだ。
 

 しかし、くり返すが、ここにあるのは、あくまでも純愛とセックスの観念的な統一なのであり、依然として純愛とセックスは本質的には分裂したままなのである。両者は現実の豊かさを切断し、捨象したままである。それが悪い、とは、一言も言う気はない。なにしろぼく自身がその分裂を生きるヲタなのだから。



■■■■■■むろんヲタは現実の代償などではなく、虚構そのものを愛する■■■■■■■■

 ヲタにとって、漫画やエロゲーのなかの恋愛は、むろん、現実の「代償」などではない
 それ自体が愛情を傾けるべき真正の対象である。
 「おたくは異性の友人の数が一般より多く、また友人の数も多い。社交的である」という大塚英志の発言(『仮想現実批評』)、「なぜおたくは『現実に』倒錯者ではないのか。私の知る限り、おたくが実生活で選ぶパートナーはほぼ例外なく、ごくまっとうな異性である」という斎藤環の発言(『戦闘美少女の精神分析』)という発言をひくまでもなく、「現実に恋人ができないから虚構に逃げ込んでいる」などというのは、笑うべき偏見である(ま、一部そういう人もいるが)。

 ヲタクとは、「虚構コンテクストに親和性が高い人」「愛の対象を『所有』するために、虚構化という手段に訴える人」「虚構それ自体に性的対象を見い出すことができる人」(斎藤前掲書)である。くり返すが現実の代償として二次元の少女を愛するわけではない(ま、一部そういう人もいるが)。

 また、斎藤環は次のように言う。
「虚構への親和性が高くおたく心性を持っている人は、実際に適応しているか否かを問わず、現実にたいする違和感を潜在的に感じているだろう。しかしそれは深刻なものではなく、日常的現実はダサい!という程度のものだ。少なくとも不適応がそのまま現実からの逃避→虚構世界へのひきこもり、というふうに単純には発展しないはずである。……彼らは現実を虚構の一種とみなしている。それゆえ現実を必ずしも特権化しない……虚構にも現実にもひとしくリアリティを見いだすことができる」(斎藤前掲書)

 すなわち、ぼくを含めたヲタにとっては、現実は虚構と等価である。もしくは、虚構のほうが現実よりはるかに面白い、というものである。

 以上のことをふまえたうえで、ぼくが『恋風』の感想でのべた「空想と現実との戦争でまけた将軍がたてこもって防戦する城が恋愛だ」という透谷の発言を引用した箇所のことである。

 もともと透谷は、「実世界」と「想世界」の対立と葛藤ということとしてこの問題をのべた。
 「想世界」では美しい恋愛があるのに、「実世界」の醜いことといったらない、というわけだ
 透谷は自由民権運動にかかわりながらもそれに敗北し、したがって彼の表現は国家や資本への批判へとはむかわず、きわめて文学的な表現をとるようになった。女性が男の付属品だとされる時代において、高らかにうたわれた透谷の恋愛と女性賛美は、それ自体が現実への一種の戦闘となる。その意味で、透谷の理想主義は決して逃避的なロマンティシズムではない。理想の高みから、現実を批判するというのが、透谷の手法である。それが「空想と現実との戦争でまけた将軍がたてこもって防戦する城」ということのもともとの意味だ。

 ぼくは、まさに、この言葉のなかに、透谷が恋愛を美しいものとして徹底的に理想化しているというそのメンタリティをみた。その度はずれた純愛の美化をもって、欲望うずまく「実世界」に切り込もうとしたその様は、まさに「純愛」と「欲望」をバラバラにとらえ、対立させる真骨頂であるとぼくは見たのである。
 そして、ヲタが、あくまで「純愛」と「欲望」をバラバラな要素としてとらえ、せいぜいその観念的で、外的で、おざなりな統一として、「愛情のもっとも美しい結晶としてセックスをする」などという命題を叫んでしまう、そのあたりにまさしく透谷の末裔ぶりを見たのだ。


 
 まあでも、この透谷のセリフの引用をみて、doolittleさんが「紙屋研究所は、『現実への敗北として、現実への代償として虚構に逃げ込んでいるのがヲタクなのだ』と受け取っているのだな」と思っても仕方がねえわなあ。

 そう読むのがフツーかもしれません。まことに不徳のいたすところでございます。

 したがって、実は、doolittleさんの立論のうちその大半は、ぼくにとって同意できるものなのである(「近代的自我」の発生についての箇所はほとんど同意することはできないが)。




 さらにこの議論は続く。
 吉田秋生『ラヴァーズ・キス』を甘詰留太と比較するなどという無謀、かつ吉田ファン激怒なことを予定したい(挫折するかも……)。


2005.2.6記
※『ラヴァーズ・キス』の感想はこちら

甘詰留太『年上ノ彼女(ヒト)』
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2005.2.2感想記
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