瀬尾まいこ『図書館の神様』


 この小説には「正しさ」と「不倫」という問題が入り込んでいる。

 「正しさ」と「不倫」とくれば、柴門ふみを思い出さないわけにはいかない。
 柴門の『女ともだち』のなかに「とまどい」という短編がある。

 靴のデザイナーである主人公は、不倫をしている。
 不倫相手の平井は「チャランポランでその場だけで生きててそしてやさしい」。主人公の部屋での逢瀬は、ほんとうにだらしない会話の連続で、主人公はこのだらしさなさに居心地のよさを感じている。

「あたしは自分の正しさは
 吐き気を感じるほどウンザリしてるから
 彼といると解き放たれた気分になるの

 あたしが結婚に失敗した理由
 あたしが正しさで亭主を追いつめてしまったからなのよ

 あたしは自分の正しさに自信があった
 毎日夫に正しさを押しつけ続け……彼は黙ってそれに従いそして

 ある日無言で彼はあたしを殴りつけた

 平井くんとの関係……
 不倫だからって後ろめたい気になんか
 一度もならなかった

 むしろ自分をほめてやりたいくらいだわ
 『誤ったことできんだ あたしでも』って…」


 ぼくは、よしながふみの『愛すべき娘たち』という作品に出てくる莢子という登場人物の美しさを賞賛したのだが、あるサイトで、“莢子の正しさにうんざりする”というむねの感想をみかけた。

 「白河の清きに魚も住みかねてもとの濁りの田沼恋しき」――「正しさ」にうさん臭さを感じるのは、日本の庶民のなかに連綿として存在し続ける感情だ。いや、世界的に見ても。
 アメリカがイラクへの侵攻を「正義の戦争」だと満天下に嘘をついたように、強権や統制、あるいは権力の不義を「正義」の名で押しつけようとしてきた歴史が厳然としてある。
 権力が自らをいつわる看板というだけではない。
 ぼくら庶民の生活のなかにも無数の「正しさ」はある。
 しかし、しばしば、その「正しさ」は、とても硬直しているか、さもなくば、とても狭量な、痩せた「正しさ」、あるいは、無神経な「正しさ」だったりする。

 だから、「正しさ」に警戒感をもつことは、健全なことだと思う。

 しかし。
 ぼくは左翼である。
 政治にたずさわる者である。政治とは正論の世界である。
 「正しさ」から逃れることはできない。
 「正しさ」は、ぼくのなかで大きな価値でありつづけている。

 ぼくは「正しさ」にどう向き合えばいいのか?


 『図書館の神様』の主人公は、清(きよ)という若い女性で、その名のとおり、清く正しい生き方を小さいときからずっとしてきた。
 バレーボールが得意でその才能もあった清は、高校のバレー部の試合、それも負けるはずのない試合で負けた。それは、万年補欠だった一人を投入したために、ミスが重なり負けたのだ。清は試合後、反省会でその一人を責めた。
 そして、その子は、自殺してしまう。
 爾来、清は、自分の「正しさ」「清さ」がうとましくなる。
 物語の本筋は、清が高校の講師となって、やりたくもない、そう、まさにまったく何のやる気もない文芸部の顧問をわりふられ、たった一人の男子部員と交流するところから、始まっていく。

 清は、ある男性と不倫をしている。
 清自身はその関係をこうみている。

「馬鹿だと思う。百人に聞けば九十九人が騙されているって言うだろう。恋をすると、判断力が鈍ってしまう。/私は昔の自分からはまったく想像のできない不合理な恋愛をしていた」

 清は、何かによって変えられた、という感じでは変わらない。
 ただ時々、図書館でひたすら本を読んでいる男子部員に、小説や文学の話題をふられ、なんとなくその本をよみ、それを通して自分のことをあれこれ見つめてしまうのだ。
 たとえば、『雪国』を面白くもなんとも思わなかった川端康成。
 清は、ほんとうにそのつまらない全集の1冊のなかの『抒情歌』の冒頭に目をとめる。

「死人にものいいかけるとは、なんという悲しい人間の習わしでありましょう」

 清は自殺した同級生のことを思い出す。
 何度も話かけたのに、何も答えてくれなかったのだ。
「私のせいなの?」
「どうして死んだの?」
「許してくれているの?」

(ぼくは、ここを読んで、島田雅彦が、“川端の『雪国』も『伊豆の踊子』も、みな冥界の話で、登場人物は全部死者だと思うと納得がいく”と書いていたのを、思い出した。)

 そんなふうに、その男子部員からなにかしめされる文学に出会うたびに、主人公は緊張を走らせたり、心をほどいたりして、ゆっくりと化学変化をおこしていく。
 志賀直哉の有名な小説にひっかけた本作のタイトルは、この男子部員のはからいが、なんだか神がしめすような啓示のようにも見えてくる。


 ぼくが、この小説をいいなと思えたのは、筆者である瀬尾自身は決して「正しさ」ということを捨てていないと思えたからである。

 ここでは、貧しく、硬直的で、自分勝手だった「正しさ」は、豊かで、しなやか、かつ、多様な「正しさ」へと生まれ変わっている。「正しさ」は、まったく新しい姿で回復しているのだ。

 ラストちかくで、清のもとにとどく手紙がある。
 自殺した同級生の母親からだ。
 清が人知れず墓参りをつづけていたことについての手紙だった。
 死に責任があったかどうか、許されているかどうか、などといった悟性的な狭い境界線は姿を消し、死にたいする誠実さだけが見事に立ち現れ、「正しさ」、つまり清のとってきた態度(墓参)の倫理的な意味は、まったく豊かな形で復建をとげている。

 柴門の作品と同じようにやはりこの作品でも、主人公は、不倫相手の妻が身ごもることをきっかけに、その関係を解消する。主人公は、猛烈な心と体の苦痛をうけながら、この関係を清算していくのだ。
 また、清は、部員に教えてもらった小説をヒントにして、授業にとりくむ。
 その生徒の反応をみるなかで、清は高校教師という職業についても、もう一度正面から向きなおることができるのだ。

 そうしたことの一つひとつが、清は決して「正しさ」を放棄しているのではない、昔のような硬直した、痩せた「正しさ」を、もっと豊かで多様な、まちがいさえふくみ許容する、しなやかな「正しさ」――妙な言い方だが――へと生まれ変わらせているのだと思える。


 「正しさ」のすぐ横にはリアリティが立っている。
 ひとは、リアリティのない「正しさ」に、うさん臭さを感じるのだ。
 現実にある多様なもの、豊かなもの、まちがっているといわれるもの、そういうもろもろのものを追放してしまった「正しさ」とは、往々にして「タテマエ」とよばれ、忌諱される。

 清がとりもどした「正しさ」とは、このリアリティをとりこんだ「正しさ」である。

 痩せさらばえた「正しさ」を止揚して、ゆたかでしなやかな「正しさ」をとりもどすべきであって、「正しさ」そのものを捨ててはならない。「この世に『正しい』なんてこたぁ、ないよ」――そういってしまった瞬間から、精神の退却がはじまっているのだ。


 毎日のように遅刻したりちゃらんぽらんだったりするお前に「正しさ」について説教されたかねーよ、といわれても、ぼくは、この清の取り戻した新しい「正しさ」を、とてもきれいなものだと思うのだ。


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2004.3.11記
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