「ゆるキャラ」にさえならない「とつか再開発くん」続編



※こちらのつづき


 自治体のマスコットがもつ脱力感、いわゆる「ゆるキャラ」について書いたが、伊藤剛のブログ「トカトントニズム」からツッコミが。
http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20060421


 伊藤は「まだまだ甘い!」と当研究所を叱咤したあと、まずは、自治体がはなつ最強「萌えキャラ」、下妻市「シモンちゃん」を紹介。(ここ
http://www.city.shimotsuma.lg.jp/shimon_chan/index.html


 ぐ。は。(血反吐)

 すでにネットでは十分話題になったようだが、当方知りませなんだ。
 すごいなーこれ。
 しかも、伊藤の解説によれば美少女ではなく、「女装美少年」だというから、

キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━━!!

 部屋をごろごろと転がり終わって、さて、居住まいを正して冷静に考えてみる。
 自治体の啓発や宣伝に「萌えキャラ」を使うということについて。

「美少女キャラが行政の広報活動に使われる“萌える行政”も、埼玉県に限ったことではなく、ここ数年、全国的な現象となっている」(安藤健二『封印作品の謎』p.244)

 安藤のこのルポでは、この「萌える行政」の先駆たる東京・三鷹市の担当者を取材している。この担当者子は、89年に「パトレイバー」の泉野明を年金関係のポスターに起用して以来、91年から10年連続で水道週間のポスターに有名アニメのキャラを使っているのだ。担当者はもっとも発端となった87年のことを回顧してこう証言している。

「役所(ママ)たまたま普通の年金啓発用のポスターが張ってあったんですよ。それで当時ぺーぺーだったんですけど『こんなポスター、誰も見ないし欲しいとも言わないよね』とふと言ったら、『じゃあ、お前がやってみろ』と上司に言われてしまって……。それがきっかけですね。それで、コミケの知り合いの女の子に頼んで、喫茶店のおごりだけで描いてもらったんです。女の子が野球でボール取ってて、『明日キャッチ』というキャッチコピーでした。最初、周囲は『何やってんだか……』って冷淡だったんですが、それで実際にポスターを張ったら人気が出ちゃったんです。市役所に『ポスターくれ』って人が数人来ました。職員はみんな腰を抜かしてましたね」(同前p.247)

 いやー小気味いい話っつうか、なんつうか、こう……「こうだったらいいな」的垂涎すべき逸話。ぼくもサヨのポスター&ビラつくるとき「萌えキャラ」を提案したことがあるが、萌えキャラを描くツテがないのと、全体の流れで否決されてしまった。

 自治体キャラというのは、政治・行政としての品行方正さ(「正しさ」)とそれを担う人の感性(おっさん的感性※)が、まずデフォルトとしてある。「萌えキャラ」は人間の欲望、しかも性的なそれの「ど真ん中」をついてくるという形で、この流れに真っ向から逆らうものとして登場してくる。
 ※やたら健康美が強調される女性モデルとかw

 これはサヨ&ヲタであるぼくがもつ両要素の相剋と相似形である。
 三鷹市の担当者の証言はこの両者の力の構図をよく表している。

 しかし。
 実は、この両者を同時に実現してしまうキャラ、というのは存在するのではないか。

 あらためて、「シモンちゃん」をふりかえってみよう。
 実は、「萌え」というものを感性として理解しない、わがつれあいにこのキャラを見せてみたのだが、「うん、かわいいんじゃない?」というのが感想だった。
 いや、正直その感想には少々驚いた。フリル、ピンクのミニスカート、絶対領域をもつ白ニースト、赤い大きな胸リボン……という、ジェンダー的ヲタ記号の集積体たるシモンちゃんを見せれば、つれあいは「うわーオタクっぽいねえ」とでも言うかと思ったからなのだ。
 多少なりとも漫画的記号に目が肥えているつれあいにさえ、これは「自治体キャラとしてかわいい」と映ったのであれば、そのような表現に馴れていない一般人ではなおさらこれを「フツーのマスコット」として受容するはずである。

 つまり、シモンちゃん的キャラは、「政治的公正」と「萌え欲望」を同時に達成することができるのだ。ちょうど、あずまきよひこ『よつばと!』が、一般人からみれば「サザエさん」的ほのぼのファミリー日常漫画であるが、ヲタからみると充分な性的欲望を埋伏させた二重底であるように。
 すごい発明品というべきか。

 それにしても、シモンちゃんが「女装美少年」だというのは、ショタを萌えさせるための設定ではなく、単にジェンダー批判をかわし政治的公正さを確保するための「言い訳」が出発点だったのではないかと邪推してしまう。

 他にも伊藤が紹介していたのが、「目ん玉の町」山形県・平田町のキャラと、札幌市のごみ減量(スリムシティー)キャラ「スーちゃん・リーちゃん・ムーちゃん・シティーちゃん」。
http://www.town.hirata.yamagata.jp/
http://www.city.sapporo.jp/seiso/slim/index.html


 ぼくは、平田町のキャラも札幌市のキャラも「かなり洗練されているではないか」とまず思った。これを見て同じ思いになった人も多かろう。

 しかし、ちがうのだ。

 伊藤はとくに後者について、「キャラ絵をイラスト的に洗練させようとしたのか、キャラの存在感をひどく曖昧にしてしまった例。ある意味、はからずも批評的ともいえるんだが、キャラの存在感が、はっきりとした描線に宿っていることを逆説的に示している」とのべていて、これらがキャラとしての存在感の極限に存在する「限界キャラ感」をあらわしていると指摘する。
 つまりこれらのキャラはイラストとしては「とつか再開発くん」(右図)よりも、洗練度が確実に向上している(しれているが)。しかし、存在感・生命感は稀薄なのだ。キャラとしての存在感や生命感は極限値まで下がっているということである。
http://www.city.yokohama.jp/me/toshi/totsusai/index.html


 「スーちゃん・リーちゃん・ムーちゃん・シティーちゃん」と「とつか再開発くん」のどちらが「存在感・生命感」が稀薄か、ということはとりあえずおいておくとして、大事なことは「美術的ソフィスティケートが、キャラとしての生命感を逆に遠ざける」ことが充分ありうるということの実例になっていることだろう。

 さて。

 さいごに、「キャラ的生命感があるかないか」ということを離れて、自治体の仕事としてどっちが手間ひまをかけたか、ということだけ考えてみよう。
 今述べたとおり、美術的手間ひまをかけているのは、「スーちゃん・リーちゃん・ムーちゃん・シティーちゃん」の方だろう(しかもネーミングを公募までしている)。
 だとすれば「とつか再開発くん」の手間ひまのかけなさ具合は、やはり天下無双ではなかろうか。
 いや、そんなこと威張ってもしょうがないんだけどさ!






2006.4.24記
※画像の使用は「引用」の原則をふまえているつもりです。
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