伊藤理佐『チューネン娘。』

 20代後半以降の女性の生活と行動を、露悪的で自然主義的ともいうべき「リアリズム」で描くことは、安彦麻理絵、松井雪子らを筆頭に巨大な潮流として存在している。

 伊藤理佐は、まちがいなくその巨頭の一人であり、ぼくの感想では、いちばん洗練されたフォーマットをもっている。(むろん、そのことは安彦や松井らとの間につけられる優劣の問題とは関係ない。)

 伊藤がオチやキャラをつくって読者を楽しませる仕草は堂に入ったものだ。

 にもかかわらず、本作『チューネン娘。』は、たとえばキャラクターに依存する退嬰主義や馴れ合いに堕しない。あくまでも、30代女性を描くリアリズムをつらぬく。
 キャラクターを造形し、それで遊ぶことによってファン読者とのあいだで馴れ合う、ということは漫画の一つの王道で、同じ掲載誌(「フィール・ヤング」)であれば、たとえば有間しのぶ『モンキー・パトロール』が革命的なまでにそれに徹している。
 だが、伊藤はその道をとらない。自己憐憫や自虐へとつきぬける冷徹なリアリズムが、やはり存在する。

 「チューネン娘」とは、伊藤が「30をこえたら女は中年である」、と自分に課していた自己規定であり、伊藤は自分をふくめた30代女をきびしく、生あたたかく見つめる。

 売れない、才能もなさそうな漫画家・プータローのユージに見切りをつけて、一流企業のマナブに、主人公が乗り換えるエピソードは、なかなかこうは描けない。
 ユージを追い出し、かつ、「ななまんえん」という名の猫を自分のもとに奪った主人公であるが、マナブが猫アレルギーだと知って、ユージのもとに「ななまんえん」を押しつけにいく。
 「お前、サイテーなヤツだな。やっとわかったぜ」と、いつもはだらしなく、イヌなユージが、主人公に吐き捨てるようにいうシーンを読むとき、われれわれは、本当に主人公とは最低な奴だと心の底から感じ、主人公自身もまた自分がどれほど最低なことをしているかを味わいぬくのだ。

 読者は、笑いながら主人公の最低さを知り、かつ主人公に憐憫をもよおすのである。

 こういう芸当は、伊藤理佐でなければできない。