佐藤秀峰『海猿』



海猿 (1)  漫画として実にやりやすそうな設定である。
 海上保安庁の物語。「海上において、人命及び財産を保護し、並びに法律の違反を予防し、捜査し、及び鎮圧する」という海上保安庁法1条の規定どおり、崇高な社会的使命。そのために海上保安官たちは自分の命を賭する。

 救助される人が生きるか死ぬかという緊迫感。
 そしてその最高の使命を果たすために自分の命を犠牲にするかもしれないという緊張。
 そのうらはらに持たれるであろう仕事の「やりがい」。

 消防士や警察官などを使えば、青年誌でいかにも類似作品が山のようにできそうな描きやすさではないか。

 漫画評論家の伊藤剛は佐藤秀峰について、

「ヒトサマの生き死にを描き、そのことで商業的に成功した作家である」

と「あえて酷薄」に書いたことがある(※)。伊藤は『海猿』について「物語が進むにつれ、危機的なエピソードのインフレが起こる。どこか、効果的な表現をドライブさせることの快楽が先に立ち『人の死』を弄ぶような臭みが鼻につきだすのだ」とのべている。

 ぼくはこの漫画を読んでいて、同じような気持ちを持った。
海猿  とくに潜水士の資格をとるために合宿訓練に入る話はいけない(単行本第4巻)。同期の14人が「バディ」と呼ばれるチームを組んで危険な合宿訓練に挑むこのくだりでは、友情、努力、葛藤という青臭いテーマが次々と顔を出し、その頂点に「人の生き死に」という問題が君臨している。このエピソードはこの漫画の一つの集約である。だからこそ、この漫画が映画化されたさい、この潜水士エピソードがメインに据えられたのだ。

 たしかに漫画として次々ページを繰る「快楽」におそわれる。
 ぼくは「ハラハラ」させられ「ドキドキ」させられっぱなしだった。
 そのあざやかさは、たとえば前に論じた、航空自衛隊救難隊を描いたトミイ大塚の『レスキューウィングス』のお粗末なスジ展開などとは比較にならないほどだ。
 しかし、それほど人をドキドキさせる商業的なうまさを誇る佐藤の漫画であっても、たとえばこの潜水士エピソードを読み終えてみると「効果的な表現をドライブさせることの快楽が先に立ち『人の死』を弄ぶような臭みが鼻につきだす」。平たく言えば「人の生き死にを題材にし、涙をだーばーと流させればいろいろできるだろうよ」というシラケだ。

 思えば、「仕事のやりがい」「人の生き死に」「葛藤」という実に漫画にしやすいテーマ性を使えば、なんだか自動的に面白い社会派漫画ができそうな気がする。
 あなたはそう思わないだろうか。
 そして、そういう達成に甘んじて敗退していった「社会派」漫画は数知れない。伊藤の言葉を借りれば「凡庸な表現に安住」した「あざとい作品」だ。

 だが、『海猿』は単純にそういう漫画で終わらなかった。いや、正確にはそういいきれないのだが、それはあとで記そう。
 漫画は潜水士訓練のエピソードのあと、不審船の追尾、海賊鎮圧、沈没船救難などのエピソードをへて、最後に日航123便事故をモデルにした旅客機墜落事故をとりあつかう。
 その最後のエピソードを読み終えるころには、ぼくは、さっき述べたような、「仕事のやりがい」「人の生き死に」「葛藤」をインプットして自動的にでき上がるような安さを感じなかった
 
 佐藤自身もこうした視線を気にしたのであろうが、最終の旅客機墜落の話の前後で、佐藤は物語に一人の新人(入谷)を投入する。
 入谷は、人命を救い人々から感謝されるこの仕事に大きな憧れと使命感をもってこの仕事に就いた。そして主人公の大輔を尊敬していた。しかし、危険を警告しても立ち去らない若者たちの罵倒や、事故のたびに腐爛した死体を担ぎ上げるような仕事、そして他人の命を救うかわりに自分が難破船に残るという危険のなかに「放置」される体験をへて、当初の幻想が入谷のなかでくずれていく。

 それはちょうど、「仕事のやりがい」「人の生き死に」「葛藤」などというテーマ性の安易さ、読者のこの作品に寄せているヌルい期待をうちくだく作業でもある。
 旅客機墜落のエピソードを読み終えるころには、“命をかけて人を救うのだからやりがいがありますよ”式の「意義」「使命感」「充実感」などの安易な言葉ではまとめられないただそこにある仕事をやるしかないのでやった、人命を助けるしかないので助けたのだ、という何とも言えぬ重さをもった結論を、読者は受け取るだろう。

 入谷は結局、海上保安官の仕事を辞めて、港の建設現場で働く一介の労務者になる。そして海の上での仕事も、ここでの仕事(陸での建設の仕事)も実は同じなんだ、という趣旨のセリフを入谷がしゃべるのである。
 あるいは、入谷や大輔の物語と平行して、大輔の恋人である美晴の、新聞記者としての物語が描かれる(旅客機事故の遺族の名前を確認する辛く、無意味だと思える作業を遂行する)。
 それらは何を意味しているのか。
 海上保安官という「社会的使命」の高い仕事だから「やりがい」がある、などとはいえないのだ――そう入谷は(そして作者である佐藤は)結論づけたのである。

 目の前に、せざるをえない任務があるので遂行すること――それはどんな仕事でも同じではないのか。海上保安庁の狭い「やりがい」漫画にせずに、あえて普遍的に開いた結論を佐藤はとろうとした。人の生き死にの修羅をつきつめていけば、「海上保安庁の仕事で人命救助だからやりがいがある」などという甘い使命感はふっとび、そこに残るのはどんな仕事にも共通な、わけのわからない任務遂行の使命感だけではないのか、というのが佐藤のギリギリだした結論であるとぼくは考えた。

 その意味で、入谷の葛藤を脇に見ながら旅客機事故の物語を描くことによって、『海猿』は、「仕事のやりがい」「人の生き死に」「葛藤」などというテーマ性をインプットして自動的に出来上がるような安易な漫画の域を脱した。
 伊藤剛の言葉を借りれば「『人の死』をエンターテイメントとして提示することの葛藤に、作家が真摯に答えた結果」である。

 そのように、佐藤もよく努力したとは思う。
 しかし。
 しかし、ぼくは、この漫画はやはり最後まで「ヒトサマの生き死に」を商売にしている、という臭いを完全に消すことはできなかったと考える。人が生きたり死んだりすることで、ぼくの感情はうまいことあやつられたのだ。
 そして、海上保安庁の仕事であろうが、建設現場の仕事であろうが、新聞記者の仕事であろうが、目の前の任務を遂行する必然性からは逃れられないのだとする仕事観にはやはり違和感を抱く。
 遺族の悲しみのなかで遭難者人名の表記を遺族に確認するという仕事の無意味さは、覆うべくもない。
 おりしも、現実の海上保安庁は「測量」のために竹島へ出かけさせられた。そこには問わざるをえない、あるいは無視し得ない任務の政治性があるではないか。目の前の任務だから、我々を囲繞する現実だから、と受け入れるならそれは思考の死ではないか。

 だから、この作品は、ぼくからみて大変不満足なものなのだが、しかし、ただ出来が悪かったというだけではなく、佐藤の無数の苦闘の跡が刻まれた、いわば「力つきて届かなかった」作品なのである。




※補足 『特攻の島』(芳文社)

特攻の島 1 (1) 上記の『海猿』の感想を書いた翌日、人間魚雷・回天を描いた佐藤の『特攻の島』を読んだ。

 特攻兵器に乗り込む主人公の予科練生・渡辺裕三は、欠陥兵器である回天で自分が死ぬ意味について懊悩する。「命をかけるだけの意味をくれよ……」「せめて犬死だけはさせないでくれよ…」。

 渡辺は回天の開発をした中尉に「なぜ回天という兵器をつくったか」聞く。中尉の口からは初め「国の存亡の危機」「国に命を捧げる事ほど美しい事はない」という言葉が出るが、渡辺は「中尉の言葉を聞かせてください」とくり返しその「借り物の言葉」をしりぞける。

 「国のために死ぬ」ということは、いまの若い読者にとって、リアリティのない選択だ。そこにリアリティを感じない渡辺は、そのまま等身大の現代の読者を代表している。たとえば、『戦没農民兵士の手紙戦没農民兵士の手紙の中にある、「私も愈々国家の為めお役に立つ時が来ました。私は入営の際既に身は大君に捧しものとして入営した私であります。男と生れ一世一代の死場所を求めることが出来、こんな嬉しい愉快なことは有りません。私は喜んで死んで行きます」(菊池武雄・岩手県出身・マニラ南方にて戦死・25歳)という言葉よりは、現代の読者にとって、はるかにリアリティがあるだろう。

 死ぬ意味を見い出せない渡辺は、それは生きる意味を見い出せないことの裏返しだと考える。極貧のなかで、好きな絵を続けることにも絶望し、生きる意味を見い出せずに軍隊へ志願した渡辺は、自分の生命がどうやったら最も輝くのかを絶えず考えてきた。
「生きていればそれでいいのかな…?」
「もしも死ぬ事に何か意味を見いだせれば… 死は単なる恐怖ではないはずだ… そして死に意味を見つけられるのは… 生きる意味を見つけられた人間だけなのかも知れない…」
「俺はまるで水に映った月みたいだ… 目には見えるが実体はない…… 幽霊さ…」

 実感のない社会的大義。生きる意味を見い出せない「死んだように生きている自分」。ふと、いまの若い読者に重なる。「使い捨て」のように働かされ、かといって対抗する変革の運動にもリアリティを感じられず、そのとき、「俺はまるで水に映った月みたいだ… 目には見えるが実体はない…… 幽霊さ…」は漏れてこないだろうか。

 回天を創案し開発した大尉が回天に乗って事故死する様子を、もう一人の開発者である中尉から、渡辺は聞く。中尉は大尉の死に様を、運命を従容として受け入れ「最期まで弱音のひとつも吐く事すらなく… 自らの命を信念に捧げた…」「殉教者」だとのべる。
 この話を聞いた渡辺は、「ここで命を燃やす」とつぶやき、自分の死の意味を、次のように結論した。

 「俺の人生を…… 俺のものにするためです……!!

 これは戦没学生の書簡集である『きけ わだつみのこえ』に出てくる次のような苦悩と「結論」にそっくりである。

「一体私は陛下のために銃をとるのであろうか、あるいは祖国のために(観念上の)またあるいは私にとって疑いきれぬ肉親の愛のために、更に常に私の故郷であった日本の自然のために、あるいはこれら全部または一部のためにであろうか。しかし今の私にはこれらのために自己の死を賭すると言う事が解決されないでいる。……〔中略〕……最も納得すべき理由は自分自身のためである」(菊山裕生・東大・ルソン島で戦死・23歳)

戦の性格が反動であるか否かは知らぬ。ただ義務や責任は課せられるものであり、それを果たすことのみが我々の目標なのである。全力を尽くしたいと思う。反動であろうとなかろうと、人としてもっとも美しく崇高な努力の中に死にたいと思う」(佐々木八郎・東大・特攻隊員として沖縄海上で戦死・23歳)

 戦争で死ぬのは自分のためである! 戦争の性格は問わないが目の前にある任務を果たすことは美しいことである!――なんという倒錯した結論であろうか。この倒錯は、佐藤が『海猿』のラストで導いてきた結論に酷似している。社会のなかでもつその仕事の「意味」はあいまいになり、目の前の必然性をおびた任務や仕事を果たすことに美学があるのだ、という結論に。そして、閉塞のなかですべてを「自分」に帰そうとする痛々しさは、現代の若い人たちの「自己責任」感情にもつながる。

 戦没学生の手紙の中には、美学だと自分を納得させようとする、凄惨な悲劇があるだけだ。一片の美しさもない。
 そして、残念ながら、佐藤の卓抜な漫画の技術力は、この事態を凄惨な悲劇としてではなく、ある種の美しさとして描くために奉仕しようとしているように感じる。
 「絶望は時に青春を輝かせる」がこの本の売り文句であるが、僕が思うに絶望が青春を輝かせることはありえない。佐藤の漫画は非常に危険な方向に傾斜しようとしているのではあるまいか。

 同じように死の状況にさらされた対独レジスタンスでも多くの若者が死んだ。そこで書かれた遺書のなかには、死を選ぶことが青春を輝かせることが確かにあるのだと教えるが、それは「絶望」ではなく、自分の死が「希望」へとつながっているからだ。「自分のために戦争で死ぬ」という倒錯した結論を導いた絶望が、青春を輝かせることは絶対にありえない。

 まさに、『海猿』でぼくがいだいた懸念――自らの行為の社会的意味を問わない、任務遂行の美学は、『特攻の島』において、最悪の方向で開花しようとしている。「ヒトサマの生き死にを描き、商業的に成功」することの意味が真剣に問われる。

 この漫画は、先ほど『戦没農民兵士の手紙』を紹介したが、そうした「国のために喜んで死ぬ」という感性ではなく、戦没学生のような苦悩を描く。そのことでこの「美談」を若い人が自分に重ねるように「工夫」している。それだけに罪が重いといえるだろう。「あざとい」といってもいい。

 しかし、まだ物語は1巻である。この物語がいい意味で裏切られることを願ってやまない。

 ※なおこの漫画は「全国回天会」や「靖国神社遊就館」などが協力をしている。





(※)「ユリイカ 詩と批評」誌、青土社、2003年11月号、p.155
小森の関与が不明なので文中は「佐藤は」と表記した
佐藤秀峰(小森陽一:原案・取材)
小学館 ヤングサンデーコミックス 全12巻
2006.5.4感想記(5.5補足)
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