「うんこやろーが!」 
ぼくに来た抗議メール精解



 次のような抗議メールがきました。

うんこやろーが!

えらそーにひひょうしてんじゃねーよ!!
しね!
いますぐやめろ!
こののーなし。


 これで全文です。
 別に「抗議」とは書いてないのですが、「応援」メールと解釈するのは、かなり厳しい。厳しすぎ。抗議を装った応援、という可能性など、あらゆる検討を重ねましたが、その結果、これは「抗議」メールであろう、と断ぜざるをえませんでした。

 この人は怒っていると推測できます。
 ぼくの書いた「なにか」がこの人の感情を逆なでし、逆鱗にふれたようなのです。
 どの漫画感想・書評にもメールアドレスをつけているので、この人を怒らせたものが、果たしてどの文章だったのかはわからないままです。そう、このような感情を惹起させるまでにいたった文章がどれなのか、特定できないというのは、実に惜しいことです。

 発信は朝の4時です。朝の4時。朝の4時に「しね!」「うんこやろーが!」というメールを送ってしまう側にまわることだけは、ぼくの人生において避けたいところです。

 ではこのメールの精読・精解にうつりましょう。

 まず、メールのタイトル。
 「うんこやろーが!」。
 うんこ、ときましたか。
 ぼくも自分のサイトを「ウンコ」で検索したら、9件ヒットしました。「ウンコ野郎」もありました。「うんこたれ」も。
 どうもぼくにはこの人の下劣さを批判する資格はなさそうです。

 次に本文です。
 「えらそーにひひょうしてんじゃねーよ!!」。
 えらそうですか。えらそうですよね。
 前も書きましたが『クロサギ』、『CRAYZY FOR YOU』の感想なんかはかなり「えらそう」ですよね。

 えらぶらない批評、へりくだった批評とはどういうものでしょうか。

拝啓 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。平素は当研究所に際し、格別のご理解、ご協力を賜りありがとうございます。さて、当研究所は『クロサギ』に関する一文をここに掲載させていただくこととなりました。お目汚しとは存じますが、時間のあるときにご笑覧いただければ幸いです。


 だめだなあ。日本語において、批評というスタイルは「えらぶらない」という文体をまだ確立していないのかもしれません。

 さて次です。
 「しね!」。
 これは実に直截な要求ですね。
 「しね!」。死んで下さい、すなわち生命活動を停止せよ、という命令だと把握しました。しかし残念ながら死ねません。ぼくとしては128才まで生きる予定です。
 つれあいは、「そんなに長生きしても、知り合いとかいなくなってさみしいんじゃないの」と言っていましたが、60才でもまだ人生の半分も来ていないと思うと楽しいじゃありませんか。

 そして「いますぐやめろ!」という要求が続きます。
 サイトの運営そのものを止めよ、または関連する文章のアップを停止せよ、というふうに読めます。それとも、「この批評の不出来の責任をとり、研究所所長を辞任せよ」という意味でしょうか。

 とりあえず、辞めてみます。

 はい、辞めました。(2007年2月11日、紙屋研究所所長、紙屋高雪辞任)

 はい、再任されました。

 では、いよいよ最後の文です。
 「こののーなし。」
 律義に句点が打ってあるところが、なかなかかわいい。カワユス。
 おそらくこの意味は「あなたには脳が存在しません(You have no brains./You are an invertebrate animal.)」ということではないと思います。植物には脳がありませんし、アメーバーのような下等生物にも脳は存在しません。脊椎動物にはあります。このサイトは脊椎動物が運営しているということは理解していただいているとは思うのです。

 たぶんこの人の言いたいことは、「能がない」ということでしょう。大辞泉によれば「能力がない。また、機転がきかない。考えがたりない」という意味だそうで、「あてがわれた仕事をするしか―・い人」「いつも同じ店というのも―・い話だ」という例文が紹介されています。

 「いつも同じ店というのも能がない話だ」。これです。まさに。
 弁当をつくっていかないと昼は職場の近くで外食というわけですが、いつも同じ店なんですね。超保守的。なにが「革新勢力」なんだか。新しい店とか開拓しなきゃいけないとなると、もうそれをやらなきゃいけないと考えるだけで気持ちのストレスが500くらいあがりますから(500の単位は不明)。

 そう見ると、これは実に的確なぼくへの評価といえるかもしれません。


 というわけで、トータルでみるとなかなか的確な批判メールだったわけです。落ち着いて眺めていると、歌詞のようにも見えてきます。語調からいって、ロックとか演歌っぽいですね。だれか曲をつけてくれませんか

♪チャッチャッチャチャ、チャラランチャチャチャンチャン……

(イントロにかぶせて司会)ひとは誰も心の傷をもっている。きょうは炎上、あすはアク禁。泪をふいて閉鎖したときもありました。惚れた漫画にケチつけられて、送ってしまった午前4時。それでは歌っていただきましょう。歌は匿田名子さんとゴゼンヨジズで「うんこ野郎が」。

♪ うんこ〜やろぉおおが〜
  えらぁぁぁぁぁ……そぉおおおおにぃいいいい……
  してんじゃぁあああああねぇえええようぉぉぉぉぉぉぉぉ
  (チャンチャンチャン チャッチャッチャラララララ)
  (男)しね! (女)すぐやめろ!
  (男&女)このぉ〜のうなしぃいいいが〜

(セリフ)なんてぇひどいことを書くんだろうねぇ、お父っつぁん。きっとこの仇はとってやるよ。午前4時にあたいは、あたいは、あたいは……メールを送ったんだよ…。





補足


 ところで、この「しね!」「いますぐやめろ!」の2連の文は、カントを思い出しました。というのは、いま川谷茂樹「道徳の絶対性について」を読んでいるからです。以下、まったくシロウトのカント解釈を書きます。

 それこそ、「のーなし」の「うんこやろー」による、脳内想起物の垂れ流しなので、注意して読んでください。別にオチとかもありません。

 この「しね!」「いますぐやめろ!」の二つの文は、カントの「定言命法」ではないかと思うのですが、哲学に詳しい方、いかがでしょうか。

 定言命法とは条件付き(仮言的)でない命令のことで、どんな条件下でも絶対的に実行する、カントの考える「道徳」です。たとえば、「あなたが私に精神的苦痛を与えたならば死ね」というのは、仮言命法です。「精神的苦痛を与えたならば」という条件がついているからですね。
 ところが、この人は無条件に死や停止を要求しています。
 「精神的苦痛を与えたならば」死んで下さい、という命令の仕方は、このメールをくれた人がぼくを「説得」しようとする形になります。説得して「死ぬ」という行為をさせるわけです。言い換えれば「精神的苦痛を与えた」という外在的な理由をもちこんで、ようやくその人に死を命じていることになります。

「カントによれば、われわれが義務に従わなければならないのは、それが義務だからである。何らかの外在的理由によって義務に従う行為、結果的にたまたま義務にかなっているにすぎない行為は、なんら道徳的ではない。唯一道徳価値を有するのは、義務に基づいて、すなわちそれが義務であるがゆえに義務に従うという行為である」(川谷茂樹「道徳の絶対性について」)

 ここで話をややこしくしてしまっているのは、ぼくとメールをくれた人と、2人を想定しているからで、わかりやすくするために、「しね!」「いますぐやめろ!」という命令が、ぼく(紙屋研究所)の頭のなかだけで起きていると思って下さい。
 つべこべいわず、無条件にぼくが頭の中で「しね!」という義務に従って死ぬことが、このメールをくれた人にとってはかぎりなく道徳的な行為なのです。

 これは具体例に直すとこうなるでしょう。
 たとえば、自分の息子が幼女を強姦して世間をさわがせたときに、その犯人の父親が自殺することがありますが、そのときその父親の脳裏にはおそらく言葉として媒介されない、無条件な命令として「しね!」という「道徳」が存在したに違いないのです。
 あるいは日常の卑近な例でいえば、友だちが死にそうになっているという情報に接したとき、「走れ!」と自分の脳内で命じることです。
 そこに定言命法のもつ力強さがあります。

 さらにいえば、自分の心の中で自分に命令する、という媒介さえ、本当ならばふっとんでしまうはずなのです。いまの例でいえば、友だちの危篤の報に接して「走れ、いま走るべきだ!」と脳内で自分に命令しているなんていうのは、逆に言えば迷いがあるからです。「あー、そんなに重篤じゃないんじゃないかなー」とか「おれ、これから大事な取引があるし」とか。
 何も考えずに飛び出していった――これこそが定言命法の真髄です。自分の頭の中でさえ考えない。

 ゆえに、たとえば「なぜ人を殺してはいけないか」という倫理問題は、「なぜ……」という言語による媒介を経て根拠づけをしようとしたとたんに仮言命法になってしまいます。カントにいわせれば「人を殺すな」という定言命法によらないかぎり、そしてそもそも無媒介に「人を殺さない」という行動として現れない限り、道徳ではないのです。

「倫理が言い表しえないものであることは明らかである。倫理は超越論的である」(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』)

 と、ここまで書いてきたのですが、実はぼくはカントの専門家でもないし、哲学の研究者でもありません。冒頭にあげた川谷の「カント倫理学を徹底して内在主義倫理学として読む」というテーマの論文で遊んでみたのですが、ぼくの言うことはどこが間違っているでしょうか。教えていただければ幸いです。



※参考:川谷茂樹「道徳の絶対性について――カント、道元、デリダ――」北海学園大学論集 第130号別刷 2006年12月 

2007.2.11記
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