宇仁田ゆみ『うさぎドロップ』




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育休後から真の困難が始まるのだ



 来年(08年)4月から保育園が空きそう→職場復帰がのぞめそうなので、やれ一安心といいたいところだが、実は困難はそこから先にある。
 むしろ、夫婦ともに共働きになってからが大変なんじゃないかと思う。

 今日まで1週間ほど、わが母親が家にきて家事・育児いろいろやってくれたんだが、心底ありがたかった。自動車を持っていないぼくは、ちょっと買い物をするのでも赤ん坊をつれて数百メートル〜1キロほどを歩いて往復しないといけないので、わずらわしいのである。しかも雨が降っていたり、日が暮れてくるともうそれだけでアウトだし、娘が寝ているときやミルクの時間のときは、やはり出て行けない。
 ぼくの母親、つまり娘のおばあちゃんがいてくれることによって、ぼくは何とも気軽に出歩くことができた(年賀状出すとか本屋へ漫画買いに行くとか)。ぼくは料理もできることならやりたくないし、掃除とかは衷心より嫌いでありますので、母親が「あたしはそのために来たんだから」と言って代行してくれたことに対し、「なんて便利なんだ!」と思ったものである。

 しかしそういう便利な存在は、もはや今日からいない。
 仕事で疲れて帰ってきても料理はぼくがやらねばならない。以前ならコンビニで買ってきたり、甚だしきにいたってはポテチなどを食っておしまい、ということも許されたのだが、いまは離乳食がはじまっている。そういうわけにはいかんのだ!
 そういえば志村貴子の『ラヴバズ』で子どもたちが今日の弁当つくってくれと寝床にいる母ちゃんにむかって頼み、母ちゃんが「も〜先週作ってあげたじゃないの」と言い訳していたシーンがあったんだが、あの心境わかるぜ!

 さて、なぜ料理をぼくがやらねばならないのか?
 それはつれあいが裁量労働制で、しかも夜遅いから!
 ゆえに、保育園の迎え、晩の料理、そこからの育児、風呂などは基本的にぼくがやることになるのである。

 というわけで、仕事の配置転換をお願いした。「6時に保育園に行ける仕事・部署を」。エライさんも心配して話を聞いてくれた。どうも念願かなって配置転換になったようなのだが、部署名を聞くと「本当にそれ早く帰れんのか?」と不安になってくる。くわしくは聞いてみないとわからんのだけどね。




育児のために異動するということの摩擦



うさぎドロップ 2 (2) (Feelコミックス)  30男の独身サラリーマン・河地大吉(カワチ・ダイキチ)が、自分のじいさんの隠し子・りん(6歳)をひきとって育て始める話『うさぎドロップ』には、大吉がりんを育てるために異動を願い出る話が出てくる。

 大吉は営業部で、自分が中国のメーカーを開拓したおかげで巨大な売り上げ実績を作ったようなのだ。しかし、部門ごとに「前年比」で成績を図るという会社の論理のなかでは、翌年もそれを越えるようながんばりをしないといけなくなる。
 前年に巨大な売り上げをつくって「異動」してしまうのは、「勝ち逃げ」という非難を同僚たちのなかにうむことになるぞ、と大吉の上司はやさしく諭す。
 大吉はそのことを「はい…」とやや諦念をこめたような顔で承知する。

 実際に、大吉は送別の飲み会のトイレで、同僚たちが大吉の異動を「勝ち逃げ」だと非難するボヤキを聞いてしまうのだ。

 あるいは、大吉が自分の異動を部下に告げると、部下は「こんな状況でイキナリ上司がかわる」ことの「ひどさ」を批判する。

「いくら親戚の子だからって…
 どうして河地さんが“犠牲”にならなきゃいけないんですか!?
 他にも方法あるはずですよ
 保育園だって夜遅くまでやってるトコもあるじゃないですか!!
 他の親戚に頼んだりとか…」(1巻p.80)

 独身のこの部下は、純粋に「仕事」の論理をまくしたてる。大吉もそのことは痛いほどよくわかっている、ということが、部下の非難を悄然と聞いているその表情から伝わってくる。
 上司ではなく、年下の部下に言わせているのが「妙」であろう。上司であればそれは「会社の命令」として現れ、大吉はその命令に従ったり反発したりする受動的な存在である。しかし、自分の部下に言われることによって、問題が「自分の責任」という形で現れてくる。会社に通告すればそれでよし、というわけではなく、一つひとつ問題を解決しながら自分が子育てに向かわねばならないという設定にうまく仕上がっている。




育児の大変さとは労働の大変さということではないか



 1巻から2巻にかけて、「子育ては自己犠牲か」というテーマが出てくる。子育てをすることで「軽めの仕事」にまわしてもらい、出世や「仕事による自己実現」をあきらめることになるのではないかという迷いだ。

 大吉の母親はいまやどこから見ても完全な専業主婦。しかし、かつては「すごく仕事熱心な女性だった」(2巻p.23)。妊娠中にも無理をおして仕事をしたが、無理がたたって入院し、快復して出社するとすでに母親の居場所は会社になくなっていた。

「あの頃 民間企業で妊娠・出産を乗り越えるのは大変なことだったろうに…」(2巻p.23)と大吉の父は反省をこめて述懐する。

 ぼくのつれあいは3人きょうだいなのだが、共働きの家庭である(夫婦ともに正規雇用でフルタイム)。しかも家事と育児は主に母親の役目だったというから、0歳児保育もなく育休もない時代に一体3人もどうやって育てたのか不思議だった。
 聞けば、いまでいう保育ママのような人を雇ったり、個人がやっているような託児所をみつけて預けたりとさんざん苦労したようだった。「ある程度いい加減でも、粉ミルクだけでもちゃんと育つんだよ」というのはそこから出てきた信条である。
 ぼくの母の場合は農家で、家に祖父母がいたので、ほとんど彼らにまかせっきりだったようである。「お前をフロに入れたことはない」と断言する。
 

 ぼくは、「子育ての大変さ」というのは、畢竟「働くことの大変さ」であろうと思う。仕事との両立というか。少なくとも乳幼児においては。もちろん、障害や病気、アレルギーなどを持っている子どもの育児はまた別であろうが。それともこれはたかが数ヶ月の育児経験にすぎないものを不当に普遍化した定式化であろうか。

 いまの正規雇用という働き方は、まことに「育児」ということが織り込まれていない。
 男性の育児休業取得率が0.50%(厚生労働省「平成17年度女性雇用管理基本調査」)と異常に低いことは知られているが、女性もそれほど高いわけではない。「ん、でも同じ統計で72%なんでしょ? 72%って高くない?」と思う人もいると思うが、実は「出産時点で会社に在籍していた女性」が統計の対象となっており、妊娠で会社を辞めてしまった人は含まれていないのだ。「就労継続を断念(出産1年前に退職)した女性も対象に育児休業制度を計算すると、02年で女性は38.5%(ニッセイ基礎研究所試算)にしかなりません」(東京新聞05年6月6日付)。
http://www.fuboren.net/kanjikai/510toukyo.ikukyusyutokuritu.html

よにんぐらし 1 (1) (バンブー・コミックス)  この『うさぎドロップ』は、男性が育児を担う場合に一体どんな経験が待ち受けているのかをていねいに描いている。そこがぼくにリアルさを惹起させるのだ。
 同じ宇仁田の子育て漫画『よにんぐらし』にはこうした描写は乏しい。男性の子育て漫画はたとえば『榎本俊二のカリスマ育児日記』、『はじめて赤ちゃん』などがあるが賃労働者でないといううらみがそこにはある。
 もちろん子育てそのものを描くことは大事だし、それ独自の面白さはあるんだけども、「労働」なかんずく「賃労働」とのかかわりで育児が描かれることが、いまぼくにとっても最もシャープな描写なのである。




理想的な父娘の距離感



 さて、もちろん、「仕事と育児」という問題だけでなく、育児そのものについての描写もぼくは注目している。

 3巻の終りに、りんの実母が大吉とりんがしゃべっている様子を物陰から覗き見するシーンがあり、

「あの後ろ姿…

ベタベタするでもなく
つき放すでもなく

りんとの距離感が宋一さんそっくり!!」(3巻p.189〜190)

と思うのだった。「宋一さん」とはりんの実の父親であり、大吉の祖父である人間のことだ。「ベタベタするでもなく つき放すでもなく」——この漫画に描かれている大吉の娘への距離感は、ある種の理想のように描かれている。いや、少なくともぼくの「理想的父親観」の一つなのだ。

 いやー、「君は…」とか娘が大きくなったら二人称で使いたいよね、とかボケたことを書いていたわけですが、現実にいま子育てをしている身からしますと、この大吉とりんの距離感がもし持つことができたら満点だなあと思う。

 りんは、自分のまわりの人間が自然な関係を維持してほしいと願って大吉を自分の「おとうさん」にすること(養子縁組すること)を拒否するわけだが、そのりんの決意とは別に、りんと大吉の関係はやりは一つの父娘像の提示だと思う。

 左翼は意外と封建的だ、なんて言われることもあるが(原田純『ねじれた家 帰りたくない家』のように!)、少なくともぼくの周りの左翼友人、左翼パパたちは、「りん・大吉」に近い父娘関係を築いていることが多く、手本がたくさんある。

あかちゃんのドレイ。 3 (3) (ワイドKC)  しかしまあ「ベタベタするでもなく つき放すでもなく」などとはいうものの、ぼくの現実はと言えば、早くも、大久保ヒロミ『あかちゃんのドレイ』3巻に出てくる「クラブ・娘」状態なのだが……(「クラブ・娘」とは、乳幼児の娘のあまりの可愛さに、父親がメロメロになってしまい、外へ飲みにいかず、娘という名のホステスを相手に入れあげてしまう状態)。そういえば『うさぎドロップ』でも幼児が家にいる物流部門のガテンな男たちはみんな「飲み会」に関心が薄く、子どもに会いに家に帰りたがるシーンがあるなあ。

 その証拠に、ぼくにはりんという形象の「かわいさ」が自分の娘の「かわいさ」のように見える。ええもう「親ばか」とでも何とでも言ってくださいよ
 3巻p.145には、りんと並んでいかにも漫画的な目をした少女が同じコマに描かれているが、その少女と比べると、りんは目の大きさと眉間(目と目の間)が離れていて、目や瞳はそれほど大きくはない。そのことが現実への越境をする力になっている。

 りんという形象は、オタクが作り出した「欲望少女」でもないし、あるいはまったく勝手な大人の子ども理想像を仮託した造形でもない。かといって、露悪的な子どものリアルさでもない。
 グラフィックも、一つひとつの仕草も、「子育てのリアルの中から最良の部分を抽出してデフォルメしたもの」だといえる。
 だから、リアルさのかけらもねーやと放り出すこともないし、かといって醜悪な現実だけをつきつけられるということもない。

 ぼくのように子育てにちょっとした夢想を託しながら読みたいと思える人間に、ちょうどよく温度設定されているのだ。

 





祥伝社
1〜3巻(以後続刊)
2007.12.24感想記
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