金子修介『失われた歌謡曲』



 五木ひろし「夜空」が歌いたくて、つれあいとカラオケに。

「きょうはオレ、何者にも邪魔されず、思いっきり唄うからね」

などと宣言。「へいへい」と受け流すつれあい。あまり行きたくなさげだったのを、半ば無理矢理つれていく。ボックスに入るなり五木の「夜空」を熱唱。

「あの娘 どこにいるのやら 星空のつづく あの町あたりか」

 別れてしまった恋人を思い、この歌の主人公が、別れた恋人のいるであろう土地の情景を想像する歌詞からまず入る。「あの町」の「あ」が五木独特の喉の奥を破裂させるような音で、ここが前半のミソである。すでに別れてしまい傷心であることを説明する歌詞を経て、やがてサビに。

「あああ あきらめた恋だから
 なおさら 逢いたい逢いたい もう一度」

と刻むように、かつ、右の肩を下げながら拳をにぎりしめるようにして、別れた恋人へのとりかえしのつかない慕情を強く唄い込む。

「夜は」

とテンポのよい伴奏が、早瀬のように自然にラストへといざない、「いつもひとりぼっち」と、淋しいくせに浮き立つような恋心を絶唱。
 名曲である。
 山口洋子作詞、平尾昌晃作曲のこの歌は、73年にレコード大賞を受賞した。


失われた歌謡曲―MY LOST DOMESTIC POPULAR SONG  本書『失われた歌謡曲』には、五木の「夜空」は次のように解説されている。

「73年といえば、究極のド演歌であるぴんからトリオの『女のみち』『女のねがい』がヒットチャートの1、2位を独占する異常事態で、『夜空』はぴんからトリオのレコ大獲得を阻止するために開発された最終兵器ではなかっただろうか。皆さん『ぴんからトリオにレコード大賞をあげる』という度胸がなかったのかもしれない」

「ちなみにレコード大賞がTBS独占中継となってしまったために、民放各局で対抗して作られた歌謡大賞のほうは沢田研二の『危険なふたり』が獲得した。レコード大賞は大晦日だが、歌謡大賞はそれより早く、歌謡大賞で沢田研二が大喜びしている背後で憮然として立っていた五木ひろしの顔に『俺にはレコード大賞があるもんね』と書かれていたという伝説は、いつまでも語り継がれていくであろう」


 この本の文体が大好きだ。
 軽妙洒脱で、膨大な知識量を流れるように語っていく。
 どちらかというと、ネット、それもブログによくあるような文体で、しっかりフォントいじりも入っている。小理屈をこの流れにのせて滑舌よく弁じており、いつまでも読んでいたくなるような文章である。ブログでもそういう文章はときたま出会えるが、いかんせん、それらは量が少ない。もっと読みたいのだ。そのくせ本当に本書を通読するとげんなりしてしまう。ケーキのようなもので、その瞬間はおいしいが、10個も食べると倦む。思い出した時にどこでもいいから読むと、これがキクのである。
 234ページにこめられた大量の文章は、そのままそれが昭和ドメスティック歌謡なるものの通史であり、かつ筆者金子修介の個人史でもあるのだ。

 論より証拠で、百恵VS淳子戦争を論じる金子の筆を味わってほしい。

--------- 引用ここから --------------------

 で、いよいい『ひと夏の経験』である。

 な、なんと「♪あーなーたにーおーんなのこーのーいちばんーたいせつなー、ものをあげるわー」と、演歌用語を使っているではないか。「愛する人に捧げるため守ってきた」とは、殿さまキングスと同じだ。そう、千家和也は『なみだの操』の作詞者なのだ。つまり、『ひと夏の経験』の歌詞は演歌の思想に貫かれていたのだ。だが、メロディはプラスティック的ポップスを山本リンダ、フィンガー5などで作ってきた都倉俊一による最先端の陰気ビート、この組み合わせが良く、さらにこれを歌う山口も燃えが体型からして旧日本女性、古いタイプの「おんな」で、違和感なく歌内容と歌手の個性が結びついて驚異の説得力を持ったのである。本当にこの女の子はそう思っている、というふうに見えたのだ。

 なるほど、それでドメスティック歌謡曲の改革者たる阿久悠と、彼女の存在とが重ならなかったのであった。つまり、山口百恵は一般には新時代の少女に見えて、実は旧世代の感性と肉体を持った保守勢力のマドンナ、帝政ロシアのアナスタシア的存在、だから大人たちが熱狂し「菩薩である」とまで言ってしまったのだ。大衆は改革にすぐに飽きる。……(中略)……阿久悠の桜田淳子を使った改革も、支持されたのは「新しい時代の風」を感じた初期段階だけで、すぐに揺り戻しが来てしまったのである。……(中略)……そして人々は、これが「揺り戻しだ」「演歌だ」と気づくはずもなく「暗い桜田淳子」=山口百恵にフィーバーしてしまったのである。……

 そして、夏は「♪とくべつーに、あいしてーよ、じゅうひちーのなつだかーら」と陽気な『十七の夏』で(桜田淳子は――引用者注)勝負する。処女喪失はまだだが、「わたしをかえていいのよ」と歌って無防備なのが良く、これを迎え討つ百恵は「♪ひとつむすぶ、ひとつひらく、こいというなまえのなつのはな」と陰気な『夏ひらく青春』で(『ひと夏の経験』以来――引用者注)再び青い性を歌うが、「後で泣いた私、きっと夏のせいね」と喪失を夏のせいにするから去年の経験が生かされていないではないか、潔くないぞ百恵、百恵は自己責任が似合っているのに、とみんな思ったのかどうか40万対30万で淳子が勝っている。

--------- 引用ここまで(引用の強調は原文) --------------------

 金子は1955年生まれの映画監督だ。アニメ『うる星やつら』や『クリーミーマミ』の脚本なども手がけながら、にっかつポルノを撮り、その後『恐怖のヤッちゃん』『就職戦線異常なし』をへて、『ガメラ』シリーズを世に送り出した。

 
 本書はどの編も楽しんで読めるが、ぼく的に興味深いのは、演歌の系譜である。

 ぼくが高校生だった大昔、ぼくの赤色化を促進した社会科教師がいて、初老でどちらかといえば愚直な人だった。この人が「現代社会」科の男女平等について授業をしていたときに、「最近の歌謡曲は『わたしはあなたの奴隷です』なんて曲まであってな……」などと教壇で吐き捨てるように批判していたのを聴き、「はて? そんなポップスがあったっけかな?」といつまでも心にひっかかっていたことがある。ときは1980年代も中葉になっていた。

 その秘密が明かされるのは、それから20年ちかくしてからである。
 なんとそれは奥村チヨの「恋の奴隷」、さもなくばグラシェラ・スサーナ「サバの女王」だったとぼくは知った(いずれもなかにし礼作詞)。
 「恋の奴隷」って、1969年だよ!
 どこが「最近」なの!
 ま、それくらい嫌いだったんだな。


 左翼の思想にとって、歌謡曲に歌われている世界は唾棄すべき男女思想を歌っていることが多い。実生活でやられたらたまらん、とかそういう。
 とくにその定向進化をとげた存在が「演歌」であるといってもいい。

 左翼であるぼくは、しかし、日本的農村に生まれ育った。
 日本的農村に巣食う空気は演歌的世界を疑うことなくリアル生活にしてしまっているという恐ろしさである。
 たとえば、ぼくの実家では村(集落)の中心にある寺の屋根に巨大なスピーカーがついていて、これで町内会の寄合などを村中に響き渡るほどの大音響で放送したりするのだが、そのときチャイムがわりに「演歌」が流される。

「いやよ! いや いや 子供じゃないわ」「あなたにあげる 私をあげる ああ あなたの 私になりたいの」

 くり返すが「大音響」である。
 天にもとどけ、地も裂けよ、といわんばかりの音で子どもじゃないとか、私をあなたにあげるとか、白昼堂々放送で洗脳するのだ。

 こんなものを大音響で3番まで聞かされる子どもたちの発達というものをぜひ考えてほしい。

 長いことこの曲がなんであるのかぼくはしらず、ついに大学入学のために郷里を出るまでその謎は解けなかったが、1974年に発売された西川峰子『あなたにあげる』(作詞 千家和也・作曲 三木たかし。またしても作詞は千家和也である)だったことをこの本を読んで知った。

 実家は農家だったので、ぼくの子守りは祖父母がしていた。ぼくをそばにおき、植木に水をやりながら、祖父はいつも鼻歌をうたっていたが、3パターンくらいしかなく、愛唱していたのは殿様キングス、宮史郎とぴんからトリオだった。

 この西川峰子、殿さまキングス、ぴんからトリオの70年代初頭の演歌群を、金子は「演歌の逆襲」の章で紹介している。

「『♪わ〜たしいがあああ、ささああげえた、そおのひーとおおにいい』と始まって、いきなりコブシがグリグリ回って、演歌ゴコロのある人には『グッと来る』のだろうが、生まれながらのポップ体質人にはまったく受けつけず、ただ不快としか感じられないどころか、それ以上に大切な何かを破壊されるような攻撃的衝撃力を持ったぴんからトリオの『女のみち』に、演歌ゴコロもポップ体質も同時に持っている僕のような人間は、『なんじゃこりゃ』と判断中止に追いやられたのであった。『なんじゃこりゃ』というのは、演歌ゴコロがあったにしても、歌内容が余りにも古いのではないか、という疑問である」

「これはアイドル歌謡全盛の時代に同時進行した話であって、ベストテン番組でもアイドルがポップ歌謡を歌っていると、突然異分子のように、ぴんからトリオや殿さまキングスが現れ、コブシを回して空気を白けさせ、スタジオに残っていても違和感が拭い去れないという現象が見られた」

「ぴんからトリオ、殿さまキングス、西川峰子に共通するのは、セックスの行為が、女から男に『捧げ』たり『あげ』たりするもので、男はセックスをありがたく頂戴するものだ、という観念である」


 自分としてはそうした価値観に染まった覚えはないけど、個人的な記憶とあいまって、ぼくが脱ぎ捨てたつもりでいる農村的因習の空気は濃厚に反映している。
 にもかかわらず、カラオケでついつい歌ってしまうのは、心の底でそのようなものに惹かれているというわけではなく、普段の自分とはまったく異世界のコスプレをしてみたいという衝動ではないかと思っている。別に西川や殿さまキングス的な歌にかぎらず、たとえば「思い出酒」を歌うとき、あるいは「新宿そだち」を歌うとき、あるいは歌舞伎町のバーに連れていってもらったときにそこのママ(50代くらい)と「銀恋」をデュエットするとき(いずれもリアル自分)、すぐそばにもう一人の自分がいて「うわあ、歌ってる歌ってる」と眺めているという、一種の羞恥プレイのような気がする。


 ちなみに、冒頭でご紹介したカラオケにいったとき、あまりにぼくばかりが連続して自分の好きな歌だけ歌っていたので(いや、だから今日はそうするよって初めに言ったじゃん……)、かつ、彼女の歌いたい曲がみつからなかったために(「瞳を閉じて」を歌いたかったらしい)、つれあいはついに「うるさいうるさいうるさーい!」などと叫びだし、ボリュームを思いっきり下げてしまった。うわーん、なんでそんなことするんだよう。

 あとで、声がなんとなく漏れるカラオケボックスの雰囲気に次第に緊張してしまい、やってしまったと平謝り。ぼくとしては謝罪と賠償を要求したい!




小学館 エスノブックス
2005.6.28感想記
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