よしまさこ『うてなの結婚』




うてなの結婚 (1) (ヤングユーコミックス―コーラスシリーズ)  結婚は人生の墓場、さらに、恋愛の墓場だという謂いは、よくある。
 結婚生活を描きながら「恋愛」を描くことは不可能ではないだろうか?

 恋愛を描く少女漫画・女性漫画はそれこそごまんとある。
 しかし、結婚してからの「恋愛」を描いた漫画はあまりにも少ない。「あるじゃん、不倫とか…」と深夜に「もち吉」の煎餅を食べケーブルテレビで「ショップチャンネル」を見ながら口を出すつれあい。だあっ! おれの言いたいのはそういうのじゃねえの!

 結婚した相手にたいして熱情的な恋愛感情を失わないという漫画だ。

 逢坂みえこ『ベル・エポック』や、鴨居まさね『SWEETデリバリー』などをあげてみる。たしかに結婚相手にたいする瑞々しい感情があるが、やはり仕事の描写がメインなのでは……。あるいは、深見じゅん『ぽっかぽか』や秋本尚子『アンサンブル』。これは恋愛感情ではなく、家族愛ではないか。こうの史代『長い道』はどうだろう……などとあれこれ考えてみるが、どうもぴたりとくる作品がない。

 どなたか、そのような作品をご存知でありましょうか。

 先日(07年10月2日付)の朝日新聞の「結婚の形」という特集に「自由な恋愛、夫婦で公認。心の穴を埋めたくて」という記事が出ていた。互いを一番に信頼しているが性交渉はないという40歳前後の夫婦が、お互いの「婚外恋愛」を認めあうというのである。
 朝日の記事は事実だが、創作にも似た話は少なくない。前にもとりあげたが、山本文緒『紙婚式』にも夫婦が互いの恋愛をあきらめ気分で許容している話が登場する。

 結局、結婚とは家庭の形成であり、家庭の形成とは生活の生成である。結婚は恋愛であることをやめ、生活になるのだというのが、世の主流の解釈というものだろう。
 だから、結婚後で「恋愛」を登場させようとすれば、「不倫(姦通)」を描くしかない。あるいは、生活の場となった結婚は、「恋愛感情」をゆるやかに「家族愛」へと移行させていくしかないのであろう。

 ひうらさとるにいたっては、『ホタルノヒカリ』において、主人公・雨宮蛍に次のようなセリフを言わせる始末である。

「…だって! 結婚しちゃったらもう恋愛しなくてすむんでしょ…!?」
「は……?」(『ホタルノヒカリ』6巻p.69)

 もし「結婚してからの恋愛」を描く漫画があるとすれば、それは大変な野心作なのではないか。永久機関の発明。錬金術。不老長寿の秘薬の発見。
 よしまさこ『うてなの結婚』vol.18はこの問題をテーマにしている。




「家族愛」は「恋愛」に勝利できるのか



 『うてなの結婚』は、花野家の3姉妹の物語で、「うてな」はその三女である。うてなは旅行のナンパで知り合った石田大也(だいや)こと、「大ちゃん」と結婚する。
 vol.18は、大也の勤めている工務店が手がけるマンション建設現場での話で、そこのモデルルームにつとめる瀬川葉子の物語だ。瀬川は「このマンション建設で入れかわり立ちかわり来る建設業者に 片っぱしから色目使ってるって話ですよ それも所帯持ちばっか」。

図1:『うてなの結婚』集英社文庫3巻p.56

 瀬川のグラフィックをみてほしい(図1参照)。
 「あばずれ」とか「淫乱」という外形ではなく、どちらかといえば「清楚」、明るいがどことなく「影」のある感じがよく描けている。
 そして、瀬川は噂ではなく、本当に妻子持ちを誘うのだった。瀬川は百人斬りの願掛けのように100人の男と寝ることを考えていた。しかもそれは下品な媚態は使わないが、はっきりと誘っている雰囲気を演出する。大也を誘うときも、夜に妻子に外で電話する大也のそばによってきてナニゲに胸元のあいた服を着てくる。本当に何気なく(コマ描写でも一瞬だ)。
 ほこりっぽくて無機質で男性ばかりの建設現場の世界。

「そこにいる女の子が小悪魔のようにかわいくて
 自分だけにほほえんでくれたら
 男なら誰もが舞い上がってしまうだろう
 正直言ってオレもはじめて見た時かわいいと思った」

 そして、このグラフィックはいたるところで成功をおさめている。
 ぼくは瀬川を「かわいい」と確かに思った。ピロウトークをしている瀬川の下着姿の小さな描写になぜか豊満な肢体と欲望の印象を受けてしまった。もし、ぼくがこの建設現場にいたらまちがいなく誑し込まれていただろう。
 瀬川はまるで相手に試練を課すかのように「妻子持ち」を狙う。美形をねらうのではなく、さえない中年たちもすべて。そして寝ることによって基本的に興味を失うのである。この「清楚」「かわいい」「さえない男もねらう」「後腐れがない」という属性をすべてかねそなえている瀬川は、ぼくのような男の欲望を駆動させるうえで実に高い性能を備えている。瀬川と寝たい、と読みながら思う。

 瀬川は寝た男たちに全て次の疑問をぶつける。

「どうして奥さんがいるのに私と寝たんですか?」
「じゃあ結婚って何ですか?」

 以前に勤めていたモデルルームの所長は最初の問いには「男はいくつになっても恋をしたいものなんだよ」と答え、次の問いには「結婚は… 生活そのものだね きみにはまだわからないだろうけど」と答えた。瀬川は寝た男たちの回答をすべてメモしている。
 そこには、結婚とは家庭という生活の闘争地点であり、恋愛の墓場であるということが如実にしめされている。
 この漫画の文庫版2巻の裏表紙に「あったらいいな、の夢の日常、ここにあります」という文言があるが、それを指摘するまでもなく、この漫画は、結婚生活における「女性側の理想的な回答を用意する」ということをモットーとしている欲望的な漫画である。だいたい、妙齢の女3人姉妹(+姑)の家に婿にくるという設定は、男の側から漫画にすればイッパツで星里もちるか赤松健の「ハーレムもの」だ。これをよしまさこの本作では「包容力のある、大らかな男性の同居」ととらえるのだからすごい。男は決して他の姉妹には色目は使わず、ひたすら妻と子を愛するのである。
 話がそれてしまったが、結婚によって恋愛は死ぬのではないか、結婚とは家庭という生活の場でしかないのではないか、という過酷な問いにたいして、よしまさこはどう「理想」を描いたのか。よしは、大也に次のように答えさせる。

「Q 奥さんがいるのにどうして私と寝たの?
 A 寝ない
 Q 結婚って何ですか?
 A 『胸をはって帰る場所』」

図2:『うてなの結婚』集英社文庫3巻p.53

 赤ちゃん(娘)の便秘のことでいちいち電話してくる大也の妻・うてなの描写は「生活」そのものである(図2参照)。すぐそばで描かれきた瀬川の描写とあまりに違いすぎることに読者はすぐに気がつくであろう。
 ここには「恋愛」はない。
 そこには深見じゅんの『ぽっかぽか』のような「家族愛」の一形態があるだけである。よしまさこはそれが答えなのですよ、と回答したいのだろう。姦通したい男性とは、姦通の誘いをきっぱりと拒否し家族への愛に戻っていく男なのだ(この点で朔ユキ蔵『ハクバノ王子サマ』の黒沢は見事な堕落の形象である)。

 しかし、これは「回答」たりうるだろうか?




敗北の過程としての『うてなの結婚』



 こやまゆかり『スイート10』で、主人公の女性は、夫へのあふれるような「家族愛」とともに、姦通相手の男性へ激しい「恋情」を抱き続ける。「家族愛」が邪な「恋愛」を打倒することが、女性の結婚にとって理想であるというテーゼをよしまさこは提示した。

 しかし、よしまさこの『うてなの結婚』がたどった道は、このテーゼが輝きを失ってゆく過程であり、このテーゼの敗北の過程であるとぼくは思う。
 なぜなら、『うてなの結婚』と題しながら、うてなが子どもを産んでからは、うてなの話は後退し、結婚していない独身の姉二人の物語に移行していくからである。文庫版で6巻あるうちの4巻のあとがきで作者はすでに「この巻あたりからいよいようてなの姉2人がしゃしゃり出て来て主人公うてなを押しのけるようになってしまいました」と述べている。

 おとぎ話のお姫さまたちが、「……ということで二人は結ばれ幸せに暮らしましたとさ」で終わらざるをえないのは、その後の生活が「退屈」だからである。「家族愛」が真に「恋愛」を打倒するのであれば、よしまさこは深見じゅんのような物語を描き続けるべきであっただろう。
 しかし、成り行きまかせで登場キャラクターをくっつけたり離したりするよしまさこの「本能」は、そのような「家族愛」の物語を退屈だと感じたに違いない。だからこそ、後半は独身の姉たちの「恋愛物語」へと変質していったのである。

 この作品は冒頭から「結婚」における「恋愛」をテーマにしている。
 うてなは2年半つきあってきた大也と流れのままに結婚しようとしている。周囲はだれがみても自然ななりゆきだと考えている。大也は「大してバツグンの顔でもない」「ヘラヘラしている」「なーんかテキトー」な男だとうてなには映じている。
 燃えるような恋情に身を焦がすということもないままに結婚していいのだろうか? という不安にうてなはとらわれる。ついに「大ちゃんとは結婚しない」と宣言するまでにうてなは迷い模索を始めてしまう。

図3:『うてなの結婚』集英社文庫1巻p.12

 しかし、一つの事故を契機として、うてなは、大也のなかに「恋愛」を見いだし和解するのである。先ほど大也は「大してバツグンの顔でもない」平凡な顔立ちのキャラクターとしてテキスト設定されたとのべたが、実際に描かれている大也の容姿は体躯もふくめて包容力のあるなかなかイキな男のグラフィックである(図3参照)。

 「(読む)テキストで規定されている『(主人公として、また、読者としての)平凡な私』は、読者の現実であり、意識的な自我である。一方、グラフィックが示す、かわいい私は無意識の、潜在的な自我である。やはり、ここでもラカンの用語を使って、象徴界(the symbolic)と想像界(the imaginary)の対立を読み取ることができるだろう」(ヨコタ村上孝之『マンガは欲望する』p.97〜98)という指摘をまつまでもなく、よしまさこはここでもこの漫画の矛盾をうまく利用して、「読者が現実に遭遇する男たちとしての『大してバツグンの顔でもない』大也」と「読者が理想にすべき、恋愛対象としての大也」を一つの形象のなかに包摂してしまう。

  • 余談であるが、深見の描くキャラクターが「時代不詳」なのとちがって、よしまさこのキャラクターの多くは90年代前半〜中葉のセンスで時間が停止しているのが可笑しい。大也やうてなの高校時代の憧れだった高取、うてなの美人の友人である麗子などは、ぼくの大学時代に「こういうやついたよなあ」と思えるほど懐かしい。なので、この作品自体については知っていたが今回はじめて最初から読んだので、冒頭の絵柄を見た時「はー、1994〜5年ぐらいが時代設定なんだなあ」とか「建設現場では90年代半ばから先駆的に携帯電話使ってたんだ」と本気で思ってしまった。いやマジで。

 よしまさこは、うてなという読者と等身大のキャラクター、そして大也というやはり等身大の男性キャラクターを用意して、低微温の恋愛のまま結婚にいたろうとする現実の読者たちにたいして、その現実の男性のなかにこそ恋愛があるではないかという夢想を提示しようとする。

 つまり「結婚」において恋愛という契機をどう見いだすかということが全体のゆるやかなテーマとして最初から流れているのである。

 しかし、結局よしまさこは、それを見いだしえなかったのではないか、この作品においてそれは敗北を喫していったのではないか、とぼくは考える。
 なぜなら、まず、うてなと大也の「恋愛」に、ぼくが憧れるほどの恋愛を見いだせなかったからである。そして、結婚後において恋愛が家族愛に移行することをよしまさこは提示したのだが、それはどれも中途半端なものであった。
 ぼくには、大也がなぜ瀬川の誘いにのらずに、うてなのもとに帰ったのかわからない。およそ太刀打ちできない「家族愛」がうてなと大也の間に示されたということもなく、そこには「誘いをきっぱりと拒否して戻って来てほしい」という願望がごろりと転がしてあるだけである。

 vol.18の描写だけではない。
 たとえば1巻で、街でシケた顔で歩いている「オジサン」たちを見て、花屋をしているうてなが思うのは「あの男も このオジサンも 妻のために 娘のために 愛する人のために花束を抱えていたら どんなにステキだろう」ということである。
 ここでは「愛」とは「花束」である。
 つまり、家族愛は、ひどく象徴的で抽象的なものとして把握されたままなのだ。深見の『ぽっかぽか』のような、心をえぐるエピソードとして具体的に提示されることはない。この抽象的な「家族愛」が、具体的で燃え盛る「恋愛」に破れるのは必然である。結果的に、うてなの結婚生活をずっと描ききれず、姉たちの恋愛物語に変質してしまったこの作品の末路が、その敗北をきっかりと表している。




『エマ』9巻に刮目せよ


 抽象的な家族愛に比して、後半に登場する姉たち、なかんずく長女「あのん」の暴走ともいえる恋愛は、良くも悪くも目が離せない。うてなの結婚は、あのんの恋愛ほどは面白くないのである。
 かつて小学生時代に教え子だったいま二十歳になった医大生・カイトとの恋愛は、あのんが自分に厳格な教師だけにその崩壊感が読んでいてたまらない(「い、いけません、主がごらんになっています」みたいな)。それはとても魅力的に描けている。それと同時に、作者の判断であのんと読者をふりまわすむちゃくちゃな筋展開にぼくは呆然となってしまう。あまり詳しくは書かないが、「一夜限り」とか、ドイツいくために迷うとか、(゚Д゚)ハァ?ってな具合である。

 桜沢エリカと岩館真理子の絵の痕跡を見い出してしまうよしまさこの絵柄は、具体と抽象の間で宙ぶらりんになっている中途半端さにふさわしい。本作はよしまさこという作家が、恋愛において最大の力量を発揮し、「家族愛」を中心とした結婚生活を描くことはできないということをあらわに示すものとなった。

エマ 9巻 (BEAM COMIX)  最近読んだ、森薫『エマ』9巻の表紙はヴィルヘルムとドロテア夫婦である。
 8年半を経過した結婚生活をおくるこの夫妻のベッドシーン、いや正確にはピロウトークが第八話「歌の翼に乗せて」で描かれる。
 もし8年目にしてお互いがいまだにこれほどの温度で惹かれあっているとしたら、それは驚異的なまでに理想的であり欲望的なことではあるまいか。しかも森はそれを低俗なベタベタさではなく、クールに描く。庶民たるぼくにはとうていこんな夫婦生活は期待できないが、読んでいて憧れるというものである。
 はじめて馬にのったドロテアに会ったときの鮮烈さを、森は見事にグラフィックとしてぼくらに提示した。ゆるやかな逆光のなかで黒髪をおどらせているドロテアの姿に、なるほヴィルヘルムならずとも魅せられるのは不思議なことではない。そして、ベッドでドロテアの黒髪をいじるヴィルヘルムがエロい由来もその描写によって説得的になる。
 ベッドでおたがいの髪や髭や手をいじりあう姿が、睦まじさに満ちている。

 もし、結婚後の恋愛を描くとすれば、まさにこのような描写になるのではないのか。






集英社文庫 全6巻
(上記の書影は文庫版ではありません)
※画像引用についてはこちら
2007.10.7感想記
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