辻井喬『ユートピアの消滅』

 中学生のとき、トマス・モアの『ユートピア』を読んだことがあります。
 性の快感とならんで排泄の快感があげられていたことが、なんだか妙に印象にのこったのですが、まあ、それ以上に、「けっこううまくやっている小社会」というものを事細かに夢想するという手法に、へんに興奮したことをおぼえています。そういう作業が基本的に好きなんですね。

 モアも、エンクロージャーによって農民が追い出される、当時のイギリス社会の批判として、この本を書いたといわれますが、ユートピア思想というのは、ほんらい、現状にたいする批判から出発しているとおもいます。それも、たいへん飛翔力のある批判。現実を超越できる構想力のないところに、ユートピア思想はうまれません。
 『教養主義の没落』でも指摘されているとかきましたが、人間の教養として、適応力と自省力とともに、超越力――つまり現状をちまちま改善するというのではなくて、根本原理を見直す力が、どうしても必要だとぼくもおもうのです。

 そういえば、ぼくのつれあい知り合いが、選挙でだれに投票したいかという話になって、「山崎拓」だと答えたのですが、なぜかと問うたら、「信念があるから」だそうです。セックスの信念かなあ。「小泉純一郎」でもいいらしいです。「信念があるというなら、たとえば共産党はどうなのか」といえば、共産党は無条件にダメだそうです。保守政治家でないと。はー。その知り合いは、2ちゃんねらーで、エロゲー好きで、かつ朝鮮半島嫌いなのです。どうしてそんなに諸要素が親和的なのと、可笑しくなってしまうと同時に、現状というものにたいする「超越力」の欠如をおもわずにはいられませんでした。

 逆に、ぼくのほうは、逆に左翼になるさいに、安手の「ユートピア」にひっかかったと笑われそうなのですが、つぎの一文に心ときめかせたものです(むろん、それがおもな左傾化の原因ではないのですが)。

「定められた時間内に解答がなければ、学力はないと判定され、
 レポートや課題の提出がわずかでも過ぎれば、
 『世の中甘くない』と一喝される。
 本当に世の中が甘くないとしたら、そうしたのは人間だ。
 魔物ではなかろう。ならば皆で甘くしたらいい。
 みんなで甘く楽しい、ゆとりに満ちたおだやかな生活をしたらいい。
 生産力はそこまでとうに高まっている。
 古代ローマ帝国の市民は、年間の休日が二百二十日にも及んでいたのだ。
 奴隷がいたではないかと言われる。
 しかし今、機械にコンピュータ、
 単位面積当たり収穫量の劇的増大があるのだ。」

(樋渡直哉『普通の学級でいいじゃないか』)


 左翼にとって、「ユートピア」思想は、それをかかげるにせよ、拒否するにせよ、乗り越えるにせよ、すぐとなりにある思想です。
 そして、しばしば、「ソ連がユートピアだった」(あるいは「北朝鮮がユートピアだった」)という語られかたをしながら、それらの国々が崩壊したり、悪夢のような国だったことをもって、左翼思想そのものまで「ユートピア」思想として押しながしてしまおうという風潮がさかんです。

 代替品として、「現実主義」という名前で、現実をただただ飲み込ませる、あるいは現実に適応させようという思想がさかんに売り込まれています。前述の「山崎拓」とこたえた人は、まさに現実への過剰適応でしょう。
 
 そんななかで、「ユートピア」思想そのものを見つめ直してみようという思想的営為をしているのが、本書です。

 辻井喬は、ごぞんじのとおり、セゾングループの堤清二のペンネームです。
 東大時代に共産党員となり、その後、「転向」して保守政治家である親のもとにもどって大資本家となり、おまけに書いた小説が谷崎潤一郎賞、詩が室生犀星賞を獲得するという、なんだか絵に描いたような人生をたどっています。「革命運動の一員であった時、私は…」(30p)と正直に書いてますね。

 その後、自身が中国やソ連との文化・経済交流をしてきた体験をふまえながら、自身の「ユートピア」思想とのつきあいをながめ、そのオトシマエをつけようというのです。

 「第1章 六〇年代のユートピア」は、みずからの革命運動の一員であった時代にもふれながら、ソ連というものが理想的にみえた時代の空気、その虚像のかげりをあつかっています。
 「第2章 ユートピアの諸類型」では、ソ連モデルがスターリン体制であったことが次第にあきらかになるなかで、そうでない理想社会をもとめる社会の動きを、自分の思想遍歴と重ねつつ紹介します。ハンガリー、アメリカ、「新左翼運動」、中国などです。しかし、どれもそうではないわけで、この時代の劇的破産としてポルポト政権を最後にあげます。70年代にはいって、劇的な社会の変化がおきていると、辻井はひとつの画期をもうけます。
 「第3章 地滑りするユートピア」では、再度訪れたソ連社会の窒息感、中国の市場経済導入、そしてアメリカンドリームの崩壊など、もはやユートピア思想が色あせている様子をえがきます。
 「第4章 消費社会とペレストロイカ」は、表題のとおりで、辻井自身がこの改革に少なからぬ期待を寄せていたことをにじませています。

 そのうえで、「第5章 二十一世紀のユートピア」。これが辻井のオトシマエです。詩人らしく、アドルノの「アウシュビッツの後で詩を書くことは野蛮だ」という一節をひき、戦争やホロコースト、近代の生み出したさまざまな害悪に正面からむきあいます。辻井のみいだしたひとつの道は、辻井と同じ苦悩を生きるヨーロッパの結論、「欧州連合」がかかげてきた理想でした。

「ソビエトロシアおよび東欧の変革に呼応するかのように、他のヨーロッパ地域では、個々の国家を統合し、強い共同体を作ろうとする動きが進んでいた。/その基礎には、第二次世界大戦後の各国での共産党の勢力の増大のなかで、社会民主主義的ないくつかの経験を経て、産業社会を支えてきた近代国家の在り方への反省があった。思想的には近代文明が、二回の世界大戦を経て、ナチスとスターリニズムの国家を生んでしまったという、我が国の指導者層には見ることのできない思想的な悔いがあった。政策科学としては。広汎な共同体を作ろうとする努力は、どうやって人間の自由を守りながら、隔絶した経済力を背景にしたアメリカの一極支配と、共産主義の浸透を防ぐかという、問題意識に立脚していた」

 そして、欧州統合の思想的基盤となった、フランスの政治家モネの「より精確に、かつより自由な仕方で、私的イニシァティブが全体の利益となるように自ら調整する」という「計画の哲学」を紹介します。

 細かい用語の使い方を別とすれば、あるいはEU統合の現実を不当に美化するのでなければ、この辻井自身がモネをひいてたどりついた思想的営為としての結論は、基本的にぼくの考えと同じです。

 返す刀で、辻井はアメリカ型のグローバリズムへの没思想的な追随を、批判します。

 「現在、我が国の指導者が『グローバリズム』を主張する時、それはなぜか日本の経済社会の諸制度、ルールをアメリカのスタンダードに合わせることを意味している場合が被い。これはおそらく、自由市場経済が要求しているグローバリゼーションと、アメリカが自国の一極支配を永続化させたいと願って唱えるグローバリゼーションが、思想的に混同されているからであろう。しかし、だからといって経済のグローバル化に反対するのは、帝国主義を生むからといって科学技術、工業技術の発達に反対するのと同じ誤りである。資本や特定の国にとってではなく、差別なしに有利な経済の拡がりへ道を探すことこそ、人間にとってあるべきグローバリズムなのではないか」


 思想のない「現実主義」がおちいるアメリカングローバリズムへの追随(あるいはその機械的裏返しである「グローバリズム反対」のスローガン)という批判は秀逸です。
 辻井の最終結論は、「民主主義はユートピア思想の解毒剤であり、ユートピア思想のない民主主義は、魂を入れ忘れた仏である」というものです。ユートピア思想の持つ超越力がない社会は、現実に過剰適応していく社会であり、かといって、そこに現実主義の抑制がなければスターリン主義を生み出してしまうということです。

 日本の二つの主要政党に、この「超越力」にもとづく構想力が欠如し(あるいのは現実への適応についての構想力だけです)、似たような道しかしめせていないというのは不幸です。そういう状況の中で、「ユートピア」という言葉で現実を超越する道をよびかける意味は小さくありませんよ。

 ユートピア思想は、そのままもちこめば、あきらかに現実に対する硬直した型紙になります。「青写真」とよばれるものです。しかし、現実から出発して、そのなかに理想の芽を見い出すなら、これは現実的理想主義ともいうべき、高い境地にたっします。

 ぼくは、マルクスこそその思想だとおもっているわけで、そのあたりはナウシカ批判でも書いたのですが、この点では、辻井とも一致しませんねぇ。あんたら、マルクスを忌諱しすぎ。宮崎駿も辻井喬も一度は「マルクス」をへているだけに、ちょっと思いが屈折しすぎているのかもね。


※しつこいようですが、ぼくはソ連・北朝鮮などを「社会主義の国」とは思っていません。

辻井喬『ユートピアの消滅』
集英社新書(2000.11発行)
2003.11.1記
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