池上彰『わかりやすく〈伝える〉技術』




〈当時の高校生だった四方田犬彦も、二〇〇三年にこう書いている。四方田は七〇年に、吉本〔隆明——引用者注〕の『南島論』の講演会に行き、会場は若者で満員だった。だが聴衆の大部分は吉本が話す内容を理解できず、四方田自身も「途中から講演についてゆくことがほとんど出来なくなった」。そして「わたしの隣にいた女子大生は、もう最初から理解することを諦めてしまったのか、吉本が話している間中、ひたすらに鉛筆を動かしては、彼の肖像画を描いていた」という〉(小熊英二『1968 上』p.83、引用内の引用は四方田『ハイスクール1968』新潮社)

 こんな講演やプレゼンだけはしたくないものであるなあと思う今日この頃。みなさん、いかがおすごしですか。

 『理論劇画 マルクス資本論』(かもがわ出版)にかかわったせいか、最近講演のようなものを依頼されることがふえた。しかし気になるのは自分の講演が「つまらない」と思われることである。
 だいたい話す時間は1時間、長いもので2時間というのがあった。この時間を与えられて、「つまらない」かどうかの試金石は「寝る」聴衆が出るかどうかである。
 これが……出るんだなー。もちろん聴いてる方が悪いわけではなく、100%講演者であるぼくの責任である。感想がものすごくよかったり、「1人2人くらいはいますよ」と慰めてくれたり、「前日徹夜だった人が多くて」といわれても、寝ている人が出るともう悩みぬいてしまう。つーか、その場で激しく動揺してしまう。ぼくを殺すのに刃物は要らない。講演を依頼しておいて、みんなでウトウトしていればいいのである。

プレゼンテーション中に聴衆を居眠りさせないためのティップス10+選 - IT業界を生き抜く秘密10箇条 - ZDNet Japan
http://japan.zdnet.com/sp/feature/07tenthings/story/0,3800082984,20396903,00.htm

 この10か条(12か条)は後で知ったのだが、これまでぼくが実際にやってきたものがほとんどである。にもかかわらず寝る人が出る。
 ぼくのことをよく知っている、ある旧帝大の学生たちは、「いや紙屋さんの話は私はかなり聞きやすくて好きな部類なんですよ」と言ってくれるのだが、どうにも自信がもてないのである。

 この前は「1時間ほどで『資本論』と現代の政治や社会運動について話してほしい」という依頼を2日前にもらうという激烈なものがあり、しかもそこに来ていたのは旧帝大系の4年生の学生から工業高校の1年生までを含む十数人だった。案の定、旧帝大生にはウケがよかったが、高校生たちはチンプンカンプンだったらしい。気の毒なことをした。

 こうした講演の中で、ぼくが核心にしたいと思っていることは「わかりやすく伝える」ということである。
 わかりやすさを馬鹿にするむきもあるが、そもそも政治演説はその場にいる聴衆のなかで最もやさしく話さねばならない層にむけて話をするつもりでいなければならない。
 くわえて、わかりやすさとは、本質を把握するということでもある。「要するにどういうことなんだ」という根源的な問いが話す側に求められるのである。

わかりやすく〈伝える〉技術 (講談社現代新書) そこで本書である。

 以前『高校生からわかる『資本論』』(集英社)で池上の「わかりやすさ」を紹介した。本書はそのわかりやすさの伝え方の方法論を説くものである。第1章から順に見ていこうではないか。

 〈第1章 まず「話の地図」を相手に示そう〉。話す時間、話す中身を知らせるということである。常々、ぼくも今日は何分話すということを述べて、話す中身はいくつあると告げることは絶対に必要だと思っていた。レジュメはまさに「地図」である。池上がいうように聞く方に〈心の準備〉(p.22)ができるからである。
 池上はここでNHK時代に自分がリードを書く作業が役に立った話をしている。「要はこの話はこういうことなのだ」と自分自身がまとめることになるからだ。
 ぼくは『資本論』の講演のときも述べたのだが、「要は『資本論』とは○○ということが書いてある本である」という簡潔な本質規定ができねばならぬ、と思っている。そうでない場合は、まさに『資本論』理解において敗北を意味する。結局あれこれのことは言えるけども、肝心なことはわかっていないのだ、ということだ。

 〈第2章 相手のことを考えるということ〉。講演のときはぼくは必ず聴衆の年齢層や階層、学歴、人数などを聞くようにしている。当たり前といえば当たり前だが、これさえ定まればかなり講演のスタイルは明確になる。困るのは、サヨ系組織に多いのだが、「若い人にむけてお願いします」という依頼をしながらそれは「若い人に来てほしい」という主催者の願望にしかすぎず、フタを開けてみると年配者ばかりというようなことだ。
 この章で池上が「株とは何か」の説明をするときに、いきなり「株式会社は投資家から集めた資本金をもとに事業を展開している」というところから始める解説を批判するくだりが面白い。〈この説明が理解できる人は、「株って何?」という質問はしないでしょう〉(p.39)という指摘は的を射ている。そしてまさに金融にかんする「そもそも解説」は実にこれが多いのである。「ちょうどよい解説」というのは数えるほどしかない。

 〈第3章 わかりやすい図解とは何か〉〈第4章 図解してから原稿を書き直す〉。ここには〈短い文にすれば文章がうまくなる〉〈原稿にせずメモにしよう〉など図解以外のこともたくさん書いてある。
 図解そのものが理解をさまたげてしまうことがある。新聞に載っているワイロの流れなんかがまさにそうで、余計な情報がたくさん載りすぎてわけがわからない。記者の自己満足であろう。本書の〈どれだけ「ノイズ」をカットできるか〉(p.84)はまさにこの点について言及したものである。その大胆なカットぶりは参考になる。

 これは本書に直接書かれていることではないが、ワイロの構造などがわかりやすくなるのは、情報をひどくしぼったうえで、それをアニメーションにすることである。アニメーションというのは、この場合、矢印が動的になって、説明に付随して動くことである。テレビではこの手法があるために、動的な図解は明らかに理解を助けてくれる。そして市井においては、現代ではパワーポイントという協力な武器があり、パワポならこれを実行してくれるのだ。もし紙媒体であれば、4コマ漫画のようにして、解説をしながら矢印がふえていくような図解をすればいい。

 〈第5章 実践編 三分間プレゼンの基本〉。会議の時間短縮の提案を例にやっていく。〈“つかみ”をもっと工夫しよう〉(p.110)は、ネットのエントリのタイトルにも応用できる。「会議の時間短縮の提案」では面白くないが、「来年人件費を1400万円削減できる方法」みたいにすると食いつく、という話である。
 〈数字のデータは身近な表現に〉(p.113)は「ひと月の会議出席回数は8.3日」というのに「つまり3日に1回です」を付け加えるということだ。〈単なるナマの数字からもう一つ、さらに置き換える工夫も大事です。たとえば、この会議に一二人出席していたとすると、「今ここの会議に一二人いますから、四人はうんざりしているということですね」と〉などは政治演説などにも応用できる。
 パワポの見出しや作り方についても示唆に富む。

 〈第6章 空気を読むこと、予想を裏切ること〉。ここでは池上がテレビにおいて「自分はどう思うか」というタイプの解説をする人間ではない、というふうに見切るところが興味深かった。まあ、これなんかは、出版社や講演の依頼でモノを書いたりしゃべったりするときに、どういう立ち位置が期待されているか「空気を読む」ということなんだろう。
 〈ところが、〔テレビの世界では——引用者注〕空気を読んでいても、誰もが言いそうな、ありきたりなことばかりを言っているだけでは、「面白くないね」と一刀両断に切り捨てられて、やはりダメなのです。周囲が予想していた話とは、ちょっと違う角度からコメントする。それが「期待を裏切る」ということです〉(p.139)はなかなか難しい。これはワイドショーなどを見ていてもそう思うのだが、ネットの発信においても同様のことがいえるだろうと思う。問題はどうしたらそういうことが言えるのか、書けるのかということだ。
 それは本書には書いていない。ただ、まず「空気を読んで」つぎに「裏切る」ことを考えてみようよ、というのが池上の最小限のアドバイスなのだ。
 どうすればそれが書けるかということは、こういうところを読んだ方がためになるかもしれない。

mixiやブログで「読んでもらえる日記」を書く - ココロ社 ♪ほのぼの四次元ブログ♪
http://d.hatena.ne.jp/kokorosha/20090729/p1

 〈第7章 すぐ応用できるわかりやすく《伝える》ためのコツ〉〈第8章 「日本語力」を磨く〉は細かい。非体系的な雑多なコツがいっぱい載っている。そして案外こういうものが役に立つのである。面白かったのは〈誰を見て話しますか?〉〈聞き手の中に「応援団」をつくる〉という二つの節だった。
 ぼくの場合、聴衆があきてるんじゃないかと思うと、しどろもどろになってしまい、目を合わせられなくなってしまう。それが余計に話をつまらなくして、悪循環にハマってしまうのだ。
 ここで池上が細かくどういう目線の配置をするかということを書いているのは、その悪循環をまさに断つものである。聞き手の中に応援団をつくり、それを根拠地にして会場全体の空気をつくりあげていくというのはまったく気づかぬことであった。

 〈第9章 「声の出し方」「話し方」は独学でも〉。腹式呼吸に関する話。候補者などは必須かも。

 〈第10章 日頃からできる「わかりやすさ」のトレーニング〉。〈「わかる」とは、自分が持っているバラバラな知識が一つにつながるということなのだということでした〉(本書p.223)、〈したがって、わかりやすい説明をするためには、伝える相手の頭の中に、どのような知識があるのかを知ったうえで、あるいは想像したうえで、バラバラな知識が一つにつながるような論理構成を考えればいいのです〉(同p.224)という本書の指摘は、〈体系を持たぬ哲学的思惟はなんら学問的ものではありえない。非体系的な哲学的思惟は、それ自身としてみれば、むしろ主観的な考え方にすぎないのみならず、その内容から言えば偶然的である。いかなる内容にせよ、全体のモメントとしてのみ価値を持つのであって、全体をはなれては根拠のない前提か、でなければ主観的な確信にすぎない〉(ヘーゲル『小論理学』上p.84〜85、岩波)、あるいは〈社会民主主義者〔共産主義者のこと——引用者注〕の理想は、労働組合の書記ではなくて、どこでおこなわれたものであろうと、ありとあらゆる専横と圧制の現れに反応することができ、これらすべての現れを、警察の暴力と資本主義的搾取とについての一つの絵図にまとめあげることができる……人民の護民官でなければならない〉(レーニン『なにをなすべきか?』選集2巻p.82、大月)を彷彿とさせる。

 本章冒頭に新聞の活用を説く。新聞には「ノイズ」があふれている、というのだ。つまりネット時代において、「自分の必要とする情報を選択的に取得する」ということによって、自分の幅を狭めている、ということだ。池上はネット書店ではなく、できるだけリアル書店に行けと勧めているが、それもノイズが多いからだ。
 ネットのような情報の検索・選択が中心になる時代には、「ノイズ」こそ重要になる。伝える側に立つときはノイズは極力排除すべきなのだが、浴びる側としてはノイズをできるだけ多く選ぶようにした方がいい。もっといえば「良質なノイズ」であろう。すでに「新聞」や「出版物」という段階で一定の水準を保障するというフィルターがかかっているわけだから、労せずして良質なノイズが得られるのだ。こんな素敵なことはない。

 〈みんなが新聞を購読しなくなると、新聞を定期購読しているというだけで、他人に情報力で差をつけることすら可能になるのです〉(本書p.214)は激しく同意したくなるひと言。
 ネットでは「ネットがこんだけ発達した時代に新聞買うやつって何なの?死ぬの?」「マスゴミ氏ね。もうアカヒと侮日はとらない」とかいう言説が溢れているが、そういう人がふえてくれれば、書く方はとってもラクちんである

 なお、パワーポイントは恥ずかしい話だが最近よく使うようになった。しかし使ってみて思うことは、これは聴衆のなかにある主体性や能動性を奪う方向で作用するのではないかということだ。テレビをみさせるようにわかってもらうタイプのプレゼンにはよいが、勉強会のようなものには、図解アニメーションのようなものはいいとして、全体として能動性を奪い、眠るやつを増やすのではないだろうか。





講談社現代新書
2009.8.18感想記
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