いくえみ綾『私がいてもいなくても』


※ちょっとネタバレがあります



私がいてもいなくても 1 マーガレットコミックス 実に妙な作品だと感じた。

 作品そのものは、革命的なまでに中途半端で、正直、失敗している
 しかし、絵柄にはじまって、個々のエピソードやセリフは、ぐいっぐいっとぼくを引き込む力をもっている。雑誌連載ではなく単行本として読んだが、次の巻を買いにいくのが待ち遠しかった。

 作品を失敗させながらも、読ませる力を発揮させる、というのは、いくえみ綾という作家の力か。平衡感を失わせるようなそういう事態に、ぼくは「妙」さを感じたのである。

 18才のフリーターである主人公の安倍晶子は、まず、才能がないゆえにフリーターという身分でくすぶっている自分に漠然とした不平を感じている。「接客業 向いてないんじゃないかなぁ」などとウエイトレスをクビにされる。冒頭で出逢う高校の同窓生である超売れっ子の漫画家・神田川真希や、自分に「超合った」職業として水商売(ホステス)をしている親友の美穂とくらべても、パッとしない。

「いいなあ真希は
 才能あって 収入あって やりがいあって 道も決まって」
「美穂は なんかかっこいい」


 つぎに、気の合いそうで、相性のよさそうな豪快な感じの恋人なのだが、どうも浮気をしているっぽい(している)。
 そして家。母親は兄を溺愛し、晶子は自分を見捨てられた子どもだと感じている。

 ようするに、仕事でも恋愛でも家庭でも、晶子は居場所がない。
 「私がいてもいなくても」いいんじゃないかという不安とも不満ともつかぬ感情をかかえている。

 わあ、なんだか面白そうな話じゃん
 と思うだろ?
 しかし、仕事、恋愛、家族、すべてに戦線をひろげた結果、「私がいてもいなくても」という状態の抑圧から晶子がどう自己解放をとげていくのかというテーマは、どの分野でもまことに中途半端なままに終わる。まあ、大作家らしく一応の始末はつけてあるのだが、残尿感がある、みたいな嫌な感じ。

 ラストちかくの晶子のモノローグ。

「お母さん
 人から ばとうされると
 私は それが あなたのせいだと思ってしまう

 あなたが私を愛してくれなかったから
 私は こんないやな女になったんだと

 すべてあなたのせいにしたくなる

 こんな自分は
 とてもバカげていると思います」


 いくえみは、この作品で、晶子が自己肯定感をいだけない核に「自分は母親から愛されなかった」という感情をおいた。たしかにそういう感情によって自分を説明しようとする人は、いますよ。ええ。
 しかし、そういう感情とむきあうことが、晶子のような立場の人の解放や救済へとつながっていく、ということに、ぼくはまったくリアルさを感じられないのである。「母親に愛されなかった自分」的な感情を抽象的にいくら見つめつづけていても、恐らく何も出てこないだろうと思うからだ。
 じじつ、母親と兄、晶子にかかわるエピソードは、この作品のなかで余計なものだとしか思われず、兄がけっきょく晶子にとってどういう人物だったのか、兄が晶子の家にころがりこんできた意味はなんだったのか、母親はなぜ息子の自立を受け入れられたのか、すべてが宙ぶらりんのままである。

 晶子のような形象を典型的に描くためには、こんな感情は一切描かなくてよかった。

 いくえみは、ラストちかくでスランプに陥っている人気漫画家・真希と、晶子を大げんかさせるのだが、その口論の直後に、晶子に新しいネームを発見させ、こう言わしめる。

「仕事再開するの?
 よかったねえ!」

 真希は、晶子が自分を心の底では馬鹿にしているのではないか、という疑心暗鬼でいっぱいになったあとだけに、この晶子の、心の底からの祝福に、真希は不覚にも涙を落とす。そして、消え入りそうな声でつぶやくのだ。

「うれしかったよ……
 ……嘘でも

 すごく……
 ……すごく」

 晶子の顔面描写の平板さにくらべ、いくえみの、この真希の描き方は、陰影を刻み込んだ実に深い味わいがある。晶子を見つめながら片側だけ涙を流す不安定な真希の描写は、さすがに一流だ。
 つか、いくえみが外側から眺めている晶子にくらべて、いくえみの作家としての感情のリアルさが真希に反映されているのだろうと思う。

 涙を流す真希を見て、晶子は気づく。

「お母さん
 私は 欲しいものだらけだったけど
 知らないうちに
 誰かに 何かを与えているのかもしれない

 前向きでいれば もっと」

 これが、いくえみの描いた晶子の解放である。
 たしかにこうした気持ちを晶子がもてたという方向自体を、「解放」だととらえることは、ぼくもある程度は得心がいく。
 しかし、本来、こうした感情を、ひとは社会的な労働のなかで手に入れる。自分のした、どんな小さなことでも社会の役に立っているのかもしれない、と。
 フリーターという不安定労働、資本によって若年層が階層ごと「使い捨て」にされているなかで、こうした感情が断ち切られているのである。晶子の所在のなさの核心を、もし「典型」として描きたいのなら、そこに迫る必要がある。社会的労働そのもののなかに解放の契機を見い出すのだ。
 しかし、いくえみのこの描き方では、晶子が自分の考えを「矯正」することによって解放が成り立っているように見える。
 悪いのは自分だったのだ、と。

「誰や何が悪いとか 考えるのは やめにします」

という晶子のモノローグは、だれも追及していないようで、やはり自分を責めている。家族や社会ではなく、自分の「なか」に悪いところがあった、というお馴染みの古い歌になってしまっているのである。すべてを自分のなかに還そうとしてしまうのは、昨今の女性漫画がもつ宿痾だといっていい。
 晶子の独白。

「真希 あんた
 あたしが やな女だって
 いつから知ってたの」

 いや、全然やな女じゃないよ。
 あんたは、どこにでもいるフツーの人だ。
 なんであんたがそんな気持ちになっているのか、ぼくは不憫でしょうがないよ。

 おそらく、この作品のフォーカスの甘さを、いくえみは一つの反省材料にして、さらにしぼりこんだ作品として、フリーターへの「応援歌」ともいうべき、『カズン』(現在連載中)を描いているのではないか。仮にいくえみが本作を失敗作ととらえていなくても、この作品を助走にして『カズン』を描いているだろうことは推察できる。


 ぼくは、この『私がいてもいなくても』という作品で一番面白かったのは、晶子をめぐる物語ではなく、人気漫画家の神田川真希の生態と不安定さの描写である。さっきもいったけど、ここに生々しいリアルさを感じる。

 真希は表面の華々しい成功とは裏腹に、コンプレックスや嫉妬の塊である。さっき涙を流す真希の描写についてふれたが、晶子と頬のはたきあいをして、「本当は あたしのこと 見下しているくせに 友達ぶって いい人ぶって やな女!」と声のかぎり叫んだあと、髪をふりみだし、抱き止めようとする恋人を拒絶して、こう言う。

「もう いい…………
 もう いい」

 そう哀し気に突き放す真希の顔の描写には、凄みがある。
 そのすぐあとに描かれる晶子の顔ののっぺり感とくらべても、鳥肌がたつくらい凄い。

 あと、肩が凝ったといって、アシスタントをしてくれている恋人に「はじめぇ〜〜 マッサージしてくれる〜〜〜? も〜〜〜ガチガチ〜〜〜」と何気なく別室に移動しながら、晶子が作業をしている隣の部屋で実はセックスをしているという描写にも、驚嘆。
 これはぼくの出歯亀根性が大半をしめるけども、同時に、セックスを、女性への癒し的マッサージだととらえるセックス観を提示されている感じがして、なんか新鮮だったわけ。





※『カズン』の感想はこちら

集英社 マーガレットコミックス
全3巻
2005.12.30感想記
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