『私の結婚式!』 会費3,500円 ぼくの結婚式は、会費制だった。 1人3500円。吹き出す人もいるかもしれないが、総勢87人を呼んで、区民センターの会議室でやったのである。
「手作り」というのは文字通り「手作り」。かざりつけの花などは、実行委員会が超安いバラなどを大量に買ってきたり、模造紙などで会場を装飾。スライドの作成。死蔵しているビール券の供出。料理は生協で頼んだ。保育園の誕生日会というふうにもいえるのだが、それをみっともないと思うか、手作り感満載でGOOD!と思うか。 実行委員の一人は、「労働価値説を実感した」と冗談まじりに言った。つまり商品・商サーヴィスが充当されるはずものを、すべて実行委員の「労働」で代替したのだから、大変だったのだ。出欠案内、会場のかざりたて、料理(一部)、司会……すべて実行委員会が働いた。 このようにして「簡素にして効率的な」行政改革、ではなく、結婚を祝う会が可能になった。 ぼくらは人前式だったので、神仏ではなく、参加者にたいして「誓いの言葉」をのべたのだが、そのなかの1つの章(全4章だて)で次のように書いた。 〈実行委員会にお願いしたことは、二人のありのままの姿をみなさんに知っていただくし、みなさんからもストレートにお祝いしていただきたいと考え、中身はきちんとしたものにしたうえで、形式は分相応・簡素なものにしてほしいということでした。/お金をかけて、いい披露宴になるものもたくさんあります。しかし一部には、かけたお金の量で祝いの気持ちのモノサシにするという逆立ちした風潮もあります。そのことへの問題提起になればという気持ちもこめられています〉 世間相場は300万円 このようなエラそうなことは、実行委員会の力によってのみ可能となった。「不況にやさしい結婚式」などとバカなことを言いつつ。 実行委員会のニュースを発行し、そのなかで、当時の結婚情報誌「ゼクシイ」(99年7月号)に載った結婚費用と比較した。 ●ケースA・90人招待=365万円 ●ケースB・85人招待=400万円 ●ケースC・70人招待=300万円
料理と衣装が、ぼくのときと比べて大きな差になっていることがわかる。あわせると約10倍である(ぼくもつれあいもふつうのスーツだった)。 二人を知っている人は、あるひとつの角度からしか二人を知らない。 それで、祝福される人間を多面的にうかびあがらせる、というのを会のコンセプトにした。スピーチやスライドはもちろんだが、ぼく的に力を入れたのはパンフレットだった。あいさつ、祝福の言葉、21人の友人による二人の紹介、自分史、職場ルポ、インタビュー、そして二人の生活を描いた自作漫画(5ページ)をふくめて全部で70ページのパンフをつくって配布したのである。もちろん「つくった」のは実行委員。取材も編集も執筆も。ぼくの予決算をみるとパンフ費用が花代をこえているのは、そのせいなのだ。 実行委員会方式の結婚式 会費制の実行委員会形式、というのは、ぼくのサヨ友人に実に多い。ぼくも実行委員に5〜6回なったし、そういう形式の会には10回以上出席し、すべてパンフレットを保存してある。この形式の結婚をする人は、昔から労働組合メンバー(昔は4割近くが組織されていた)に多かった。 実は、つれあいの父母も、この形式で結婚している。 この形式が流行したのは、ひとつは戦後の貧困期のなかでの費用対策(会費制)という面があるのだが、同時に、イエとイエの結婚ではなく、個人同士の結婚、憲法24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」の理念の実践でもあった。「○○さんと○○くんの結婚を祝う会」という名称であることが多いのはそのせいである。 イエ制度にしばりつけられるなかで自立した個人が生まれず、ゆえに民主主義が育たず、ゆえに戦争と抑圧を育んでしまった、という痛苦の反省のもとに生まれた憲法を、生活のそこかしこから実践しようという、戦後の息吹がこの形式の結婚式のなかにはある。いわば文化運動なのだ。 なので、この実行委員会では、まず実行委員会を何度も開いて実務上の打ち合わせだけでなく、「結婚の意義」みたいなのも討論されたりする。喫茶店「ルノアール」を占拠してよくやりました。「平服」にするか「普段着」にするか、案内状についての激論もあった(笑)。ときどき、二人の結婚観の甘さをド詰めにする人もいて、紛糾する。そういうことを積み重ねるわけだ。 これだけが原因ではないが、イエとイエの結婚から、個人同士の結婚という流れはもはや止め難い奔流である。個人の幸せを尊重するのが当たり前というのは、すでに達成された日本社会の空気だ。そこにはこうした先人の努力があった。まあ、多少はね。 14人がまとまっているのがミソ ![]() ぼくは、はじめ、この本が本屋に平積みになっていたとき、あまり面白そうだとは思わなかった。いやまあ深いイミはなくて、単に西村しのぶが表紙だったので、かざりつけとか着るモンだけの話みたいな印象を受けてしまったのである(事実、西村のエピソードはほぼそういうものだった)。 しかし、他に買う本がなくて渋々手にとってみて、まったく反省した。ものすごく面白いのである。「人気漫画家14人がセキララに告白 結婚体験コミック!!」というのがオビなんだから、よくよく考えりゃ面白いのは当たり前なのである。二ノ宮知子と西村しのぶ以外は、すべて書き下ろしで、なるほど「十人十色」のふれこみどおり、それぞれに特徴がある。 どうも各人にテーマを与えて書いてもらっているようで、それが企画としてはよかったのだろうと思う。 エピソードごとに、ブライダル・コーディネータ−からコメントをもらっていて、漫画家の描いた漫画がいちいちその端的な例証になっているのだ。 この本のスタンスのよさは、このコーディネータ−のコメントが、式・披露宴の多様性をしっかりとふまえたうえで、それぞれの長所を強調し、同時に苦労する点などをおさえていることである。 〈人前式は、様々な面白い演出が可能です!〉 〈マタニティの場合、大切なのはスタートダッシュ!〉 〈外国の方との結婚式は、実は大変なこともいっぱい!〉 ここに登場する漫画家たちは、実は独自の結婚(式)観をもっている。「こういう結婚式がしたい!」と思うのだから、当たり前の話である。しかし、それらは単独で載せられると、実は非常に戦闘的な発言になってしまうのだ。ぼくもまったく人のことはいえないが。 たとえば、こうだ。 「(上司とかの)長ったらしー挨拶とかも絶対ナシね」(堀内三佳) 「結婚式は『結婚を誓ってお知らせして皆と楽しく過ごす』ものであって『とつぜんお姫様になってちやほやされる会』ではありません」(内田春菊) 「パーティーを開いて大勢の人に祝ってもらったほうが夫婦円満が続くんだぞ」(桜沢エリカの漫画中でのDr.コパの発言) 「大げさなプロの司会が恥ずかしかったので」(おかざき真里) もちろん、これらの発言は自分の感想であって、他人に押し付けるものではない、という言い分もあろうが(内田春菊はそうじゃなさそうですがねw)、とにかく単独でこういうセンスだけを強調されると、そうでなかった結婚式をした人は否定された感じがしてイヤなものである。 ところが、14人をまとめて、それぞれの価値を認めてコメントするコーディネータ−をつけると、まったく不思議なことに、本全体としては、これらの個性が「多様性」となって立ち現れてくるのである。まったく企画の勝利というほかない。一人ひとりが別々の単行本でやったら、このメンツの場合、かなりキケンなものになった可能性もある。 花嫁姿を描く自意識 面白かったのは、まず、自画像。 花嫁姿になるわけだから、漫画ではそのあたりの美意識をどう調整するのか、というのはひとつの見ものなわけだけども、さすがに手練が多く、美人には描かないくせに、グラフィックとしてそれなりにかわいく処理してしまうのだ。 高瀬志帆は、クマを自画像にしたのだが、それではかわいすぎると思ったのだろう、目を白い半月型にし、それでも足りないと思ったのか顔にヤクザのようなキズを入れた。こういう「オモリ」をつけて自意識を調整する様は見事だ。 笑ったのは『しまいもん』で有名なIKARING(イカリン)で、異形の生物を描いている。高瀬のように「ちょっとふてぶてしいかわいさ」ではなくて、本当にキモいのである。頭はヘルメット、裸、二頭身でキバが生えている。杉浦日向子の『百物語』で道ばたで殺される小さい鬼の描写があるけど、あんな感じ。 実は結婚相手のクリちゃんが、ものすごくつくしてくれるやさしい男性として描かれていて、もしイカリンの描写がフツーであったら、このクリちゃんという男性は相当イヤミな、あるいは自慢臭芬々たるものがあっただろう。 イカリン本人の描写をここまで自虐的にやることで、非常に均整のとれた漫画になった(ただし、イカリンはその後もエッセイで自分を登場させるとき、この「異形の生物」を使っている)。 宇仁田ゆみの〈わたしは昭和初期の文学青年のような造形なのですが…〉という自己評価にも笑った。ついている絵がしっくりきたのだ。 さて、それぞれの人の結婚式について。 ぼくと正反対のおかざき真里 まず、おかざき真里だが、これはよくも悪くもぼくと反対の対応をしている。 一つは、結婚式のコンセプトを、“個性的ではないことによって、相手方両親・親族を「敵」にまわさない”としたことだった。おかざきは広告業界にいたので、特異な同僚たちの空気があるのだ。そこに「異文化」をもちこまないように心がけたのである。 ぼくの場合は、つれあいの親はまったく違和感がなかっただろうが、ぼくの親や親族からすれば天地がひっくりかえるようなものだっただろうと思う(わが子を不憫に思ってくれたのかどうかしらないが、後日ことあるたびに「あの式はよかった!」「みんなもああいう式をやるといい!」としつこく父親が言ってくれたのは救いだが)。 もう一つは、時間を削減するために、お金を投入したことである。ぼくの場合は先述のとおりだ。 ただ、いずれもぼくが読んでも不快さはなかった。時間がないときにお金で解決するというのは、条件がある人はどんどんすべきだと思うし、結婚式を異文化衝突にしないというのもよくわかる。実は、サヨ友人たちの「実行委員会」形式では、しばしば若い実行委員が暴走して、非常に浮いた会にしてしまうことがあるので(親族ついてこれず)、こういう配慮をおかざきが働かせるのは、共感できるのである。 高瀬志帆は、〈「一生に一度」なんだしサ〉〈←コレを言いだしたら この病気にかかったと思ってください〉〈『花嫁ドリー夢』病!! 結婚式のことを考えるあまり うっかり雰囲気にのまれ凝り性になってしますのです!!〉〈処方せんはありません… 式が終わるのをじっと待つだけです…〉に笑わせてもらった。 それと、夫の親が非常にウルサイのは、読んでいても辟易するくらいだから、実際に言われるとたまんないだろうと思った。教会式でいいと言ったはずなのに、聞いていないかのように和装でやれと注文してくるのである。 夫がガツンと言ってやれよ! とツッコみたくなる。 親を喜ばせるために式をあげる、というのがこの二人のコンセプトで、ぼくとは縁遠い話なのだが、いろんな理由で挙げる人がいるものだなあと思い読む。 宇仁田ゆみは〈いいかげん腹をくくって 新婦はピエロになりなさい!!!〉という宇仁田ママの発言は、ある意味、的を射た新婦観だといえる。「恥ずかしい」という羞恥がどこまでもつきまとうのだが、こういう割り切りの言葉はキクのではないかと。 ぼくはまったく興味がおきなかったが、宇仁田が自分でブーケをつくっていく様などは、つれあいが楽しそうに読んでいた。 桜沢エリカ。高輪プリンスでの挙式。有名な人的資源の動員。うむ、ぼくに先入観があるせいだろうが、端々にイヤミなものを感じてしまう。 堀内三佳。13年前の結婚式なので、いまでは合わないところもあるのだろうが(ぼくだって7年前だ)、かなり戦闘的・批評的である。堀内夫妻が一つひとつ注文をつけるのだが、式場がとんちんかんな対応をするのである。 金屏風をどけない、というのは驚いたし、ブーケがイメージ通りにできない、というのも今では考えにくいことではないか。 堀内の話に出てくる〈この人を呼んだらこの人も呼ばないと釣り合いが取れないって事になるんだよ!〉というオット氏の叫び。これは、親戚や友人を、親しい度合いによってレベルA・B・C……と階層化していくと、A・B層までと決めたのに、うかつにC層の一人を呼んでしまうと、ひきおこされる問題なのだ。C層全員を呼ばねばならなくなるというバランスの問題がおきるのである。 ぼくのときもこれで少し頭を悩ましたし、政治家志望の友人のときは、かなり極端な問題を引き起こした。その友人は親族や友だち中心の式と後援会関係者を呼ぶ式を分離した。前者のときは、150人程度でおさめ、後日、後援会の関係者を呼んだときは400人だったということである。 かわかみじゅんこ。野菜をもう少し注文してほしいと頼んだときの、舅の絶句が見もの。 非常に不快な内田春菊 さて、最大の問題が内田春菊。 実は、スタイルが人前式で、かなりぼくに近い。家を明確に否定するという精神もよく似ている。なのに、なにこの不快さは。ぼくの結婚式がこういう不快さで出来ているのかと悩むじゃないか! いちばんひどいと思ったのは、義父が唄いたいというのを否定するくだりである。 〈ミュージシャンにいっぱい歌や演奏頼んでるんだよ〜? しろうとと混ぜるなんて失礼だし出来ない〉〈(フキダシの外に)しごとじゃなくてもお祝いいだたくんだしね 「こういうセンス」って判断されちゃうんだよ!?〉 パートナー(ユーヤ)は〈歌わせてあげたそうに見えました〉だと。そして、再三の義父の提案をもはねつける内田に、ついにユーヤは不機嫌になってしまったのである。 ひどすぎるではないか。 いや、義父の希望を聞いたかどうかということではない。明らかに内田だけのための結婚式のようになっているからである。パートナーであるユーヤの気持ちが斟酌さえされないというのは、どう考えてもおかしいだろう。 〈どうしても嫁の稼ぎが家計を支えているということが理解できない(又はしたくない)ようでした〉という内田のセリフがあるのだが、その裏返しとして、「家計を支えていない」ユーヤの気持ちが無視されているかのようで、ぼくは非常に不愉快であった。 このように、読んでいて不快になったのである。しかし、こうして納得がいかないケースも載せられているのは、この本の貴重なスパイスで、内田の漫画が入っていることはこの本にとって欠かせない要素なのである。 なんで信じていない神の前で誓うのか ちなみに、会費制や実行委員会形式、そして内田春菊のような人前式を「奇異」に感じる人間もいるようで、旧友の夫がぼくらの式の写真をみて「宗教のようだ」などとぬかしやがった! 奇異=新興宗教というわけである。 むっきー! なにを言うか、このべらぼうめ! 実はその旧友と夫は、信じてもいないキリスト教会で結婚式を挙げたのである。おまえらの方がよっぽど「宗教」だろ! ところで、つねづねわからんのは、なぜ信じてもいない神様に、自分たちの「永遠の愛」を誓うのかということなのだ。信じてもいないものに誓うことで、すでに裏切る気まんまん、というロジックにはならんのだろうか。 〈フォイエルバッハの観念論は、いまの場合、こういう点にある、すなわちかれは、相互の愛情にもとづく人間どうしの関係、性愛とか友情とか、また同情、献身などということを、かれにとっても過去のものにぞくしている、ある特定の宗教にむすびつけることをせずに、それ自身あるがままの形でみとめようとはしないで、性愛、友情、等々が宗教の名によっていっそう高い神聖化がなされるときに、はじめて完全な価値あるものになる、と主張していることにある〉(F・エンゲルス『ルートウィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結』) はい、すいません。感情的になりました。考えすぎずにフツーに神前式を挙げた方には不快な発言でしたね。あの、この友人の式にはちゃんと出席して祝福していますし、他の方の式でももちろん出席して賛美歌を歌い祝福しております。はい。 現在の神前・仏前・人前 中国新聞のサイトによれば、現在、神前・仏前・人前式の割合は、広島県の場合で教会・チャペル式=約6割、神前式=約2割、人前式=約1.5割 とある。「神前」と「教会」をわけてあるのがおもしろいのだが、この分類がふつうらしい。 考えてみれば、神社に人生の一大事を祈願しているし、人の死に際してあまり信じてもいない仏教にたよったりと、こういう「信仰」のあり方自身が日本人らしいわけで、目くじらをたてるようなことではない。 結婚式をあげた人が読むのが一番面白い 本書にもどります。 二ノ宮知子。この話は『平成よっぱらい研究所』で読んでいたが、何度読んでも笑える。とくにドレスを買いに行くくだりは、もうサイコー。 小玉ユキ。高野文子似のスタイリッシュな絵柄。友人関係のパーティーのドレスを自分で作ってしまうのだ。〈実は…中学校の家庭科以来裁縫なんて「雑巾」くたいしか作ったことがないんだよな〜〜〜…〉って、アンタ、それでつくっちゃうというのがすごい! ミュージシャンやってる大学の先輩にアコースティックライブ。うむ、ぼくも一度他人の「祝う会」で聞いたが、ものすごいうまさ&迫力だった。 同じ「手作り」ではあるが、こちらはぼくのときのような「保育園のお誕生会」ではなくて、もっとカッコイイ「手作り」。万人がめざすのはこういう「手作り」でしょう。まあ、ぼくには絶対合いませんが! ギコハハハハ! うつろあきこ。もっとも絵柄がカワイイ。いえ、ぼくの好みというだけですがね。ゆえに、一番何度もページを開きたくなる場所だった。神父がうつろの漫画を長々と評してくれるのが、彼女にとって羞恥プレイだというのは可笑しかった。 小野佳苗。これもある意味ぼくと対極で、莫大な費用をかけた結婚式である。打掛のレンタルが80万円て、あーた。この小野の話のなかに出てくる〈遠方から来られるお客様のためにもこれくらいの式でお迎えした方が〉〈お仕事的にもこれ以下というのはちょっと〉は商業的式場の殺し文句である。ぼくも、他人の実行委員会形式の会を、式場などでやることがあったが、必ずこの殺し文句が出る。しかし、これにビビる必要はない。本当に経費節減をしたいのなら、そのむねを言うべきである。式場はなんのかんの言っても、あとで知恵を出してくれるものだ。 藤臣美弥子。漫画としてはひっかかりが一番悪かった。画風で損をしているのと、暴走ぶりが空回り。読者がおいてけぼりにされた感じがある。 西村しのぶ&ラストのイカリンは先ほどのべたので省略。 この本は、これから結婚する人のための指南書のつもりだろうが、どちらかというと、すでに結婚した人が自分のことをふりかえりながら比較するというのが一番面白い読み方だろうと思う。 ぼくもつれあいも、二人でわいわい言いながら長時間楽しんだ。 面白い、というか楽しめる漫画であった。第二弾を希望します。 |
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