小栗左多里&トニー・ラズロ
『ダーリンは外国人 with BABY』




 エッセイコミック『ダーリンは外国人』を描いた小栗とトニーに子どもができた。本書はサブタイトルにあるように「子育てルポ」である。

パリパリ伝説―不思議いっぱいパリ暮らし! (1) (Feelコミックス) 巻末にエッセイ4コマ漫画である『パリパリ伝説』を描いたかわかみじゅんこ夫妻との座談会が載っている。かわかみの『パリパリ伝説』はフランスの異文化の中での子育てについての新鮮な事実の紹介にその醍醐味があるのにたいし、本作の面白さは、最もオーソドックスな「あるある」感、共感タイプのおもしろさである。そして絵柄から生じる赤ちゃんのかわいさも非常にオーソドックスなかわいさである(後ろをむいている赤ちゃんの描写が個人的にはかなりかわいいと思う)。

「昨日まで体の中にあったものが
 今
 目の前に
 出しといて何だが

 不思議だ…」

 これ、うちのつれあいがものすごくよく言うセリフに似ている。産んだ直後もそうだし、ずいぶんたってからも「3カ月前はコレ、いなかったんだよねー」とか、「もうこの子がいまお腹にいたら(大きすぎて)絶対産めんわ」とか、妊娠中の胎児の「不在」と、出産後の乳児の「存在」とを比較しその不可思議について、くり返し語るのだ。
 ぼくなんかそういう感慨は乏しいのだが、あんまりくり返しつれあいが言うもんだから耳に残ってしまい、そこへきてこの小栗の描写だから女性一般にこんなことを感じるのかな、と思ったものである。

 そして、小栗が赤ん坊だけをじーっと見つめる日々を送っていると、突然夫(トニー)の顔をみたとき、

「でかっ 何これ
 この凹凸!!
 毛!!
 毛が!!」

と大騒ぎしているのだが、これもうちのつれあいが執拗にぼくに言う。娘の顔をずっと見たあと、ぼくの顔をその横でみると、死ぬほどデカいと感じるんだそうである。「なんでそんなにでかいの……」とびっくりしたようにいう。しかもくり返し。

ダーリンは外国人 with BABY  そんなもんだから、小栗のこの描写を見た時、やっぱりそういうふうに感じる人がいるんだーと、つれあいの感慨の普遍性について思いを馳せた。

 トニーが赤ん坊にたいして「話しかけ」をなかなかせずに、赤ん坊を独りで遊ばせて見ている「だけ」になるエピソードがある。
 実は目下のぼくの悩みでもある。そう、そうなっちゃうんだよね。一人で見ていると。つれあいといるときは、非常に活発な語りかけ合戦になるのに、一人でいるとホントに語りかけが乏しい。ヤバいのではないかと思えるくらいに。

 ぼくの母親とか、亡くなった祖母とかは、のべつまくなしに語りかけていた。「ほーら、ワンワンだよー」とか。「あっ、あそこにブーブーが行くよー」とか。
 ぼくの場合、赤ん坊に必ずも明確な反応がないということと、言葉を語りかけてどうなるんじゃいという気持ちがどこかにあるので、ついつい黙って赤ん坊と向き合いがちなのである。外でベビーカーなどを押しているときは恥ずかしさも手伝ってなかなか「かまって話しかける」的にならないのである。
 そして、まさにトニーのごとく「おっぱー」「しゅわわわわー」「じゅびじゅびじゅぱーっ」とかいう具合に、話しかけるときは「擬音」が多い。実に多いのだ。あと娘の口まね。

「かゆを食べさせるとき、だまって事務的に食べさせてはいけない。『はい、あゆみちゃん、おかゆ、たべましょう』『さあ、きよしくん、ああしてちょうだい』というふうに、日本語を動作とむすびつけておしえる。ほとんどすべての母親は、子どもへの愛情から、自然にこうやっているので、しらずしらずに言語教育をしている」(松田道雄『定本 育児の百科』中p.199)

「外にでたら、赤ちゃんにはできるだけ話しかけてやる。母親が話しかけてくれるから、赤ちゃんはものの名をおぼえるのである。全然話しかけなかったら、いつまでたっても、ことばがいえない。犬がきたら、『ほらワンワンがきた』といい、きれいな花をみつけたら、『ああ、きれい』というのは、ものの名をおしえるだけではない。あらたなことがらに敏感に応ずるというセンスの教育もしてるのだ」(同前p.77)

 そう、まさに、うちの母親や祖母などは自然な愛情の発露として話しかけをおこない、無意識の言語教育をしているのである。うちの団地のすぐ上に飛行機がとおるのだが、わが母はうちに手伝いにきてくれると実にマメにそのつど娘を抱いて「ほーら、飛行機だよー」と熱心に見させる。言語教育をしようという意気込みではなく、非常に素朴な愛情の発露としてそれをやっているので、こっちが頭が下がる思いである。

 「センス」という点でもぼくには不安がある。

 ぼくなんかが近所に散歩に出て、「あらたなことがらに敏感に応ずる」というのは、「あれっ! ここ取り壊したのか!」とか「おりょ! 公明党のポスターが貼ってある!」とかなので、素直に赤ん坊に伝えると「ほーら、取り壊しだよー。アパート経営するんだねー」とか「ほらほら公明党の新しいポスターだよー。また太田代表の全身像だねー」とかになってしまうのである。いちいち犬だ、とか自動車だ、とかには「あらたなことがらに敏感に応ずる」というふうにはならないのである。

 赤ん坊をまかされてしばらくは何かしているが、やがて黙ってしまったというトニーを見て、ひょっとしてトニーもそうなんじゃないかなーと思ったのである。

 あと、赤ん坊ウケのツボを探す、っていうのも確かにやる。小栗とトニーがそのウケを競っているのは、我が家で見られるのと似た光景である。
 そして、昨日ウケたものは今日はウケないということがあるし、むちゃくちゃどうでもいいことに大ウケになったりすることがある。これも小栗家と同じである。
 うちでは、歯をみがいているとものすごくニンマリと笑ったりする。腹這いで馬乗りにすると最初は大笑いしたけど、今は背中で馬乗りでないとウケない。なんで?

 他方で、小栗の態度について「神経質だなー」と思ったのは、赤ちゃんに離乳食をあげるときに大人の虫歯菌を入れないように非常に厳格にしていることだった。母親が赤ちゃんの口についた米粒を手でとることさえ許さないのである。
 ぼくも大人の口内細菌を赤ん坊の口に入れないように注意はしているのだが、離乳食が熱いかどうかたしかめるために、ぼくなんかはついつい唇にあててみたりするし、つぶし残しのニンジンなどがあるとパクッと食べてしまう。たしかに一度でもこうしてしまうと意味がなくなってしまうわけだが、それにしても厳格すぎやしないかとズボラなぼくは思うのである。

 トニーが、外でハイハイさせることや階段などでのハイハイを主張しているのは、実はぼくの刺激になり、さっそく、本や箱を組み合わせて部屋の中に2段の小さなステップをつくってみたものである。そうすると、さっそく娘は遊びはじめ、たちまちのうちに「つかまり立ち」をするようになったのである。
 これは本書を「育児書的指針」として使った唯一の例であった。

 あと、モロー反射(突然おどろいたように手足をつきだし、なにかにつかまろうとする行動。原始反射の一種)を「発明」と名付けているのは夫婦で笑わせてもらった。言い得て妙。
 子育てをしてない人はどう感じるかわからないけども、子育てしている人間には、自分の子育てをなぞりながら楽しめる一冊である。







メディアファクトリー
2008.3.22感想記
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