真鍋昌平『闇金ウシジマくん』
――呉智英の「平板さ」にもふれて



※9巻の感想はこちら

 前回につづいてまた呉智英ネタで申し訳ない。
 前回ぼくは、呉について、オタク的知識の幅広さ、古典や教養をひも解くペダンチズムゆえに面白いけども、その論じ方に「平板さ」があって、それは呉が戦後民主主義や左翼的良識への対決を売り物にしてきたために、その仮想敵の影響力が小さくなった現在では単純な対決図式だけが残ってしまったことを起源にしている、というむねを述べた。

 この「平板さ」について、『団地ともお』や梶原一騎、近藤ようこの作品などを例にぼくはのべたが、たとえばそういう「平板さ」は、『闇金ウシジマくん』の読みなどにも現れてしまう。

マンガ狂につける薬 下学上達編 呉は『マンガ狂につける薬 下学上達篇』において、「爛熟した文明に出現した『下流』」と題して、三浦展『下流社会』とあわせて真鍋昌平『闇金ウシジマくん』を評している。

 はじめに結論を書いておけば、ぼくはこの呉の『ウシジマくん』評にある程度までは同意するのだが、やはり彼の左翼・戦後民主主義との対決を売り物にしてきたある種の図式主義が読みの「平板さ」を生んでしまっているのだ。



いきなり戦前やアフリカの貧しさと比較する手法


下流社会 新たな階層集団の出現  呉は、まずマーケティングの統計や分析を駆使する三浦の『下流社会』を「身も蓋もないほどリアルな目」(p.202)と高く評価したうえで、次のように述べる。

「これまでもしばしば日本の貧困層に目を向ける研究者や評論家はいた。古くは、十九世紀末の明治三十二年に刊行された横山源之助『日本の下層社会』(現、岩波文庫)があるし、戦後も、政府が高度成長経済政策を進める中、その恩恵を受け得ない人たちの姿を描いたり、一億総中流化が言われると、これに異を唱えたりする人が多く見られた」(p.202〜203)

 そして、「これらは概して社会主義的立場に立つもの」(p.203)と断じている。社会主義的だから階級支配に原因を求め、その変革をよびかけておるのだとさらに断定を重ね、次のように結論づけていく。

「こうした主張は確かにある時期まで、それなりに有効であった。しかし、かつてないほど爛熟した消費文明が社会に浸透する現在、この種の主張は説得力を失いつつある。日本では、ホームレスの生活でさえ、アジアやアフリカの貧しい国の人たちより衣食住すべてにおいて優り、それでいて彼らは精神的には追いつめられ無気力になってきている。現代の日本における社会格差は、単なる経済上の格差なのではなく、それも含んだ文化的格差であり生活意識の格差なのである」(同)

 呉は現代の「下流社会」の人々を「勤労意欲、学習意欲、生活能力などの、人生への意欲が乏しく、その結果、収入も少ない。つまり『だらだら生きている』」(同)と規定し、「彼らは、パラサイト・シングル(実家に寄生する独身者)に象徴されるように、経済的には必ずしも極貧ではなく、しばしば買い物好きで、カラオケやインターネットも楽しむ」(同)とその姿を描いていく。

 呉の論立てで特徴的なことの一つは、わざわざ戦前の貧困や第三世界の貧困との比較を持ち出して、「単なる経済上の格差ではなく」という否定をおこなっている点だ。あるいは「必ずしも極貧ではなく」という規定を持ち出していることもこのことにかかわっている。



絶対的貧困観――貧困観の貧困


 ここには、「貧困観の貧困」がある。

 生きるか死ぬかという絶対的生存水準を基準に「貧困」をイメージする発想が抜き難く存在しているのだ。もちろんそれは呉に特異な発想なのではなく、広く社会に存在する。「貧困」ときけば「アジアやアフリカの貧しい人たち」しか思い浮かべず、隣に住んでいる「生活保護世帯」や「ワーキングプア」のことなどは多少は所得が低いけども「やる気のない人々」だとくらいにしか思っていない人は、ごまんといる。呉はそうした保守的心情にのっかって、それを多少ソフィスティケイトした物言いで提供しているにすぎない。

 そもそも。

 三浦の『下流社会』は、基本的に客観的な階層分類ではなく、「階層意識」にもとづく分類である。
 つまり、客観的実態として自分がどういう階層に属しているかではなくて、自分がどの階層に属していると「思う」かを基準に分類されているのだ。
 これは社会政策ではなく消費行動やマーケティングの分析なら正しい。なぜなら、客観的実態ではなく、主観こそがマーケティングでは大事なのだから。客観的に当該の人にとってその商品が必要であろうがなかろうが、商品を買いたいやつは買うのだ。

 意識にもとづく分類をする以上、その差が文化的格差として現象するのはある意味当たり前の話だ。呉のように、そういう分類の話を、経済的実態や貧困下層の問題とごっちゃにし、経済的貧困の現実を否定してみせる必要はない。呉が意識的にやっているとすれば反サヨクとしての呉の面目躍如といったところだろう。


 「貧困」をどうとらえるかには、学問上長い発展の歴史がある。
 「古くは、十九世紀」、絶対的な生存水準を基準に貧困を考えたイギリスの学者・ラウントリーの貧困論で、こんにち「絶対的貧困論」とよばれるものだ。

現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 「たとえば彼は『単なる肉体能率の維持』を、汽車に乗るとかバスに乗ることはしない、新聞はとらない、手紙も書かない、教会の献金もしない、たばこもビールもなし、子どものおもちゃも菓子も買わない、無料診療、無料葬式に頼る生活だ、としている」(岩田正美『現代の貧困』ちくま新書p.40)

 ラウントリーは、当時発達をはじめた栄養科学にもとづいてカロリー計算をし、それを満たす必要な財貨を食糧を中心につみあげ(マーケット・バスケット方式)、生存水準をはじきだす。肉も新鮮な肉はダメで、ワークハウスという労役場で提供されるよりもさらに低額であることを強いた。
 ラウントリーの貧困論は、必要なものを積み上げ貧困を客観化させるために大きな役割を果たしたのだが、こんにちの専門学問や行政の公式的立場においてはこのような見解はもはや「説得力を失いつつある」。日本でも戦後すぐの生活保護はマーケット・バスケット方式をとっていたのだが、朝日訴訟を契機にその考えを改めている。

 しかし、市井ではしぶとく生き残っている考え方で、生活保護にたいして「ぜいたくだ」という非難があびせられるとき、その非難の基準はたいがい「絶対的貧困」にある。それは裏返されて、安易な戦前や第三世界との比較になってあらわれるのである。

 ヨーロッパ諸国が貧困をくり返し「発見」するという歴史を重ねてきた、すなわち「あってはならない生活の水準とは何か」をくり返し議論してきたのにたいし、日本はそうした議論の経験を欠き、高度成長期が終焉した80年代以降などはもはや貧困など「ない」かのように扱われてきたのである。
 社会学者であり貧困の問題を研究してきた岩田正美は、最近にわかに「ワーキングプア」や「貧困と格差」が騒がれた世情を批判的に見ながら次のように言う。

「その前提には、つい最近までの『豊かな日本』には貧困はなかった、という認識があるのだろう。/実際、日本では高度経済成長以降、多くの人にとって『貧困はもはや解決した』ものとなり、貧困という言葉を使うこともなく、貧困調査もほとんどなされなくなっていた」(同前p.8)

 似た事情は「階級」「階級社会」という言葉についてもいえた。やはり社会学者である橋本健二は自分の研究者人生をふりかえって、

階級社会―現代日本の格差を問う 「ゼミや研究会の場でも、日本は九割が中流の平等な社会であり、西欧のような階級はなく、マルクス主義の階級理論は日本にはあてはまらないというのが自明の前提とされていて、誰もそれについて実証が必要だとは考えていないようだった」(橋本『階級社会』講談社選書メチエp.13)

とのべている。
 「一億総中流」という言葉、戦前の日本や「アジアやアフリカの貧しい国の人たち」をひきあいに出して「貧困」を論じる呉の姿勢は、まさに呉が左翼・戦後民主主義文化の「硬直性」を切って華々しく活躍してきた80年代の日本の論壇状況を反映している。というか、呉のなかではそこで時間が止まっている。80年代には輝いたリアルさだったが、貧困と格差が大きな問題となってきた21世紀では、いかにも古めかしい。呉が拠っている保守的心情の正体は、けっきょく19世紀の貧困論と80年代に猖獗をきわめた「一億総中流論」でしかない。

 前述の岩田は、まるで呉の議論を想定したかのようにこう警告している。

「貧困という問題を考えるときには、この『あってはならない』という判断をめぐる議論が避けられない。貧困をしつこく『再発見』してきた国々では、何を『あってはならない』状態とするかについて、多くの議論が積み重ねられてきた。ところが、日本の議論では、そうした議論の蓄積がないまま、アフリカの飢餓に象徴されるような『本当の貧困』や戦前の貧困と現代日本の貧困がいきなり比較されるような、乱暴なことが行われている」(岩田p.10)



足立区における貧困は三浦的「下流」なのか


 この発想は、格差問題を「あってはならない貧困」の問題と見ないことともつながっている。呉の頭のなかでは経済格差はたしかに存在してもそれは「アジアやアフリカの貧しい国の人たち」に比べても「極貧」ではないからと許容され、「だらだら生きている」という生活態度、文化の格差の問題として把握されてしまうのだ。
 呉はわざわざ「『下流な』人たちが多く住んでいるのは、東京なら○○区、鉄道でいえば○○線沿線だろう」(p.204)と思わせぶりな伏字までおこなっているのだが、三浦展の指摘する「下流」と比較しても、これはいかにも狭く、呉の「下流」観が透けて見えてしまった瞬間だった。三浦以上に呉には「貧困」を強く否定する心情が働いているとみるべきだろう。

下流喰い―消費者金融の実態  ちなみに、「下流」と「○○区」の結びつきでいえば、サラ金やヤミ金の実態を描いたルポ・須田慎一郎『下流喰い』(ちくま新書)があげられる。その本で、須田は自分の生まれ育った街として東京・足立区を論じる。

「足立区の地域的特性として、どうしても貧困の再生産が起こりやすい。国民年金はいうまでもなく、国民健康保険料を滞納している住民も不気味なほど増えているようだ。/私自身、好きな言葉ではないのだが、新住民の多くがそっくりそのまま負け組になっている――そうした苦い現実を、現地を歩くと認めざるをえなくなるのだ」(須田p.99)「低所得層の住民が他の区よりも相対的に多いため、児童生徒総数の実に二人に一人が就学援助を受けており、度々、メディアでもとりあげられるようになった」(同p.100)

 そして、須田は足立区での「主婦売春」の話を書いていく。
 ここでは「下流」という言葉が、「足立区」と結びついている。
 が、須田はあまり深い考えでこの言葉を使っている形跡はない。ちょうど自著の1年前に流行りだした三浦のタイトルに便乗した程度の話なのだ。三浦の分析をふまえて「下流」という概念を使っているわけではない。むしろ須田が描いているのは、「食うや食わずの困窮生活をしている人」(三浦p.5)とその周辺、いわば「下層」である。

 足立区は須田が述べているように低所得者が多く、平均所得は東京23区平均を100とすると71しかなく、23区内でダントツに最低である(前述の橋本p.61)。呉がこれを三浦のいう「下流」だと想定しているなら、三浦が追い求める消費行動分析などごく狭い地域での話でしかなくなってしまう。

 つまり、呉の「下流」観は、三浦の「下流」観をゆがめ、経済的貧困にあえぐ下層のことを三浦的な「下流」だと規定してしまっているのである。



『ウシジマくん』を「ダメ人間列伝」とみる「読み」


闇金ウシジマくん 1 (1)  そうなると、『闇金ウシジマくん』の読みにもどういう影響を与えるのか。

 呉は、『ウシジマくん』に描かれた闇金にからめとられる人々を「人間のクズ」と呼び、『ウシジマくん』は「クズたちの矜持と哀しみ」を描いたものだと断じている(呉p.204)。
 貧困の規定性をみずに、「だらだら生きている」文化的下流の人々の物語だととらえるなら、当然『ウシジマくん』はこうとしか読めないだろう。

 こうした読みは、萌芽的には、ぼくがアンケートに答えた、宝島社の『このマンガがすごい 2007オトコ版』でも見られる。

このマンガがすごい! 2007・オトコ版 編集に中心的にたずさわったライターたちは、2006年度のランキングを総評して渡辺水央が「ダメ男たちが並び立った?」と書いた(同書p.6)。渡辺だけでなく、これはライターたちの共通する実感らしく、そのあとの座談会でも粟生こずえが「ダメ男の当たり年だ」と叫び、奈良崎コロスケが「そういう時代なんだよ」(同p.27)と応じている。
 その「ダメ男」を描写した作品の中に『ウシジマくん』が入っているのである。
 ベスト10入りした『ウシジマくん』を解説したのは大谷能生で、「追い込まれてゆくダメ人間にスポットを当てた怪作」と題し「どうしようもなく追い込まれてしまう駄目な都会人」(p.15)と評している。

 ぼくは、こうした読みがまったく間違っているとは思わない。
 それどころか、たしかにヤミ金にからめとられていく人間を一方的な無垢の被害者とはとらえずに、「消費社会」の中にしかけられた様々なワナに陥っていく「ダメ」さを描写したことは、息をのむリアルさを生み出すのに成功したと思う。
 「疲れて家に帰ってきてこんな漫画を読む気はない。私が漫画に求めるものと違う」と憤っていた我がつれあいは、「鬱ブログ」の話(フリーターの青年の話で、他人を見下しつつ、自分のダメさをブログにつづっている)になってからすっかり夢中になり、いまや「スピリッツ」で最初に読む漫画がこれだそうである(笑)。

 しかし、『ウシジマくん』の「面白さ」の核心は、こうした人間の「ダメ」さを思わず目をそむけたくなるようなリアルさで描きながら、それらが「消費社会」というような平板な社会像からではなく、さらにその深奥にある新自由主義下の貧困から、複雑なからみあい、転倒、倒錯をへながら現象していることを描いている点にある。



『ウシジマくん』を「現代的貧困」とみる

 NHKスペシャル「ワーキングプアII」の感想において、ワーキングプアのような働き方が増え、それを放置しておけばどのようなことがおきるのかを、ぼくは次のように書いた。


------ 引用 ここから ---------

 内橋克人がこの番組でのべた警告――「勤労が美徳とはならなくなる」という風潮が猖獗を極めるだろう。
 闇金融に堕ちていく人々の群像を描いた漫画、真鍋昌平の『闇金ウシジマくん』(小学館)のなかに、借金苦ではない形でフーゾクと闇金に絡め取られ、モラルを崩壊させていく女性たちの姿が描かれている。

 大卒で美人のヘルス嬢・杏奈は新人のヘルス嬢・モコに次のように諭す。

「景気がよくなったっていうけどさぁ――
 会社がリストラ発表すると、株価が上がるっていうじゃんか。
 それって会社が人件費削って利益が上がるからでしょ?
 ぶっちゃけ会社は正社員は幹部だけで、
 あとは臨時の契約社員でイインだよ!」

 正しい。正しすぎる。杏奈は続ける。

「契約社員なンて、いつクビ切られるかわかんねーし、
 スキルの付かない雑用やらされて、
 30歳くらいでクビ切られたらどーすンの?
 収入のあるダンナと結婚? どこにいるのだ!
 初任給だって、20万もいかないでしょ?」

 あまりにシャープに事態を見据えている杏奈だが、最後の最後で結論を間違えてしまう。

「そんなの月200万円稼ぐと、バカバカしくなるよ。」

 そして説教されているモコは思うのだった。

「200万円。
 すごいなァ……
 年収が200万円の人もいっぱいいるのに、
 杏奈さんは1か月で稼いでたんだ……
 すごいなァ……」

 ここには、まさに内橋が指摘した「勤労が美徳とはならなくなる」という問題が正確に表現されている(同書5巻p.146〜147)。

------ 引用 ここまで ---------



相対的貧困論とOL

 ちなみに、「絶対的貧困論」の克服は、タウンゼントという学者によってなされた。タウンゼントは、ラウントリー批判の急先鋒であった。

「タウンゼントは、具体的な貧困の境界を測るモノサシとして、標準的な生活洋式からの脱落、すなわち社会的剥奪(social deprivation)という概念を用いることにした。剥奪(deprivation)というのは、社会で標準になっているような生活習慣の下で暮らしていくことが奪われている、というような意味合いである。……タウンゼントは、具体的な剥奪の指標として、たとえば「過去4週間のうち親戚や友人を招かなかったもの」とか「子どもの誕生日パーティをしなかったもの」「1週間の半分以上、調理をした朝食を食べなかったもの」などを、「冷蔵庫がない」等とともに挙げている」(岩田p.42)

 こうした見地は「相対的貧困論」とよばれ、欧州で貧困を「再発見」させる契機となった。現在の貧困論のメインストリームである。

 こうして「人前に出て恥をかかないでいられるか」という社会的体裁維持なども、貧困の基準に入ってくる。仏教大学の金澤誠一教授が「健康で文化的な最低限度の生活」にふさわしい真の「最低生活費」をみきわめ、あるべき最低賃金を見定めようとした試みがあるのだが、そこではたとえば旅行や飲みに行くなどの社会的交際や娯楽、「七割の人が所有しているもの」などという基準をたてて価格調査をしている。

 そして金澤は、現代では商品という形で生活の多くが「社会化」されるために(たとえば家事のかわりに惣菜を買ったりレストランに行くし、バッグは自分でつくらず商品のバッグを買う)、「こうした商品の多くは大企業のマスメディアを通した『宣伝・誘導』により普及し、社会的慣習として受け入れられるようになり、半ば社会的に『強要』された消費としての性格を持つようになるのである」「したがって、高度に発達した社会では、社会的体裁維持(『人前に出て恥をかかないでいられるか』)のためには、それ以前に比べてより多くの生活財が必要となるのである。この……要因は、貧困概念の拡大を示唆している」(金澤「現代の貧困のあいまいさの克服と包括的最低生活保障」、「前衛」07.7)と指摘する。

 『ウシジマくん』1巻には、OL同士の社交やつきあい、「体裁」のために、「強要された消費」をつづけ、ヤミ金にまで手をだし、廃人になるまで搾り取られるOLが登場する。
 なるほど、このOL・村田久美子は「ダメ人間」である。ウシジマの言葉を借りれば、「アホ女」「見栄っ張り」なのだ。ぼくは村田が「汚れなき被害者」だと言うつもりは毛頭ないし、「自業自得」といえばそれまでである。

 にもかかわらず、村田の「自己責任」うんぬんの問題をこえて、ここに「現代の貧困」のロジックが働いていることを見ない訳にはいかない。
 そこには商品社会のもとでの生活の社会化によって、より多くの生活財を強要されるという力が間違いなく働いている。多くの人はそれに抗するのだが、抗えない人が資本主義社会の下では確実に一定数存在する。

 閉じたコミュニティの中では独自の相互競争(狂躁)原理が働いて、その文化集団内でのみ通用する価値観を、外部との調整抜きで、競うように先鋭化させていき、その独自作用によってとんでもない「前衛化」を果たしてしまうことがある。ひと昔前に「ガングロ」というスタイルが、外からみたら絶対的におかしいのに、ある文化集団内では競うように先鋭化していった現象などはまさにそれである。

 OLという閉じた文化集団のなかで「属したグループからのけものにされると会社にいられなくなっちゃいます。だから無理してでもグループに合わせるンです」(村田)ということがおきれば、「社会的体裁維持」の原理はその集団内で強烈に貫徹するだろう。非常にゆがんだ、特殊な形態で。もちろん、だからといって、断らない村田が「アホ」であることはかわりないが。
 しかしそこには、ただの「ダメ人間」模様にとどまらない、現代的貧困のありようが見える。



低学歴と貧困


 4〜5巻にかけて描かれる「ギャル汚くん」。
 ジュンは美貌をいかしてイベントサークルをつくり、大量の金を客や若者たちからすいあげるが、会場費、代理店の中間搾取、「豚塚」というチンピラへのケツモチ料などで、結局ジュンもいいように利用され、搾取される存在なのだ。

「豚塚みたく力のある不良は地元に残る。
 自分が優位に立てる場所を築いて
 ふんぞり返っていられっからな!!

 だが豚塚だっていずれ地元にヤクザに取り込まれるか、
 親戚の紹介で肉体労働で現場監督にコキ使われる運命だ。

 俺みてーな低学歴で力のねェ弱者が身を守るには、
 都心の人込みに身を隠すか、
 地元の実家に引きこもるしかねェ。

 金も学歴も力もねェ弱者が、
 優位な“何者”かになるのは大変だ。」

 ジュンのモノローグである。ここまではジュンの認識には、ある意味リアルさがある。しかしやはり結論にいたって、ジュンは飛躍してしまうのだ。

「ほとんどの奴が不本意な単純作業の日常。
 だが、チャンスはある。
 人脈を利用して上へ昇るチャンスが…」

 それがジュンの場合、イベントサークルを足がかりに「上」へ行くということなのだ。

 岩田正美は『現代の貧困』のなかで、中流層が一律に貧困化するのではなく、ある特定の「不利な人々」が貧困にとじこめられてしまうことが現代の貧困にとって考えねばならない問題なのだと説く。そして貧困から脱出できない要因の第一に「低学歴」をあげる。

 岩田は、ポスト工業社会だからこそ、労働者は高度な知識や技術を駆使する金融・情報などのサービス労働と、マクドナルド・プロレタリアートという熟練不要のサービス労働に二極化するという問題をあげた。これに終身雇用制や多様な技能を必要とした中小企業群の崩壊をくわえ、低学歴であることが、現代では貧困脱出において致命的な問題をひきおこすことを指摘する。

「これ以上伸びない『成熟学歴社会』に突入したからこそ、大学卒業と非大学卒業の学歴識別が、あたかも男女の区別のような社会的地位の格差を示す境界になってきており、この大卒/非大卒の境界線こそが社会の二極化を進めている」(岩田p.142〜143)

と計量社会学者・吉川徹の説を肯定的に紹介している。

 ジュンの焦燥は低学歴であることが貧困に身をしずめることと同義であるという社会認識にもとづいている。ジュンを「ダメ男」と笑うのは簡単であるが、読者がジュンの絶望をその根底に見るかどうかでジュンという形象の迫力はまるでちがってくるだろう。

 2〜3巻「ヤンキーくん」シリーズに出てくる人々は輪をかけて「下層」である。
 暴走族のヘッドである愛沢、そのバイクを盗んだマサルと友人たち。

「テメェーは貧乏人の息子で金がねェ!!
 おまけに無職の未成年で
 消費者金融からも借りれねェーときた……」

「こいつら脅して親から金引っぱれたら話は早いが、
 どいつもこいつも
 家がビンボーで金がねェ!」

 貧困と低学歴の泥沼のなかで、他人に非道な暴力をふるう愛沢自身も、またその上位にあるヤクザに食い物にされている。自分からそれを奪ったら何も残らない「暴走族」の維持にしがみつき、法外な金をたえず要求されている。
 そして、ついに200万を用意しなければ自分が「終わる」ところまで追い込まれる。

「そうだ! 俺がこーなったのは金のせいだ!!
 俺の家がびんぼーだったのがいけねーンだ!
 みんなが持ってるおもちゃを、
 俺は持ってなかった。
 俺は横取りするしか手に入れる方法がない。
 『え〜ん。』
 『愛沢くんと遊んじゃダメでしょ〜。』
 って、よく言われた。
 そのたびに『あー、またかー』って
 傷ついてたんだ……
 だが、ガキの頃は今みてーに言葉にして理解できなくて
 ただ……
 へらへら笑って自分をごまかした。
 
 今はもうごまかす事すら出来ね――
 日本中のバカが集まる工業高校を中退して、
 知り合いのつてで入った塗装工も運送屋も
 ダルくてすぐ辞めちまった。

 何ひとつ続かねェ。

 何ひとつものにならねェ……。

 なるようになって
 今、すべてのツケが俺にのしかかってきた。」

 こう書いたからといって愛沢は「被害者」ではない。この愛沢のモノローグのあと、行きずりのアベックを襲い、非道・無法の限りをつくす愛沢にぼくは反吐が出そうだ。そしてこのモノローグさえ、自分勝手な言い分が随所にこめられている。
 しかし。
 にもかかわらず、やはりこの愛沢の独白、そして人生には貧困ゆえの哀愁がただよっていまくっている。
 ついにダンプへ飛び込む絶対的窮地に追い込まれる愛沢。
 すべてを諦め、ダンプにとびこもうとする瞬間の愛沢を描いたコマほど絶望に満ちたコマはない。漫画史上に残ると言っても過言ではないだろう。ここでは貧困が、犯罪や抑圧、「自己責任」と複雑にからみあいながら、ひとりの人間を最も凄惨な運命に落とし込んでいく様が目を背けたくなるほどのリアルさで描かれている。それを「ダメ人間」や「消費社会」という言葉で説明する「軽さ」にぼくはどうしても同意することはできない。

 『ウシジマくん』はまさに「貧困」を描いた漫画である。





小学館ビッグコミックス
1〜8巻(以後続刊)
2007.6.14感想記
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